あれから何週間かが経ったが、クィレルはハリー達が考える以上の粘りを見せた。相変わらずスネイプは不機嫌で、石が奪われたような様子もなく、多少クィレルがやつれたように見える以外は何も変わらない。
 ハリーやロンはそれを好ましく思っているようで、ハリーはクィレルと出会す度に励ますような笑顔を向けていたし、ロンはクィレルの吃りをからかう連中を嗜めていたが、フェリシアはもやもやする気持ちを抱えたままだった。クィレルは本当にスネイプに石の件で脅されていたのだろうか。そうだとしたら、ダンブルドアには報告しただろうか。スネイプが未だ教鞭をとっているということは、報告していないということ? それとも、スネイプが上手いこと言い逃れた?
 疑問は増えるばかりだったが、フェリシアはそれを誰に言うこともなかった。ハリーたちは、スネイプが黒で臆病なクィレルが必死に抵抗している最中だとすっかり決め込んでいる。フェリシアが何か言ったところで、三対一だ。取り合ってくれる見込みはほとんどない。それでも、フェリシアはハリーの初試合の日にいつもと明らかに様子の違うクィレルを見ているのだ。普段のクィレルとは到底結びつかないような落ち着きと、冷たく鋭い雰囲気。思い出す度、そのちぐはぐさが引っ掛かる。
 しかし、そうやって石やらクィレルやらのことばかり考えているわけにもいかなかった。両親やリーマス・ルーピンのことも考えたいし、十週間先の期末試験に向けて復習を始めたハーマイオニーが、フェリシアたちにもそうするように勧めてきたからだ。その上、ハーマイオニーと同意見らしい先生方は山のように宿題を出した。
 復活祭の休み中、ハーマイオニーがせっせと勉強に励む横で、フェリシアが試験とは全く関係ない本を開いていると、ハーマイオニーは眉をひそめた。
「ねぇ、フェリシア? 読書するのは良いけれど、勉強しなくて良いの?」
「宿題なら終わらせたよ」
「それだけ?」
「そうだけど」
「宿題だけで足りるっていうの?」
 ハーマイオニーは信じられないと言いたげに目を見開いたかと思うと、すぐにキッと鋭い目つきをしてフェリシアの手元を睨みつけた。
「試験を甘く見ちゃいけないわ!」
「けどさ、ハーマイオニー。フェリシアも君と同じで、普段の授業でも間違えたことなんかないじゃないか」
 ハリーが口を挟み、聞いていたロンも面倒くさそうに続けた。
「何よりフェリシアはあの山のような宿題を涼しい顔でさっさと終わらせて、こうして試験の内容とは関係ない本を読んでるんだぜ。今さら復習なんかしなくたって、何もかもぜーんぶ覚えてるのさ」
「嫌味な言い方だなあ」
「おや、そうかい」ロンはわざとらしくとぼけた表情で肩をすくめた。「そんなつもりはなかったんだけどなあ」
「……ああ、もう! どうしてあなたたちは──」
 ハーマイオニーの雷が落ちることを察したフェリシアは本を閉じて机に突っ伏し、ロンに小突かれても顔を上げなかった。
 そんなこともあって、自由時間のほとんどを四人一緒に図書館で過ごし、復習に精を出す日々が続いた。そうはいってもフェリシアにはこれといって不得意な教科もなかったし、成績は優秀なほうだ。いくらハーマイオニーが口を酸っぱくしても、授業の内容はほとんど覚えているのであまり意欲的にはなれず、どちらかといえばロンやハリーに教えることのほうが多かった(「人に教えるっていうのも、復習方法のひとつだからね」)。
 そして、数ヶ月振りの素晴らしい天気のある日、フェリシアは「マクゴナガル先生に質問をしに行く」といってついに図書館での勉強会を抜け出した。勉強のことを訊くつもりはこれっぽっちもないとはいえ、嘘はついていない。フェリシアは足早にマクゴナガル先生の部屋を訪ねた。
「どうかしましたか、ミス・トンクス」
「質問したいことがあるんです」
「授業のことですか?」
「いいえ。……家族のことです」
