掌編

◎X(Twitter)再録 / 1200字前後の掌編
◎ネロ視点のもののまとめです



 ネロは時々、ベリルの爪が目につくことがある。
 ベリルの爪はいつも鮮やかなワインレッドに彩られている。とはいえ爪を装飾している魔法使いというのは珍しいものでもなく、身近なところではミスラも常に爪を黒くしている。だから、ベリルの爪だけが目につくというのも奇妙な話だ。日焼けを知らなそうな肌に、その色がよく映えているせいだろうか。
 別に、目につくからといってどうということもなかった。ベリルの爪が何色でもそれはネロには関係がないことで、どんな理由でどんな色を塗るのもベリルの自由だし、その色が目に留まったところで深く考えたりもしない。いつもただなんとなく「今日も赤いな」と思うだけだった──のだが。
 昨晩、ネロは気がついてしまった。あのワインレッドは、ブラッドリーの瞳の色によく似ているということに。
 半ば巻き込まれるかたちで始まった三人での晩酌の最中、酔ったベリルの手元からブラッドリーがグラスを取り上げたとき。ベリルがグラスを取り返そうと手を伸ばし、指先がブラッドリーの顔の近くを彷徨ったあの瞬間。ベリルの爪の色とブラッドリーの瞳の色は、ほとんど同じに見えた。
 はじめは角度や光の加減によるものかとも思ったが、見れば見るほどとてもよく似ている。
 だからなんだという話ではあるのだが、ベリルが自分の意思で塗っているのか、はたまたブラッドリーがそうさせているのか──一夜明けて、どちらにせよとんでもない匂わせじゃないかと思えてきた。
 とりわけ後者だとすれば、ブラッドリーの執心ぶりが窺える。谷底の町から連れ出すだけにとどまらず隣の部屋に住まわせ、事あるごとに……否、何もなくとも構っている時点で相当だというのに、さらにどれだけ見せつけるつもりなのだろう。
 構われるベリルは大抵あっさりしたもので、ブラッドリーからのスキンシップも真顔で受け流しているが、ブラッドリーはちゃんとベリルの気持ちを汲んでやっているのだろうかと少し心配にもなる。二人のことをあれこれ勘繰るのは野暮に違いないし、ブラッドリーがどこまで本気かも知らない。それでも、あいつから向けられるものがベリルには重くないだろうかと、想像せずにはいられない。

 朝食後、偶然ベリルと二人になった。
 つい爪に目が吸い寄せられるネロに、ベリルは怪訝な顔をする。

「何? じっと見て」
「えっ、あー、いや……爪、いつも綺麗にしてんなーって」
「ああ、これ? 習慣になってて。塗ってないと、いまいち調子が出ないんだよね」
「へえ……、赤が好きなのか?」
「そういうわけでもない。ただ……」

 言いながら、ベリルは自身の爪に目を向けた。見慣れているはずのそれに注ぐ眼差しは春の陽射しに似て、柔らかな光をたたえている。

「この色は、好きかな」

 眉を下げてはにかむような、珍しい表情を浮かべたベリルを目の前にして、ネロは自分の思い違いを悟った。
 ──仲睦まじいことで。

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「ふうん、寝てるんだ」

 談話室の前を通りかかったついでに立ち寄ったというベリルが、ソファの後ろから背もたれに腕を乗せてブラッドリーの顔を覗き込む。その拍子にさらりと垂れた髪を眺めつつ、ネロは「うーん」と肯定とも否定とも取れない曖昧な返事をした。
 ベリルが談話室に入ってくるほんの少し前まで、ブラッドリーは普通に会話をしていた。途中で一度欠伸を噛み殺してはいたものの、寝入るにはあまりにも早すぎる。
 つまりこれはほぼ間違いなく、寝たフリだ。どうやらベリルも気がついているようで、目を閉じたブラッドリーの顔を眺める表情は、明らかに勘づいている者のそれである。
 ベリルは悪戯っぽく笑いながら言った。

「こうして見ると、ブラッドリーって可愛いよね」
「えっ!? か、可愛いか……?」
「目がぱっちりしてるし、元々可愛い顔立ちなんだと思う。でも普段は表情や傷痕の印象に引っ張られて、可愛さが目立たない」
「うーん……?」

