情の行く先

 青天の下、人々の話し声や足音が絶えない中央の市場。初めの頃は物珍しかったその光景も、今ではだいぶ見慣れたものになりつつある。
 ベリルは往来を一人歩きながら、買ったばかりの食材が入った袋を抱え直した。
 近頃魔法舎のキッチンを借りることが増えたから、必然的に市場へ来る機会も増えた。食材や調味料の調達をしようと思うと、やはりここに来るのが一番手っ取り早い。

 こうして市場を歩くとき、中央の国は人間が暮らしやすい土地なのだとつくづく思う。
 昼は太陽に照らされ、温かい風が頬を撫でていく国。ときには天気が荒れることもあるが、それも北の国の猛吹雪とは比べるまでもない。適度な雨と凍らぬ大地は数多の恵みをもたらして、だからこそ人間は、魔法に縋ることなく生きていける。
 そういう土地に生まれ育った者たちだからなのか、暮らしている人間たちも大概明るく生気に満ちている。声に張りがあり動きも活発で、表情も豊か。辺鄙な村や町まで行けばまた違ってくるのかもしれないが、この辺りはちょっと見渡すだけでカインやルチルのような若者が何人も目に留まるのだ。気候の違いを差し引いても、北の国とは随分様相が違って興味深い。
 ベリルがまだ幼い頃の中央の国はもっと殺伐としていたが、六百年近くも経てば土地も人間も様変わりするものらしい。少し市場をぶらついただけで、そこらの露天商に気安く声をかけられる。ただすれ違っただけの人間さえ、たまに声をかけてくることがある。昔はこうではなかったのに──などと思うのは、些か年寄りじみているだろうか。

 胡散臭い露天商の呼び込みを聞き流して通りを進むと、顔馴染みになった粉屋が声をかけてきた。働き盛りを少し過ぎた年頃の夫婦とその若い息子で営んでいる店で、大抵は母親が店番をしている。だが、今日は息子の姿しか見当たらない。
 ベリルが足を止めると、カインと同じくらいの年頃だろう青年ははにかんだ。
 
「や、やあ! 今日は、うちに寄ってくれないのかと思ったよ」
「そのつもりだったけど。お母様は?」
「え、あー……お袋は、風邪を引いちまって。それで、今日はオレが店番なんだ」
「ああ、そうなの。お母様の具合は?」
「大丈夫、そんなにひどい風邪じゃないよ。いつも働き詰めだからさ、ちょうどいい機会だと思って、休んでもらってるだけで」
「そう。ひどくないなら何より。お大事に、と伝えておいて」
「あ、ああ、うん、ありがとう」
「じゃあ」
「ま、待って」
 
 歩き出そうとしたベリルを、青年は上擦った声でさらに引き止めようとする。

「あー、いや、ほら、せっかくだしさ! 銀河麦、買っていかない?」
「今は間に合ってる」
「特別に安くするよ」
「勝手なことをしたら、ご両親に叱られるよ」
「大丈夫!」

 大丈夫ではないだろうに。
 ここにいない夫婦の顔を思い浮かべながら、ベリルは小さく溜息をついた。気立てのいい夫婦ではあるが、だからといって安易にまけるような夫婦ではない。商売人らしく、そういうところはきっちりしている二人だ。
 粉屋の息子は頬を赤くして、ベリルの様子を窺っている。
 昔、町にもこういう子どもがいた──そんなことを思い出しつつ、ベリルは再び袋を抱え直し、青年に見せた。

「生憎だけど、今日はもう手が塞がってるから」
「それなら、オレが運ぶって! きみの家まででも、どこへでもさ」
「結構。店番もあるでしょう」
「あっ、そうか……それもそうだ……、じゃあ、店仕舞いしたあとに届けるのはどう?」

