ややあって、下からハリーの声がした。
「飛び降りても大丈夫だよ!」
「よし、僕が行く」
 ロンが歯を食いしばって飛び降りた。
「本当に大丈夫なのかしら」
 ハーマイオニーが不安げに呟く。フェリシアは険しい顔で首を傾げた。
「さあ、ハーマイオニー、おいでよ!」
 下からまた声がした。ハーマイオニーが意を決したように飛び降りたのを確かめ、フェリシアも横笛を吹きながら仕掛け扉に飛び込んだ。横笛が唇から離れたとたんにフラッフィーのうなり声が聞こえ、すぐにけたたましい吠え声に変わったが、その頃にはハリーの向かい側に着地に着地していた。地面は想像していたほど固くない。
 しかし、耳に飛び込んできたのはハーマイオニーの悲鳴だ。
「二人とも自分を見てごらんなさいよ!」
 フェリシアは弾かれるように足元を見た。自分が落ちたのは植物の上で、そのツルがヘビのように動き、体に巻き付こうとしている。少し前にハーマイオニーがそうしたように、フェリシアはどうにか振りほどいて、ハーマイオニーのいる壁の方に逃げた。
「『悪魔の罠』だわ!」
 それなら弱点は──と考えたところで、フェリシアは気がついた。杖がない。暗がりの中で必死に目を凝らすと、ハリーのそばに見慣れた杖が落ちている。着地の時に落としてしまったらしい。急がなければ──ハリーとロンはもう息絶え絶えだ。
 フェリシアは、必死に記憶を辿っているハーマイオニーに向かって叫んだ。
「ハーマイオニー、火!」
「そうだわ……それよ……でも薪がないわ!」
「気が変になったのか! 君はそれでも魔女か!」ロンが大声を出した。
「あっ、そうだった!」
 ハーマイオニーはサッと杖を取りだし、十八番のリンドウ色の炎を悪魔の罠めがけて噴射した。たちまちツルは竦み上がり、へなへなとほぐれていく。二人はツルを振り払って自由になり、ハリーはフェリシアの杖を拾ってきてくれた。
「ああ、ありがとう、ごめんなさい──」
「いや、君たちが薬草学をちゃんと勉強していてくれてよかったよ」
「ほんとだ。それにしても、『薪がないわ』なんて、まったく……」とロンが言った。
「目の前で友達が絞め殺されそうになってたら、誰だって動転するでしょ」フェリシアがたしなめた。
「こっちだ」
 ハリーが奥へ続く石の一本道を指差し、四人は歩き始めた。時折、水滴が壁を伝い落ちるかすかな音がする。やがて、柔らかく擦れ合う音やチリンチリンという音が聞こえてきた。
「何か聞こえないか?」
「ゴーストかな?」
「わからない……羽の音みたいに聞こえるけど」
「ベルみたいな音も聞こえない?」
「前のほうに光が見える……何か動いてる」
 四人は通路の出口に出た。アーチ形の高い天井をした眩しい部屋だ。部屋のなかでは、宝石のようにキラキラした小鳥が無数に飛び回っている。部屋の向こう側には分厚い木の扉があり、奥に行くにはその扉を通るしかなそうだった。
「僕たちが部屋を横切ったら鳥が襲ってくるんだろうか?」
「たぶんね。そんなに獰猛には見えないけど、もし全部いっぺんに飛びかかってきたら……でも、ほかに手段はない……僕は走るよ」
 ハリーが大きく息を吸い込み、部屋を駆け抜けていく。三人は今にもハリーが襲われるのではないかと恐々見守ったが、予想に反して何も起こらなかった。ハリーは無傷である。三人もあとを追う。扉には鍵がかかっていて、全員で押したり引いたりしてみたがびくともしない。アロホモラ呪文も試してみたがだめだった。
「どうする?」
「鳥よ……鳥はただ飾りでここにいるんじゃないはずだわ」
 頭上の小鳥を見上げた。やはりキラキラと輝いていて、羽音に混じってあの金属がぶつかるようなチリンチリンという音がする。──金属のような?
