No.9
夜の帳に優しさを知る
 南の海にぽつりと浮かぶ島国シンドリアには、ほかではなかなか見ることのない植物が幾種も自生している。それをひとつひとつ調べ、ときには名前をつけたり利用法を考えたりすることが、今の私の仕事であった。
 これまで与えられてきたものに比べて随分と真っ当な仕事で、穏やかな仕事だとつくづく思う。まだこの仕事を初めて日は浅く、手探りで進めている面も多々あれど、やり甲斐がある仕事には違いなかった。
 今の調査範囲は王宮から程近い森で、しばしばマスルールが昼寝をしているところだ。最初は勝手知ったる者に案内してもらうのが良かろうと、先週までは一緒に森の中を探索していたのだけれども、当然のことながらマスルールにはマスルールの仕事がある。あまり迷惑をかけてはいられない。
 そういうわけで、三日前からは一人でこの森に入っている。森という環境そのものは昔から好きだし、ここはそう大きくない森であるから、よほどのことがなければ道に迷うこともない。唯一困ることといえば、森に住む生き物たちが未だ警戒して時おり攻撃を仕掛けてくることだった。
 その中でもとりわけ厄介なのがパパゴラス鳥である。
 彼らはマスルールのことを強者と見なしているようで、マスルールが一緒にいれば決して襲ってこない。しかし、一人でいるときに群れと遭遇するとそれはもう大変なことになる。侵入者たる私への敵意を剥き出しにし、容赦がないのだ。魔法を使えばどうとでも撃退できるので怪我こそしたことはないものの、今後も頻繁に森に立ち入ることになる以上はどうにかして友好な関係を築く必要がある。
 難しいなあと独りごちて、鬱蒼とした森の奥へ足を進めた。温い風がどこからか生き物の鳴き声を運んできて、ざわざわと木々の葉を揺らしながら吹き抜けていく。本当に、穏やかな心地だった。
 目的の場所に着くと、私は地面に膝をついた。大きな木の根元に群生する小さな花を、一本だけ慎重に引き抜く。
 これとよく似たものをもう少し北の方の国でも見かけたことがあるけれども、それの亜種なのだろうか。それとも、少し外見が似ているだけの別種?
 丁寧に抜いたあとは、魔法で作った氷の中に閉じ込めた。持ち帰ってからゆっくり観察して、類似の植物と比較しなければならない。植物について書いてあるものならなんでも、とにかくたくさんの文献をあたってみる必要がある。
 そうやって、場所を少しずつ移動しながら大きなものから小さなものまで、二十数種の植物を採取した。氷漬けの植物を篭に入れ、最初に採取をしたあの木のあるところまで戻る。少し疲れてしまったので、その根元に座り込んで幹に体を預けた。

「──ろ、エル。起きろ」

 どれくらいそうしていたのだろう、私はうっかり眠ってしまったらしい。名前を呼ぶ低い声と、肩を揺すられる感覚に目を覚ました。

「あれ……?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返す。辺りはすっかり暗くなっていて、頬を撫でる風も温度が下がっている。赤い髪が月明かりに照らされて見えた。

「いつからここにいた」

 マスルールが低い声で問う。

「昼頃から……」

 まだぼんやりとしている頭で記憶を辿り、そう答えると、マスルールが呆れたような溜息を吐き出した。

「暗くなっても帰って来ないから……というか、今日ほとんど姿が見えなかったって、大騒ぎになってる」
「えっ」
「まあ、騒いでるのはピスティとヤムライハさんとシンさんで、ジャーファルさんは呆れてた」

 たかが居眠りで騒ぎになろうとは思いもしなかった。というよりも、本当は居眠りをするつもりなどなかったし、日が暮れる前には帰る予定だったのだ。申し訳ないやら情けないやらで言葉に詰まって苦笑いを浮かべると、マスルールが眉をひそめたような気がした。

「帰るぞ」
「うん」

 篭を持って立ち上がる。服にはすっかり皺が寄っていた。座ったまま寝ていたせいかみしみしと音を立てる不甲斐ない体を伸ばしていると、少し離れた木の枝にパパゴラス鳥が三羽程とまって、こちらの様子を伺っているのが見えた。

「マスルールについてきたんだね」
「……いや。俺が来たときにはあそこにいた」
「でも、この辺りは彼らの縄張りじゃないはずでしょう」

 私たちが歩き始めれば、鳥たちもどこかへ──おそらく彼らの縄張りに──飛んでいった。いつからあの鳥はあそこに居たのだろう。よく攻撃されなかったものだと思う。少しずつ警戒を解いてくれているのだったら、嬉しいのだけれども。
 飛んでいった方を眺めていると、マスルールが静かに急かした。

「早く。シンさんたちが待ってる」
「うん。心配かけて、悪いことをしてしまったね」
「結局、ただの居眠り……」

 ぼそりとマスルールが呟く。私は「これからはちゃんと気をつけるよ」と呟き返して、その隣を歩いた。
 月明かりのお陰で、夜の森を歩くのもわけなかったし、道を見失うこともない。それでもまるで私がはぐれるのではないかというように、マスルールが何度もこちらを振り返るので、私は可笑しくなって思わず笑ってしまったのだった。

150805
- ナノ -