 食い下がってくる青年に、ベリルは今度は明からさまに溜息をついた。そろそろ面倒になってきた。
 質のいい銀河麦を扱う粉屋だからなるべく穏便に済ませたかったが、この分だと無駄なことかもしれない。穏便に済ませたところで、どうせしばらくの間、この粉屋で買い物する気にはならないだろう。少なくとも息子が店番をしているときには、店先を通り過ぎることさえ遠慮したいくらいだ。
 がやがやと賑やかなこの通りに粉屋の息子の知り合いもいるのか、こちらを冷やかすような視線や笑い声が、喧騒の中に消え残っている。
 ──全員魔法で寝かしつけて立ち去るか? しかし、そのせいで妙な噂が広まったり、白昼の街中で起きた怪奇事件として魔法舎に調査依頼が出されたりすれば、苦労するのは他でもない賢者だろう。あの真面目なお人好しに余計な仕事と心労を増やすことになるのは、ベリルの本意ではない。
 となると、居合わせた全員を眠らせてから直前の記憶を消し、その上で粉屋の息子の記憶も多少改竄するというのが最も穏便かつ確実な手段だろうか。……対象が一人ではない分、やや面倒だが。

「ごっ、ごめん! 押しつけがましかったよな!」

 ベリルの露骨な態度に、粉屋の息子は慌てたようにバタバタと手を振った。

「迷惑かけたいわけじゃないんだ! ただ、その、なんていうか……どうしてもきみに良いところを見せたくなって」
「あれ……姐さん?」

 と、不意に男の声が割って入ってきた。ネロに似ていると思って振り返れば、正真正銘のネロだ。片手に袋を抱えわざとらしくない程度に驚いた表情を浮かべながら、こちらに歩み寄ってくる。
 普段よりも少し高いその声色は、何も知らない者にはごく自然に聞こえたはずだ。「姐さんも買い物に来るつもりだったなら、一声かけてくれりゃよかったのに」と続いたそれも、決して白々しくはない絶妙な調子で、ベリルは表情には出さず感心した。ネロのことだから、咄嗟に気を回してくれたのだろう。急に『姉さん』なんてどういうつもりか知らないが──姉弟のフリをすればいいのだろうか──、この粉屋の息子に名前を知られるのもなんだか癪だし、ネロが一芝居打ってくれるというならありがたい。
 ベリルは少しだけネロのほうへ身を寄せながら、出任せに「だって、忙しそうだったから」と答える。
 実際はどうだったか──そうだ、ベリルが魔法舎を出たときのネロは、三日ぶりに帰ってきたブラッドリーにフライドチキンをせびられていた。今日は双子もフィガロも不在だからか、キッチンには遠慮のない軽口が飛び交っていて、二人とも気楽そうだった気がする。それを忙しそうと言えるかは怪しいところだが、まあ、ここでつく嘘が一つ二つ増えたところでさしたる問題ではない。

「あー、気を遣わせちまったのか……。次からは、遠慮なく声かけてもらっていいすか」
「そう?」

 口調に違和感を抱きつつ、ちらりと粉屋の様子を窺う。青年は顔を引きつらせて石のように固まっていた。丸い目だけが落ち着きなく泳いでいる。

「俺、あんたのこと、旦那に頼まれてるんすよ」
「だ、んな?」

 ──姉さんって、そういう意味の姉さんか。
 ベリルが言葉につかえたタイミングで、粉屋が息を呑む音が聞こえた。ネロは人当たりのいい笑みに自然な気苦労を滲ませて、粉屋に話しかける。

「兄ちゃん、ありがとな。この人、こう見えて危なっかしいところがあるから、捕まえといてくれて助かったよ」
「は、はあ……、えー、と、あの、旦那さんって……」
「ああ、この人おっかない旦那がいるんだ。男前なんだが、姐さんのことが好きすぎて、自分がいないところで姐さんが口説かれやしないか、危険な目に遭わないかって、いつも気が気じゃないらしくてさ。姐さんに何かあったら、何をするか──」
「ちょ、ちょっと」
「ん? なんだ、姐さん照れて……ああ、正式な婚約はまだなんだっけ」
「照れてな……あ、ええと……そう、まだ、婚約とかは」
「細かいことは気にしなさんな。好きあって一緒にいるんだから、同じようなもんだって」

 ネロがへらりと笑う。よく咄嗟にこれだけ口が回るものだ。
 しかし生憎、ベリルはこういう小芝居には慣れていない。幸いにも粉屋はぼんやりしていて、ベリルのぎこちなさには気がつかなかったようだった。
 ぼろが出る前にと、ベリルは咳払いを一つした。