 フェリシアは閃いた。あの鳥のようなものは──
「鳥じゃないんだ! 鍵なんだよ!」突然ハリーが言った。
「羽のついた鍵だ。よく見てごらん。ということは……よし。ほら! 箒だ! ドアを開ける鍵を捕まえなくちゃいけないんだ!」 
「でも、何百羽もいるよ!」
 ロンはそう言いながら、扉の錠を調べた。
「大きくて昔風の鍵を探すんだ……たぶん取っ手と同じ銀製だ」
「見つかるかしら」
「大丈夫。我らが最年少シーカーがいるんだから」
 四人はそれぞれ箒を取ると、鍵の雲の真っ只中へと舞い上がった。鍵の鳥たちはなかなかすばしこく動き回ったが、最年少シーカーは伊達ではない。ハリーがそれらしき鍵を見つけると、 四人で追い込み、あっという間にハリーが捕獲に成功した。歓声を上げながらも大急ぎで着地して、扉の鍵穴に差し込んでみると、きちんと錠の外れる音がした。鍵は飛び去ってしまったが、二度も捕まったせいで羽がひしゃげた痛々しい飛び方をしていた。
「いいかい?」ハリーが取っ手に手をかけながら尋ねる。三人が頷くと、ハリーは取っ手を引っ張った。
 真っ暗な部屋だと思ったのは最初だけで、一歩中に入ると、突然光が溢れた。
 眩しさに目を細めながら見ると、そこには大きなチェス盤がある。四人は黒い駒のほうに立っていた。黒い石のようなものでできた駒は、どれも四人より背が高い。部屋の向こう側には、同じように背の高い白い駒が並んでいた。
「さあ、どうしたらいいんだろう?」ハリーが囁いた。
「見ればわかるよ。だろう? 向こうに行くにはチェスをしなくちゃ」とロンが答えた。
 白い駒の向こうに、確かに扉が見えている。
「どうやるの?」
「たぶん、僕たちがチェスの駒にならなくちゃいけないんだ」
 ロンが黒のナイトに近づき、手を伸ばして馬に触れた。すると、石でできているはずの馬が蹄で地面を掻き、兜を被ったナイトがロンを見下ろした。
「僕たち……あの……向こうに行くにはチェスに参加しなくちゃいけませんか?」
 黒のナイトが頷き、ロンが三人を振り返った。
「ちょっと考えさせて……僕たち四人がひとつずつ黒い駒の役目をしなくちゃいけないんだ……」
 三人はロンが考えを巡らせているのを大人しく見ていた。この中で最もチェスが上手いのはロンだと、三人ともわかっていたからだ。
「気を悪くしないでくれよ。でも君たちチェスはあまり上手じゃないから……」
「気を悪くなんかするもんか。何をしたらいいのか言ってくれ」ハリーが即座に答えた。
「じゃ、ハリー。君はビショップとかわって。ハーマイオニーはハリーの隣のルークの代わりを。フェリシアはむこうのビショップと代わってくれ」
「ロンは?」
「僕はナイトになるよ」
 チェスの駒はロンの言葉を聞いていたようで、黒のナイト、ビショップ、ルークがチェス盤を降り、四人に持ち場を譲った。
「白駒が先手なんだ。ほら……見て……」
 言葉通り、白のポーンが二つ前に進んだ。
 ロンは黒駒に動きを指示し始めた。駒はロンの言うとおり黙々と動く。ロンと対になっている黒のナイトが取られてしまった時が最初のショックだった。白のクイーンが黒のナイトを床に叩きつけ、チェス盤の外にひきずり出したのだ。あれがもしも、自分たちのなかの誰かだったら? 想像してしまって、フェリシアは恐ろしくなった。どうかハリーたちが取られずにすみますように、そう願うしかない。
 しばらくすると、壁際には白と黒の負傷した駒が累々と積み上がった。
「……フェリシア」
 考え込んでいたロンが真っ青な顔をして、フェリシアを呼んだ。
「僕──ごめん──」
 それだけで察しがつく。「……うん」フェリシアは震える膝を無視して頷いた。「どこに進めばいい?」
 ハリーとハーマイオニーが止めるように叫んだが、ロンがそうするべきだと考えたなら、フェリシアはそれを信じて進むだけだ。「これが魔法使いのチェスなんだよ」
