06

 ウィルヘルミナ・エルマンの執念と魂の残滓。変容してはいても、まだ『悪いもの』ではないとフィガロ様が評するそれ。どのように扱うのが正しいのか、その方面に明るくない私はフィガロ様の説明を鵜呑みにするほかないのだけれど、呪い屋を生業としているファウスト様は違うのだろう。
 異を唱えたファウスト様の表情は、苦々しかった。その表情を見ているだけで、私まで胸が詰まるような心地になる。
 ──そんな顔を見たいわけじゃない。あなたにそういう顔をさせるために、ここまで来たわけでもない。
 決して言葉になりはしない感情が胸の奥で渦を巻いている。今耳元で鳴り止まないのは、きっとその渦の唸りだ。

「……たとえミナの魂そのものではないとしても」

 再びファウスト様が話し始めると、それは少しだけ静かになった。きっと、体がファウスト様の声に集中しようとしているのだ。私は他人事のように、そう思った。
 いつの間にか緊張して、全身が強張っている。

「まだ呪いに転じてもいないものを、呪いであるかのように力任せに消し去るのは……ミナへの冒涜じゃないのか」
「残り滓にすぎなくても?」
「……彼女の魂の、切れ端には違いないだろう。それに、そのやり方にも大きなリスクがある。魂を引き裂かれるリスクは確かに下がるかもしれないが、消し去られるミナの嘆きや執念が、ウィルヘルミナの心をどれほど傷つけるかわからない。ただでさえ東の魔法使いは繊細なのに……すでにこれほど感化されているなら、ウィルヘルミナが受ける影響はより多大なはずだ。……幸いなことに、今ならまだ、別の方法を試す猶予がある。力押しではなく、段階を踏んで浄化していけば──」

 静まり返った部屋で耳を打つのは、ファウスト様の声だけ。ファウスト様がひとつ言葉を紡ぐたび、私の胸には熱が生まれていった。その熱はたちまちのうちに全身を駆け巡り、涙に変わる。
 溢れ出す涙を袖で拭いながら、これが私の涙でもひいお婆様の涙でも、今はどちらでも構わないと思った。たぶん、どちらでも同じことだからだ。ファウスト様がウィルヘルミナ・エルマンをミナと呼ぶ声が──もうどこにもいないミナを慮る精神が、今ここに立つ私を揺さぶっている。
 ファウスト様は振り返って、私が泣いていることに驚いたようだった。サングラスの下が狼狽えているのがわかる。

「──ウィルヘルミナ。もちろん、きみの安全を最優先に考える。きみが抱える不安を、蔑ろにするつもりはないよ」

 そんなことを考えて泣いたわけではなかったけれど、なぜだか否定の言葉が出てこなかった。情けない自分の声よりも、ファウスト様の声を聞いていたかったのかもしれない。

「きみの身が危険だと判断したら、その時点で直ちに方針を切り替える。フィガロが提案した方法をいつでも実行できるよう、準備は怠らない。ただ……少しだけいい、時間をくれないか」

 断る理由なんて私にあるはずもない。ファウスト様が言っているのはむしろ、私にとってもありがたい話で、本来なら私からお願いしなくてはならない話だ。だのに、どうやらファウスト様にはその自覚がないらしい。
 私の返事を待つ眼差しは真摯だった。彼の言葉にはきっと、一欠片の嘘も偽善もない。いざとなればファウスト様は本当に、彼自身の葛藤を飲み込んでフィガロ様が最善だと言った策を選び、ひとつの手抜かりもなく成し遂げるのだろう。
 答えなければと思うのに、私の不甲斐ない喉はすっかり引き攣ってしまって、はいもいいえも音にならなかった。かろうじて首を縦に振ると、ファウスト様はほっとしたように小さく息を吐く。それどころか、続いて「ありがとう」と聞こえたものだから、私は慌てて首を横に振った。その言葉を私が受け取るのは、どう考えても正しくない。
 そもそも、ファウスト様とフィガロ様とで何もかも決めてしまったってよかったのだ。知識と経験を兼ね備えた二人が決める方法に、素人の私が不満や文句を言う余地があろうはずもない。たとえそこに少なくない私情が混じろうと、それでも私は構わなかった。
 ファウスト様にとって、ウィルヘルミナ・エルマンはかつての仲間だ。対してウィルヘルミナ・ルースは顔見知り以下、顔を合わせるのもまだ今日で二度目。その二者を天秤に載せたなら、前者に傾くのは当然のことだろう。そうしてファウスト様が私にとって不都合な選択をしたとしても、私にはそれを責められないし、責めようとも思わない。ただ、納得するだけだ。
 それなのにファウスト様は、どうやらその天秤の釣り合いを取ろうとしている。死んだ人間のことも、知り合ったばかりの魔女のことも同じように気にかけて、どちらのことも切り捨てない。意識しても難しいはずのことを、おそらく無意識で、本心からそうしている。