「それより。せっかくだし、銀河麦買っていく? 彼、特別に安くしてくれるんだって」


* * *


 粉屋を後にしたベリルの両手には、自分の分とネロの分の買い物袋が一つずつ。ネロの両腕には、銀河麦でずっしり重い大きな袋が二つ。
 粉屋の息子は後に引けなくなったのか、告げられたのは随分安い値段だったが、ベリルはいつも通りの金額を手渡した。
「余った分は、お母様の薬代に」と言い添えて。

「あんたも意外とあざといよなあ。いや、逆に素直なのか……?」
「ネロは意外と口が回るね。居もしない旦那の話を、よくもまああんなにすらすら……」
「はは、それは……うーん、まあ、そうかもな」

 銀河麦の詰まった袋は重いはずなのに、ネロは涼しい顔をして歩いていた。持ち上げるときに魔法を使った気配もなかったから、純粋な腕力のみで抱えているのだろう。今まであまり気にしたことがなかったが、よくよく見ればネロの腕は案外逞しい。

「……どうした?」
「いや……重くないの」
「ああ、これくらいなら別に。料理屋やってると力仕事が多くて、自ずと腕の筋肉がつくもんでさ」
「ふうん」

 ベリルは相槌を打ちながら、キッチンに立つネロの後ろ姿を思い出した。長く生きている魔法使いでありながら、ネロはいつも魔法を使わずに料理をする。東の国で料理屋を営んでいた頃は人間のふりをしていたというから、魔法を控える暮らしも相応に長いのかもしれない。
 しかしそれにしたって、魔法を使わずに身一つで力仕事をこなすためには、はじめにそれなりの筋肉が必要なわけで。長生きの魔法使いには、その『それなりの筋肉』が備わっていないことも少なくない。ベリルや師匠などはまさにそのタイプである。

「あんたこそ、大丈夫か?」

 と、いつまでも外れない視線に居心地が悪くなったのか、ネロが袋を抱え直しながら言う。

「俺の荷物、思ったより重かったんだろ? 慌てて魔法使うくらい」

 かけたのは重さを軽減する簡単な魔法で、呪文も唱えず指先を少し動かしただけだったのだが、さすがというかやはりというか目敏い男だ。
 ネロの荷物は大きさのわりにずっしりしていて、『それなりの筋肉』がないベリルの腕には確かに重かった。魔法を使ったことを隠すつもりもなかったので、「慌ててはいないけど」と断りつつ頷いて中身を問えば、調味料やスパイスの類いだという。普段よく使うものを補充する分だけ買うつもりが、ちょっと珍しいスパイスまで目に留まってついつい買い込んでしまったらしい。
 それくらいでこうも重いものかと首を傾げていれば、ネロは苦笑した。

「あんたより、お子ちゃまたちのほうが腕力ありそう」
「それはそうかも」
「ええ……大丈夫か? それ」
「大丈夫、魔女だから」

 腕力はなくとも魔法がある。腕力がなくて困ったことは、今のところない。
 ネロは一瞬何か言いたげに目を細めたものの、結局それをそのまま言葉にすることはなかった。北の魔女を相手に腕力の話を続けても、無意味だと思い直したのかもしれない。
 そこから少し無言が続いた。ネロもベリルも決してお喋りなほうではない。一度会話が途切れてしまえばそれっきりということは、キッチンでもしばしばある。
 肩が触れそうで触れない距離を保ったまま、少し気まずそうなネロの隣を歩いていると、雑踏の賑わいはやけに大きく聞こえた。それでいて、どこか遠くの物音のようでもある。活気ある街の中、二人だけが水底に沈んでいるかのよう。
 ややあって、先に口を開いたのはベリルだった。

「……ねえ。あの、旦那がどうとかって話」
「えっ、ああ……どうかしたか?」
「ブラッドリーには言わないでね」
「えっ」
「えっ? 驚くこと?」
「いや……。……ちなみに、なんで知られたくねえの?」
「……揶揄われるのは面倒だし……そうじゃなくても、この前みたいに変な勘違いをさせちゃ悪いから」

 つい先日、ベリルと馴染みの行商人の会話を立ち聞きしたオーエンが「ベリルには子どもがいる」とキッチンで言いふらし、それに驚いたらしいブラッドリーから「いつ産んだんだ」と訊かれたことはまだ記憶に新しい。
 もちろん、ベリルに子どもはいない。
 ブラッドリーらしくない勘違いであるのと同時に、そのときのブラッドリーの態度も意外なものだったからやけに印象深く、おそらくはネロも同じ理由で鮮明に覚えていのだろう。

