午後三時の五分前、ハリーとロンと合流して城を出た。広い校庭を横切り、森の側にあるハグリッドの小屋へと向かう。ハリーは魔法薬学の授業のことでまだ少し気が沈んでいるようだった。
 小屋の前に着き、並んでドアをノックすると、中から爪で引っ掻くような音と低い唸り声がした。続いて「退がれ、ファング」とハグリッドの野太い声が聞こえ、ドアが開く。ハグリッドは大きな黒い犬の首輪を引っ張りながら三人を招き入れた。先程の唸り声の主はこの犬──ファングだったらしい。
「よう来たな。くつろいでくれや」
 ハグリッドが首輪を離した途端、ファングは一直線にロンに飛びかかった。ロンのべろべろと耳を舐め回している。フェリシアはその横から手を伸ばし、ファングの黒い毛に触れた。
「こんにちは、ファング」
 尻尾を振ってすり寄って来たファングを、フェリシアはにこにこと笑顔で撫で回す。ロンはその隙にこれ幸いとばかりに素早くファングから距離を取り、ファングのよだれでべとべとになった耳を拭いている。
「犬、好きなの?」
「うん、大好き」
 フェリシアは動物全般が好きだが、中でも犬は小さな頃から好きだった。理由もきっかけも覚えていない。ただ、物心ついた頃には既に、犬が好きだったような気がする。
「友達のロンとフェリシアだよ」
 大きな椅子に並んで腰掛けながら(フェリシアはまだ床に座り込んでファングを撫でていた)、ハリーが二人をハグリッドに紹介した。ハグリッドのコガネムシのような目がフェリシアにとまり、丸く見開かれる。フェリシアはハッとしてハグリッドの目を見つめ返した。これはシリウス・ブラックの子供の頃を知っている人の反応だ。間違いない。
「お前さん、もしかして──」
「うん、フェリシア・トンクスだよ」
 フェリシアはトンクスを少し強調して言った。万が一にも、この場でシリウス・ブラックの名前を出されるわけにはいかないのだ。ハグリッドは数回瞬きをしたあと、何度も頷いた。
「ああ、そう、そうだな──あのちっちゃなフェリシアが、こーんなに大きくなって……」
 しみじみとした口調でそういうと、ハンカチを取り出して鼻をかんだ。
「目が母さんにそっくりだ」
「かたちだけね」
「いんや──クロエとおんなじ気の強そうな目だ。クロエは素晴らしい魔女だったが、ちと頑固でなあ。周りが何と言おうと、一度こうと決めたら滅多なことじゃ決して曲げねえ。それがクロエの良いところで……悪いところでもあったんだ。よく、リリーが呆れてたもんだ」
「リリー?」
「ハリーの母さんだ」
 ハグリッドが頷くと、たまらずハリーが口を開いた。
「僕のママとフェリシアのママは友達だったの?」
「ああ、本当に仲が良かった。フェリシアが生まれて、ハリーが生まれて──将来はお前さんたち二人を結婚させたいなんて話してたくらいだ」
 からかうようにハグリッドがくつくつと笑い、ハリーがちらりとフェリシアを見て顔を赤くした。
「どうだ、ハリー。フェリシアはきっと母さんに似て美人になるぞ」
「ハグリッド、からかうのはやめてよ」
 モゴモゴとハリーが言う。フェリシアは何とも言えない気持ちでそのやり取りを見ていた。
 きっと幸せな日々だったのだ。もしもハリーの両親が生きていて、シリウス・ブラックが──あるいは別の誰かが──裏切ったりしなければ、今頃ハリーとフェリシアは家族ぐるみで仲が良い幼馴染みとしてここにいたのかもしれない。しかし、たった一人の裏切りでそんな未来は永遠に奪われてしまった。
 フェリシアが何も言えずにいると、ハグリッドが気遣うようにその顔を見る。困ったように笑い返せば、ハグリッドはそれ以上話を続けることはしなかった。
「そんで、お前さんはロンっつったか? ウィーズリー家の子かい?」
 話の矛先がロンに向かったことに安堵し、フェリシアはひっそりと息を吐き出した。話している間中、ハグリッドの懐かしむような瞳の奥に悲しみと怒りが見え隠れしていたことに、フェリシアは気がついていた。シリウス・ブラックを許せないのだろう。シリウス・ブラックのせいでポッター夫妻は死んでしまったし、クロエだって、シリウスを信じて無実を証明しようとしたがために死に急いだようなものだ。許せないとしても、それはごく自然な感情に違いない。