「……わかりました、お掛けなさい」
 マクゴナガル先生が示した椅子に腰を下ろすと、すぐに温かい紅茶が用意された。フェリシアが受け取って口をつけるのを、マクゴナガル先生は静かに見つめていた。
「今回は何を聞きたいのですか?」
「いくつかあるんですが……あの、お母さんとお父さんの親友だったミスター・ルーピンが今どこにいらっしゃるかご存知ですか?」
「……それは、誰にもわかりません」
 先生は沈痛な面持ちで答えた。
「ポッター夫妻の訃報に、ブラックの事件──たった数日でひどくやつれて……クロエの葬儀で会ったのが最後です。それ以来、彼と連絡がとれた者はいません。ダンブルドア先生でさえ、彼が今どこで何をしているのかはご存知ないでしょう」
「……そうですか」
 親友を何人も立て続けに亡くし、その原因は一人の親友の裏切り。つらくないはずがない。いや、つらいなんて陳腐な言葉では言い表すことができないほどに苦しかっただろう。写真の中の優しい笑顔を思い出し、フェリシアは目の奥が熱くなった。
「私は両親のことを知らないので、ミスター・ルーピンに色々訊けたらいいなと思ったのですが……」
「居場所がわかっていたとしても、話してくれたかはわかりませんよ。ミスター・ルーピンにとって昔を思い出すのは、身を切り裂かれるほどつらいことかもしれません」
 フェリシアは膝の上でぎゅっと手を握り締めた。瞼の裏に笑顔に溢れた写真がちらつく。
「……それじゃあ、昔のお母さんやお父さんを知ることができるものって何か心当たりありませんか? 知っている人でも良いんですけど」
「……知っている人には心当たりがありますが、彼が話してくれることはないでしょうね。もの、というなら、クロエの遺品を私が持っています」
「それって、クリスマスに頂いたアルバムみたいなものですか?」
「ええ、まあアルバムなどももちろんありますが──クリスマスに贈ったアルバムは、私のものです。クロエが卒業した年、私にプレゼントしてくれたものでした」
「えっ? それを私が頂いてしまって良かったんですか?」
「良いのです。写真はほかにもありますし、思い出もあります。私よりあなたが持っているべきでしょう」
 マクゴナガル先生は微笑んだが、眼鏡の奥の瞳は悲しげだった。
「遺品というのは、当時あなたたちが住んでいた家に残っていたものです。ブラックの事件に関連して、一部はもっともらしい理由をこじつけた魔法省の役人に押収されましたが、ほとんどは私が引き取りました。……クロエと共に埋葬したものや、ミスター・ルーピンが引き取ったものもいくつかありますが」
 フェリシアは黙りこんでマクゴナガル先生を見つめた。クロエの話をするときのマクゴナガル先生は、普段は決して見られないような表情ばかり浮かべる。その度にいつも、見慣れないせいかそわそわと落ち着かない気持ちになってしまう(しかし、そういう一面を見てから、マクゴナガル先生がより好きになったのも事実だった)。
「フェリシア、私は、思うのですが」
 静かに、そして少しの迷いが感じられる声で、マクゴナガル先生が言った。
「あなたが、フェリシア・トンクスとして幸せなら、クロエやシリウスのことに拘らずとも良いのではないですか?」
「え……?」
「あなたは今、フェリシア・トンクスです。トンクス家の次女として、クロエもシリウスも関係ない、二人の名前さえ知らない少女でいられる。もしもあなたがシリウス・ブラックの娘だということが知れ渡れば、あなたは世間の目に晒されることになります。その日は、遅かれ早かれ訪れるでしょう。シリウス・ブラックに娘がいたことは、既に世間に知られていて、奇しくもあなたは父親似なのですから。ですが、あなたには肉親に関する記憶がないのです。世間に何を言われても、自分は何も知らなかったと、主張できます。知ってしまえば、言い訳することさえできません。親の仕出かしたことを知りながら平然と生きていたのかと、馬鹿げた罵倒をする者も出てくるでしょう」