 共感はしかねる。というか、そういう視点で見たことがない。
 芳しくない反応に、ベリルは小首を傾げて「可愛いと思うけどな」と呟く。冗談かとも思ったが、案外そういうわけでもなさそうだった。可愛いと連呼されて本人はいったいどう思っているのか──まだ寝たフリを続けるつもりらしく、ぴくりとも動かない。
 ネロとベリルは無言で目を見合わせた。ブラッドリーがベリルを揶揄うつもりで寝たフリをしたのだとして、しかし今、気づかれていることに気づいていないとも考えにくい。
 どういうつもりだと思う? とベリルの目が尋ねているような気がしたが、ネロにも見当がつかなかった。ただ、自分は早く立ち去ったほうがいいような、そんな予感だけはある。
 やがてベリルはブラッドリーに視線を戻した。じっと眺めていたかと思うと、おもむろにブラッドリーの髪に触れる。つんとした銀髪を遊ぶように撫で、慈しむように指で梳き、閉ざされた目元にかかる黒髪をちょんと払う。その指先は一瞬の躊躇いも払いのけて、古い傷痕の上をすべった。
 そっと、労わるように、音もなく。
 言葉はなくとも、眼差しと指先は雄弁だ。居た堪れなくなったネロが目を逸らしたのと、ブラッドリーが身動ぎをするのはほとんど同時だった。

「……擽ってえ」
「寝たフリはもうしなくていいの?」
「てめえで起こしといてよく言う」
「そういうつもりじゃなかったけど」

 ちらりと見れば、傷痕を撫でていた白い手がブラッドリーの手に絡め取られている。まるでそれが自然なことであるかのように、離そうとしないし、離れようともしない。

「……なあ、お二人さん。俺はもう部屋に戻るけど、まだいちゃいちゃするつもりならあんたらもどっちかの部屋で──」
「いちゃいちゃ?」

 普通のことを言ったつもりだったのにベリルが目を丸くするものだから、ネロは怯んだ。
 ──俺が間違っているのか? あんな空気を醸し出しておいて、無自覚?

「気にしすぎだ。何もしねえよ、そういう仲でもねえしな」

 ブラッドリーが呆れたように笑う。
 ……もう、何も言うまい。この二人が、お子ちゃまどもの目につくところでやらかさない限りは。

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「ベリルは筋金入りの年下好きだよな」

 晩酌も半ばになって、若い魔法使いにベリルは甘い、と言い出したのはブラッドリーだった。
 昔も時々若い魔法使いの世話を焼いていたのを知っている、魔法舎に来て拍車がかかった、羊飼いや呪い屋にも若干甘い、云々。昔のベリルのことはネロにはわからないが、確かに魔法舎の子どもたちと接するときのベリルは態度が少し柔らかい。年下のレノックスやファウスト、ラスティカにも比較的親切だ。しいていえば、ネロに対しても多少そういう節はある。北の魔法使いの盗み食いを組織してくれたりだとか。
「どうりで俺になかなか靡かねえわけだ」とブラッドリーが笑うと、ベリルは「そういう話?」と眉をひそめた。

「でも、私がすぐ靡く女だったら、欲しくならなかったんでしょ?」

 ネロは盛大に咽せた。ベリルがそういうことを言うタイプだとは思ってもいなかったからだ。ブラッドリーもさすがに予想外だったのか、目を丸くしてベリルを凝視している。当のベリルは「チレッタがそう言ってた」と笑って、グラスに口をつけた。

「……もう酔ってんな」
「そうでもないよ」
「嘘つけ」
「ほんとだってば」

 くすくす、また笑い声が洩れる。これは酔ってるな、とネロにもわかった。
 ベリルは酔いが回ってくると普段よりも陽気になる。さらに酔うとすとんと眠りに落ちるか、眠らないかわりに口数が増え上機嫌に近くの誰かに絡むかのどちらかで、晩酌がブラッドリーの部屋で行われるときは専ら前者だ。
 今の様子ならまだほろ酔い程度だろうが、うとうとし始めるのも時間の問題だろう。

「ったく……。てめえ、やっぱり昔より酒が弱くなったよな」

 ブラッドリーが呆れ半分、揶揄い半分の声音で言った。
 そういえば以前ベリルが寝落ちしたときにも、ブラッドリーは同じようなことを呟いていた。これがうんと歳上なら歳のせいかと思うところだが、ベリルの歳はブラッドリーやネロとさほど変わらない。となると、体調や体質の変化のせいだろうか。
「あは……そうかも」と答えたベリルはあまり気にした様子もなく、「あんたがうちに来なくなってから、あんまり飲んでなかったからかな」と続ける。

「チレッタとは飲まなかったのか」
「んー、チレッタが酒持参で遊びにきたときは、少し付き合ったけど。でも……ねえ。飲んだら、思い出しちゃうから」
「思い出す?」
「そう。ブラッドリーがいたときは楽しかったってこととか、今、淋しいってこととか……そういうの。それがいやだった。だから、あんまり……あっ、大丈夫、今は、淋しくない。ふふ」
「……そうかよ」