 ロンの指示通りに進む。白駒が飛びかかってくる──咄嗟に目を閉じたフェリシアは、そのまま意識を手放した。



「──フェリシア! 」
 フェリシアが意識を取り戻すと、目の前にハリーとハーマイオニーの顔があった。
「ああ、よかった!」
 ハーマイオニーに抱きつかれながら、フェリシアは視線を動かした。頭がひどくぐらぐらするし、杖腕が痛い。折れているのかもしれない。
「ロンは?」
「僕にチェックメイトさせるために取られて……気を失ってる」
 ハリーが辛そうに言った。
「フェリシア、君はどうにかロンを起こして引き返してくれ。そして鍵が飛び回ってる部屋で箒に乗る。そうすれば、仕掛け扉もフラッフィーも飛び越えて行けるはずだ。ここから出たらまっすぐふくろう小屋へ行って、ダンブルドアにふくろうを送ってほしい。やっぱり彼が必要なんだ」
「わかった……大急ぎで行く」フェリシアは力強く頷いた。「最後まで一緒に行きたかったけど」
「もう十分だよ」
「全然足りないよ……」
 フェリシアは目の前のハリーとハーマイオニーを二人まとめて抱き締めた。ハリーがあたふたしているのも構わず、力一杯抱き締める。この先で二人に何かあったらどうしよう。フェリシアは結局なんの役にも立っていない。情けない。なんの贖罪にもならなかった。
「お守り。持っていって」
 フェリシアは、ハリーにハンカチを押しつけた。見覚えがあるそのハンカチを見て、弱々しくハリーが微笑んだ。
「ありがとう」
「絶対無事で戻ってきてね。私も、絶対間に合わせるから」
 いかにも後ろ髪を引かれているような顔をした二人を見送って、フェリシアは立ち上がった。
「エピスキー」
 杖腕でないほうで杖を振るのは初めてだったが、いくらか痛みがマシになったような気がした。しかし、それでもズキズキとした痛みはまだ全体に残っている。失敗したのかもしれない。そう思ったが、自分の腕が多少痛むくらい今は気にしていられない。杖を持ち直すと、倒れていたロンに駆け寄って杖を振った。
「リナベイト! お願い──リナベイト!」
 腕が痛むせいでおかしな振り方になっているのか、あるいは使い慣れない呪文だからか、一度ではロンは目を覚まさなかった。祈るような気持ちで繰り返していると、三度目にようやくロンがゆっくりと瞬きをして、フェリシアを見た。
「……フェリシア」
「大丈夫? 何があったか覚えてる?」
「うん、大丈夫、覚えてる。それより君、大丈夫かい? 怪我は?」
「大丈夫だよ」
「よかった!」
 突然ロンが抱きついてきたので、フェリシアは驚いて思わず肩を大きく揺らした。
「目を覚まさなかったらどうしようかと……」
 そうするしかなかったとはいえ、ロンの指示でフェリシアは白駒に取られたのだから、気に病むのも無理はない。腕は痛んだが、フェリシアはそれを悟られないようにロンを軽く抱き締め返した。
「ロンも目を覚ましてよかった」
「うん……ほんと……えっ? うわっ!」突然ロンは大声を上げて飛び退いた。「ごめん!」自分から抱きついてきたくせに、耳まで真っ赤だ。
「アー、ごほん……そういえばハリーたちは……」
 取り繕うように咳払いをしたロンが立ち上がったので、フェリシアも立ち上がった。
「二人は先に進んだよ。私たちは、ここで引き返す。大至急ふくろう小屋へ行って、ダンブルドアに手紙を送らなくちゃ……手遅れになる前に」
 それから二人はどちらからともなく駆け出した。鍵の部屋に行って箒をひっつかみ、そのままの勢いで飛び乗る。悪魔の罠の上を飛び越え、フラッフィーの上も──フェリシアが念のため預かったままだった横笛を片手で吹いて──なんなく通りすぎ、二本の矢のように四階の廊下へ飛び出した。

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