「あー……アレか……」

 呆れと気まずさの入り混じったような表情を浮かべて、ネロは視線を彷徨わせた。

「念押しされなくても、言いふらすつもりはねえけど……。今回の件については、この前みたいな勘違いは起きないさ」
「そう? まあ、この前きっぱり否定したものね」
「それもあるけど……あいつはたぶん、『旦那』は自分だって気づくよ。だからせいぜい面白がるくらいだと……」
「は? 待って、『旦那』ってあいつのこと? 私たちは──」
「そういうのじゃない、だろ。うん。わかってるって」

 ちらりと向けられた眼差しは、まだ気まずそうだった。

「ただ、なんつーのかな……。昔……とある界隈に、名前のわからないあんたのことを『姐さん』って呼んでる奴らがいたっていうか」
「とある界隈」
「察してくれ。……で、そのことは、ブラッドも知ってる」
「訂正はしなかったの」
「……笑い飛ばしてたかな」

 見当違いも甚だしかったからか、それともブラッドリーが見栄を張りたかったからか。似たようなことを東の国での依頼の帰りに双子と話したときにはそんなふうに言ったが、本気でそうだと思っているわけでもない。
 相棒だったネロならブラッドリーの真意も理解しているかもしれないと、ベリルはネロの横顔を見つめた。

「いったいどういうつもりで……」
「さあな。俺に聞かれてもわからねえよ」
「……粉屋に聞かせた『旦那』の話、あれは? あれにも本当の話が混ざってる、なんて言わないよね」
「……全部嘘だよ、もちろん」 

 目を合わせないままネロは笑う。今日の空と同じ色をした髪が目元を隠しているというだけでなく、こちらに決して視線を寄越さない。

「嘘ならもっと、ちゃんと即答してくれる? 変に勘繰りそうになる」
「はは、悪い。マジで何もないって。あの場で咄嗟に口から出ちまっただけで、全部深い意味はないんだ。あんまり気にしないでくれ」

 ベリルは思わず胡乱な目を向けた。
 先日、ブラッドリーがベリルを特別扱いしているかのようなことを言ったのは、ほかでもないネロだ。もしもネロが忘れているのだとしても、ベリルははっきり覚えている。

「……じゃあ、この前あんたが言った、私は『特別』だっていうやつは?」
「あー……あれは、本当。……あんた、大事にされてると思うぜ」
「そんなの……」

 ベリルは言葉が続かなくなって、ネロから目を逸らした。再び喧騒が大きく聞こえる。
 自分がブラッドリーに気に入られている自覚くらいは当然ある。だからといって、それが『特別』や『大事』に結びつくのだと受け入れるのは少し難しい。
 特別なものも大事なものも、北の魔法使いにとってはしがらみだ。しがらみとは、弱みだ。
 それは何よりも厄介なものである。ベリルが双子と本気の殺し合いを避けているのも、彼らがベリルのしがらみを知っているからにほかならない。石になった師匠のこと、ベリルが父親と交わした約束のこと。ベリルの『特別』と『大事』を知っている双子は、いつでもベリルを脅すことができた。町を壊す。町の人間を殺す。そう脅されればベリルは、己の魔力と人間の命のために従わざるを得ない。もちろん素直に従わなかったこともあるが、今に至るまでベリルと住民たちが無事なのは運が良かっただけだ。
 情のしがらみは、増えれば触れるほど身動きが取れなくなる。町が大きくなるにつれて守るべき人間が増えていったとき、ベリルはそれを痛感した。
 師匠もそうだったはずだ。身一つで気ままに生きていたあの人は、一匹の魔物と一人の弟子、その弟子が守らなければならない人間たちのために自由を失った。両親もそうだろう。魔法使いではなかったけれど、彼らもベリルというしがらみのせいで不自由になった。ベリルを捨てればもっとマシな人生があって、もっと長く生きていられただろうに。
 彼らがしがらみに囚われたことを少しも後悔しなかったとは、ベリルにはどうしても思えない。
 ──もしもネロの言ったことが本当だとすれば、自分はいつかブラッドリーのしがらみの一つになってしまうのだろうか?
 客観視すればそれはとんでもない自惚れで、傲慢だ。正しくそう理解しているのにもかかわらず、ほんの一欠片でもその可能性を思い浮かべてしまったからには、何も気がつかなかったことにはできない。
 ベリルにとってブラッドリーは『特別』で──それはもう、とっくにしがらみのようなものだけれど──だからこそ、ブラッドリーのしがらみにはなりたくないのに。