 ベリルはいつもよりふにゃふにゃした顔で笑っている。それを見るブラッドリーの目も、柔らかいかたちをしている。
 今度は咽せずに済んだネロだったが、ゆっくりと顔を覆った。聞いてはいけないことを聞いて、見てはいけないものを見た気がする。

「ベリルって……ブラッドのこと凄え好きなんだな……」
「……っはは! そうなんだよ、今頃気づいたか?」

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 すっかりブラッドリーとセットだと思われがちなベリルにも、当然ベリルなりの交友関係がある。
 ネロが知る範囲だけでもルチルやアーサーと談笑する姿はよく見かけるし、シャイロックと二人でゆったり話していることも珍しくなく、近頃ではヒースクリフやレノックスと立ち話をしているのを目にすることも増えた。ルチルや賢者とは共に出掛けたりすることもあると聞く。案外どの国やつとも上手くやれているらしい。
 ただ、ミスラとの関係はどうもよくわからないな、と思う。一見互いに扱いが雑なようにも見えるが、その雑さはオーエンたちのそれとはどこか毛色が違っていて、親密さの表れのように見えないこともない。

 ちょうど今、食堂で、ベリルとミスラが並んで食事をしている。ベリルがルチルと昼食をとっていたところに、後からやって来たミスラがわざわざ隣に座って食べ始めたという流れだ。
 ルチルはにこにこ笑っていたが、ミスラはいつもの覇気のない顔、ベリルに至ってはしかめ面だ。ミスラが横から「食べるの遅くないですか?」「さっさとしてください」などと話しかけるせいだろう。「普通でしょ」「うるさい」とすげなく返すベリルの顔はどんどん険しくなっていく。

「もう、二人とも、ちゃんとお話ししましょう? まずミスラさん。どうしてそんなにベリルさんを急かすんですか?」
「この後予定があるので」
「ベリルさんとの?」
「はい。俺が適当に狩って、ベリルはそれを消し炭にする係です」
「……ということですけど、ベリルさん」
「初耳」

 ベリルがげんなりしているのがネロにも見えた。ミスラはもう自分の皿を空にしていて、ベリルの皿にまだ二口分ほど残っているガレットをじっと眺めている。

「うーん……。ミスラさん。それ、ちゃんと事前にベリルさんと相談しました?」
「相談……?」
「そうですよ。ベリルさんにも予定があるでしょうし……。一緒にお出掛けしたいなら、まずはお誘いしないと」
「はあ。一緒にお出掛けしたいわけではないですけど」

「なんなの」とベリルがますます嫌そうな顔をして、ルチルがまた「うーん」と困ったような声をあげる傍ら、いよいよミスラが痺れを切らして立ち上がった。

「《アルシム》」

 食堂のど真ん中に扉が開いて、青っぽい匂いのする風が吹き込んでくる。ベリルは素知らぬふりを決め込んでいたが、ベリルが最後の一口を口に入れるやいなやミスラはその首根っこを掴んだ。

「んっ、んん゛!?」
「行きますよ」

 可哀想なことに、まだ最後の一口を飲み込めていなかったベリルは文句も言えない。
 その間にミスラは椅子をひっくり返す勢いでベリルを立たせ、まるで荷物を雑に持ち替えるかのように小脇に抱えた。ベリルは片手で自分の口を押さえながらミスラを叩いていたが、抵抗虚しく半ば引き摺られるような恰好で連行されていく。呆気に取られていたルチルが我に返って声をかけたときにはもう、二人は扉の向こう側だった。
 扉が閉じる間際、ベリルが慌てて声を張り上げる。

「《ヴィアオプティムス》!」

 二人の姿が見えなくなるのと同時、椅子が元に戻り二人分の食器がキッチンに飛んでくる。
 なんとあの状況でベリルは、ミスラへの抵抗や逃走よりもこちらの後片付けを優先したらしい。ミスラに捕まったら普通は恐ろしいし、北の連中は導火線が短いから即攻撃に移ってもおかしくはないのに。
 何だかんだ、ミスラにも多少は気を許しているということなのだろうか。

 結局ベリルは夜までミスラに連れ回されたようで、夕食時を過ぎた頃に一緒に帰ってきた。そのまま遅い夕食を二人で向かい合って食べていたところでも見たのか、ブラッドリーが「あいつらってなんなんだろうな」がぼやいていたが、それはまた別の話。

「あいつら、たまに距離が近くてビビるんだよな……」

 あんたらほどじゃねえよと思ったことも、ここだけの話だ。

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