(東の魔法使いになって、呪い屋に転身しても……ファウスト様は、ファウスト様のままだ)

 ざわめく胸のうちに滲むのは、安堵か、あるいは憧憬か。

「こちらこそ、ありがとうございます。ひいお婆様を、思いやってくださって……」

 引き攣れた喉から声を絞り出す。その声は裏返って情けなかったが、ファウスト様は真面目な顔のままだった。
 黙っていたフィガロ様は、「ウィルヘルミナが納得しているなら、止めないけど」と肩をすくめる。

「ファウストがそこまで言うってことは、ある程度もう目星はついているんだね? 衛生班のウィルヘルミナが何に強い未練を残したのか、どうすれば彼女を安らかにできるのか」
「……心当たりなら、いくつか」
「わかった。そういうことなら、好きにやってみなさい。きみたちも彼女も未練を残さずに済むなら、それに越したことはないしね。どうせレノも、ファウストに賛同するんだろう?」
「……そうですね。ミナには、本当に世話になったのに……あの時代には、何も返せませんでしたから」
「きみたちって、本当に……」

 目を細めたフィガロ様は、呆れているようにも、眩しそうにも見えた。私には、その真意を読み解くことはできない。
 フィガロ様が再び私に目を向けたとき、その複雑な表情はすっかり消え去っていた。
 
「まあ俺もついているから、大丈夫。何か起こっても、ウィルヘルミナのことは俺がどうにかしてあげる……あ、今言った『ウィルヘルミナ』は、生きているほうのウィルヘルミナのことだよ」

 生きているほうのウィルヘルミナ、つまり私のことだ。
 生きているほう、死んでいるほう。私とひいお婆様をそんなふうに区別するのは、ある意味シンプルで間違いがないが、なんとも形容し難い複雑な気持ちになる。ひょっとすると、私ではない私の心が憤っているのかもしれなかった。私は今もここにいるのに、などと。

「うーん……昨日から思ってたけど、二人ともウィルヘルミナだとちょっとややこしいね」

 私の表情をどう受け取ったのか、フィガロ様は苦笑して、

「きみ、ほかの呼び名はない? きみが呼ばれ慣れている愛称があると、都合がいいんだけど」
「愛称……ですか」
「きみともう一人のウィルヘルミナを明確に区別できれば、それは、きみの自我を守ることにも繋がる。たとえばひいお爺様からは、なんて呼ばれていたのかな」
「あ……ええ、と」

 私はつい口籠った。
 呼ばれ慣れた愛称なら、あるにはある。ひいお爺様が私を呼ぶときは専ら愛称で、きちんとウィルヘルミナと呼ばれるのは叱られるときくらいだった。とはいえ、この歳にもなれば叱られる機会はほとんどないから、名前を呼ばれることのほうがよほど少ない。
 それでも愛称を素直に口にできなかったのは、フィガロ様の苦笑が深まることが容易に想像できたからだ。

「なに? 恥ずかしい呼び名?」
「いえ、そうではなくて……、ミナ、なんです」

 私の答えを聞いたフィガロ様は一瞬わずかに目を丸くした後、思ったとおり苦々しく笑った。

「そうか、まいったな。きみもミナなのか」
「ええ、その……ひいお爺様は昔から、ひいお婆様のことをウィルヘルミナ、私のことをミナと呼んでいまして……」
「なるほどね。きみとひいお爺様にとって、『ミナ』といえば、生きているウィルヘルミナのことを指すわけだ。……ちなみにひいお爺様が、生前のウィルヘルミナ・エルマンをミナと呼んだことは?」
「……まったく、とは言い切れませんが……ほとんどないと思います。ひいお婆様自身が、ウィルヘルミナと呼ばれることを望んでいたそうですから」
「へえ」