 最後のほうは、声が小さく震えていた。
 フェリシアはダンブルドアがトンクス家にやって来た日のことを思い出した。アンドロメダのすすり泣きとテッドの苦しげな表情。フェリシアをまっすぐに見る、ダンブルドアのキラキラしたブルーの瞳。
 マクゴナガル先生の言うことはきっともっともなのだろうし、この場にアンドロメダがいれば一も二もなくマクゴナガル先生に賛成しただろう。マクゴナガル先生が、フェリシアのことを案じてくれていることもわかる。
 しかし、何も知らないままでいて、本当にそれで良いのだろうか。フェリシアは意を決してマクゴナガル先生を見つめ返した。
「でも……でも、先生。クロエとシリウスの二人がいなかったら、私は生まれていません。どんなに今の両親が愛してくれたって、私のルーツはクロエとシリウスで、だから、出来るだけたくさんのことを、知っておきたいんです」
「つらい思いをするのはあなたなのですよ、フェリシア! トンクス家の人々も、胸を痛めるはずです」
「他人にどう言われようと、それが的を射ているなら頑張って受け止めるし、筋違いならはね除けてやります。そのためには、本当のことを知って、自分なりにきちんと考えなくちゃいけないんです。……パパとママには、申し訳ないと思いますけど、それでも……これは私自身のことなんです、マクゴナガル先生」
 私が口を閉じ、マクゴナガル先生も黙ったまま、まっすぐにお互いの目を見ていた。まるで時間までも止まっているかのようだった。
 少しして、先に口を開いたのはマクゴナガル先生だった。
「……本当に、ダンブルドア先生が仰った通りの子ですね。クロエに似て、聡くて、それでいて頑固で」
「ええと……すみません」
「あなたもクロエも仕方のない子です、本当に」
 何故か今にもマクゴナガル先生が泣いてしまいそうに思えて、フェリシアはドキドキした。
「遺品を今全て渡すことはできませんが、そうですね──少しお待ちなさい」
 マクゴナガル先生が席を立って、部屋の隅へ向かった。そこには古びたチェストが置かれていて、先生は何か呟きながら杖でコツコツとチェストを叩く。中は見えなかったが、先生はそこから何か取り出してからまたきっちりとチェストを閉め、フェリシアの前に戻ってきた。一冊の古びたノートを大切そうに抱えている。
「クロエが一年生のときの日記です」
 差し出された青表紙のノートを受け取り、パラパラとページを捲ってみる。写真の裏に書かれていた字を思い出される筆跡が並んでいた。フェリシアの筆跡に似ている。時々、端のほうに小さな落書きのイラストがあるページもあった。
「お母さんは日記をつけていたんですね……」
「ええ、とはいってもこの頃はあまりマメには書いていなかったようですが。学年が上がると、研究日誌代わりにしていたのかマメに書かれています」
「研究?」
「学生時代から新しい魔法薬やら呪文やらを自分で考えていたようです。本当に、優秀な子でした──ああ、その日記にはそういう類いのことは書かれていませんよ」マクゴナガル先生は、フェリシアがきらりと目を輝かせたのを見逃さなかった。
「書かれているものは、あなたがもっと多くのことを学ぶまでは渡せません。いくらあなたが優秀だとはいえ、一年生が未完成の呪文を真似したらと思うと!」
 フェリシアは、何も言えずに目を泳がせた。
「…………先生は、日記を全部読んだのですか?」
「いいえ、軽く目を通した程度です。私には知られたくないようなことも勿論書いていたでしょうからね」
 日記を見つめる目がとても優しい。フェリシアはそっと色の褪せた表紙を撫でた。

160218
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