 それでも、フェリシアはシリウス・ブラックの罪に疑問を抱いている。ハグリッドが知ったらどう思うだろう。激怒して、バカなことを考えるなと言って、説得しようとするかもしれない。
 訊きたいことはたくさんあるのに、誰にどうやって訊けば良いかを考えるほど気が沈んだ。思い返せば、ダンブルドアも辛い話だと言っていたのだ。こんな話題を振って喜ぶ人など、闇の魔法使いでもなければいるはずがない。いったい誰が進んで答えてくれるというのだろうか。
 知らず知らずフェリシアは重い溜息をついた。自分がしようとしていることは、実は途方もなく大変なことなのかもしれない。すっかり悄気たフェリシアの顔を、何も知らないファングがべろりと舐めた。
「……もう」
 考えるのをやめたフェリシアは、いつまでも床に座っているのもどうかと思い、ハリーの隣に腰かけた。
 話すのはハリーたちに任せ、時折同意するようにうんうんと頷いてみたり、もっともらしい顔を作ったりする。その合間に、鼻を擦り付けてくるファングの耳の後ろを掻いてやった。ハグリッドが出してくれたケーキを少しかじってみるととんでもなく固く、ハグリッドに気づかれないようにそっと皿に戻した。この一切れを食べきろうものなら、きっとその間に歯が全て折れてしまう。ボロボロの歯で笑う自分を想像してみると、あのマルフォイが馬鹿にしたように笑う様子も目に浮かんで嫌な気分になった。
 するとちょうどハリーが今日の魔法薬学のことを話し始めたので、ますます嫌な気分になる。なんてタイミングなのだろうと恨めしくハリーを見れば、スネイプのことを話していたハリーは困った顔をした。
「どうしてそんな顔で見るの?」
「……私、あの授業もあの先生も、好きじゃない」
「誰だってそうさ」
 ロンが訳知り顔でそう言った。
「けど、君は、何も注意されていなかったじゃないか」
「それはそうだけれど……あれはただ無視されていただけだったもの」
「無視?」
「そう、無視」フェリシアはあの毒々しい目を思い出しながら言った。「絶対私を見ないの」
 ハグリッドはそれを聞いて何かモゴモゴ言ったが、あまりにも歯切れが悪く、聞き取れたのは最初の「そんなことは」と最後の「いや、まあ、スネイプのことだ、気にするな」だけだった。ひょっとすると何か心当たりがあるのかもしれない。しかし、教えてくれそうにはなかったので、フェリシアは「そうだね、そうする」とだけ答えた。
 続けて、スネイプは自分のことを憎んでいるのだとハリーが言えば、今度はすかさず否定した。先程と比べれば歯切れは悪くなかったが、目はハリーを見ていなかったし、声もどことなく上擦っているようにフェリシアには聞こえた。どうやらハグリッドは、隠し事が上手くないらしい。
 そんなことを考えながら、フェリシアはまた思い出したようにファングを撫でた。ファングは首を伸ばし、ふんふんと鼻を鳴らしてロックケーキの匂いを嗅いでいる。フェリシアはなに食わぬ顔をしてその皿を押しやった。万が一にも、 凛々しい牙が折れては大変だと思ったのだ。
 そのとき突然、隣のハリーがあっと声をあげた。
「ハグリッド! グリンゴッツ侵入があったのは僕の誕生日だ! 僕たちがあそこにいる間に起きたのかもしれないよ!」
 急に何を言い出すのかと眉をひそめたフェリシアだったが、ハリーがティーポットカバーの下から覗いていた紙切れを指差したので、するりとそれを引き抜いた。急かすような気配を隣に感じながらざっと目を通す。それは日刊予言者新聞の切り抜きで、ホグワーツ特急の中で話題になったあの記事だった。隣から覗きこむようにして一緒に記事を読んだハリーは、何か言いたそうにハグリッドを見る。ハグリッドはあからさまにハリーから目を逸らした。やっぱりハグリッドは隠し事が上手くはない。
 それでもどうにか誤魔化そうとしているのか、ハグリッドはロックケーキを進めたが、三人は遠慮した。いつの間にか窓の外も暗くなり始めている。フェリシアはぽつりと呟いた。
「そろそろ夕食の時間じゃない?」
 その言葉が合図になったかのように、ハグリッドのロックケーキをお土産に三人は小屋を後にした。

150904
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