 榛色の瞳がじっと私を見る。どこか不思議な雰囲気のある瞳にそうやって見下ろされると、皮膚や肉の下まで見透かされるような錯覚に陥った。薄らとした居心地の悪さが肌にひたりとまとわりつき、本能的な恐怖心がその下でちりちりと爆ぜる。

「ウィルヘルミナ・エルマンにとっての『ミナ』は、革命軍にいた頃の記憶とよほど強く結びついた呼び名だったんだろうね。良くも悪くも」
「……ひいお爺様が一音一音丁寧を呼ぶその声を、ひいお婆様が好きだったから……それで、名前で呼ばれたがったのだそうですが」
「はは、そっか。それじゃ、いい人に出会ったんだね、彼女は」

 そう言って、フィガロ様が今日一番の柔らかな微笑みを浮かべた。ひいお爺様の人柄を肯定されたような気がして、まとわりつく居心地の悪さがいくらかマシになる。我ながら単純なことだ。

「何にせよ……きみもひいお婆様も『ミナ』という呼び名にゆかりがあるなら、あの癒着ぶりに納得がいくよ。ただ、少し厄介だ。ここにきみが来てから、ファウストとレノがウィルヘルミナ・エルマンをミナと呼んだことが、さらに拍車をかけた可能性もあるな……」

 ファウスト様の表情が翳るのを視界にみとめつつ、私はフィガロ様を見上げる。

「そんな短時間で、変化するものですか?」
「名前はきみの輪郭を作り、きみをきみたらしめるものだ。愛称だって同じさ。それだけに、魂へ与える影響も大きい」
「……『ミナ』という呼び名に、ひいお婆様の魂の残滓も強く反応している、と?」
「ウィルヘルミナ・エルマンにとって、ファウストやレノの声で『ミナ』と呼ばれる存在は自分だけだろう? それでつい、前のめりになってしまうんじゃないかな」
「ま、前のめり……」

 軽やかな口振りは冗談でも言っているかのようだったが、フィガロ様の表情にそれらしい変化はない。至って真面目な話らしく、レノックスが「では、『ミナ』という呼び名を口にするのはやめるべき、ということでしょうか」と尋ねると、フィガロ様は私を横目に見ながら頷いた。

「少なくとも、ウィルヘルミナ・エルマンを指して言うのはね。だから、今からこうしよう。俺たちにとっても、生きているウィルヘルミナ──ここにいるウィルヘルミナこそが、『ミナ』だ」
「えっ、私が……」
「そう、きみ。きみは東の魔女ウィルヘルミナ・ルースで、ミナ。驚くようなことじゃない、今までもずっとそうだっただろう? 難しく考えなくて大丈夫だよ。ただこれまでどおり、きみはきみでいればいいだけだ。誰に遠慮することもなく、ね」

 誰に遠慮することもなく──フィガロ様はその言葉をほんの少し強調して言った。
 私に対してのみならず、私の中にいるひいお婆様へ、あるいはファウスト様やレノックスへ向けた言葉なのかもしれない。思わずそんなことを考えてしまうほどに、フィガロ様はファウスト様とレノックスをしかと見据える。

「ファウストとレノも、いいね? どれだけ大事な仲間だったとしても、今、きみたちが衛生班のウィルヘルミナに心を寄せるのは、あまり良いことじゃない」
「……わかっている。今も、弁えているつもりだが……」
「もう一度念を押しておくよ。ここにあるのは、変容したウィルヘルミナ・エルマンの魂の残滓だ。適切な距離感を、見誤らないように」

 ファウスト様が口を噤む。サングラスが美しい瞳を隠してしまっていても、その瞳が今蝋燭の灯火のようにゆらめいていることは、不思議なほどはっきりわかった。


240324


- ナノ -