「悪い、……そんなに深刻な顔すんなって」

 気遣うようなネロの声ではっとしたベリルは、ゆるく首を横に振った。

「気にしてない」
「ええ……それはさすがに」
「何。気にしてるって言われても困るくせに」
「それはまあ、そうなんだけど……」
「元はと言えば、私が蒸し返した話だしね。ネロが気に病むことじゃない、大丈夫」
「……えっ、俺が気遣われてんの?」
「気遣いというか、事実を伝えてる」
「あ、そう……」

 そうだ、そんなに深刻にならなくていい。ベリルはネロの言葉を声には出さず繰り返した。
 ネロの思い違いの可能性もある。それに何より──ブラッドリーは魔法使いにしては珍しく、集団を率いて生きていた男だ。
 その四百年以上もの間には、ベリルとは比べようもないほどたくさんの出会いや別れがあって、別れることにも見切りをつけることにも慣れているに決まっている。ベリルが厄介なしがらみになる前に、然るべきときに区切りをつけるはずだ。
 ──だから。

「うん。大丈夫」

 ただの与太話を真に受けて、気にしすぎだ。素直にそう思えて、ベリルは可笑しくなった。
 ベリルの『特別』とブラッドリーの『特別』は、はなから重みが違う。ブラッドリーにとってベリルは、雑輩の中でたまたま目についただけのもの。長いことブラッドリーとチレッタしかいなかったベリルとは、まったくもってわけが違うのだ。
 一番でも唯一でもない。大勢のうちの一人に過ぎなければ、切り捨てることもきっと容易い。
 大丈夫、とベリルは声に出さず繰り返した。余計な心配をするまでもなく、ブラッドリーはちゃんとベリルを切り捨てるだろう。
 もしものとき、しくじるとしたら──ベリルだけだ。それでいい。

「……そうか。そりゃよかった」

 ネロはちらりとベリルの顔を見てそう言ったが、視線はまだ躊躇いがちに揺れていた。まだ何か言いたいことがあるのは明らかだったが、会話は続かなかった。
 黙りこくった二人の横を活発な子どもたちがはしゃぎながら駆けていく。避けるために身を寄せれば同じく子どもを避けたネロと互いの肩がわずかにぶつかって、再び「悪い」と呟いたネロの表情はますます気まずそうに曇る。

「言いたいことがあるなら、言って」
「……じゃあ、さっきの話、俺も少しだけ蒸し返していい?」
「どうぞ?」
「……旦那が心配するっていうのは、まあ、嘘だったわけだけど……だからって、あんたを心配するやつがいないわけじゃない。……あんまり一人で出歩かないほうがいい」

 きょとんとしたベリルに念を押すように、ネロは続けた。

「出掛けるときは誰かに声かけて、なるべく二人以上で行動しな。……ほら、姐さんに気がある人間だけじゃなくて、やべえ魔法使いがどこに紛れてるかわかんねえしさ」

 程良く軽やかな口調とは裏腹に、表情は依然として曇ったままだった。
 これがルチルや賢者の言葉なら「私は北の魔女だよ」と笑うところだが、よりによってネロだから笑えない。ネロはベリルと同じくらい生きていて、北の魔法使いだったこともある。そのネロが、わざわざ北の魔女へ伝えることにした言葉だ。そこにある意図を汲まずに、跳ね除けるわけにもいくまい。
「覚えておく」とベリルが頷くと、ネロも「ん」と言葉少なに頷いた。
 この話はいよいよこれで終わりだと悟って、ベリルは前を向いた。
 温かい風が吹き抜けて二人の髪を揺らしていく。きっとネロの目元もあらわになっていて、そこには明るい陽の光が差し込んでいる。しかしその瞳を覗き込んだところで、その奥の本心はベリルには読み解けないのだろう。本当に何を思ってベリルに忠告したのかも。


 沈黙も戸惑いも飲み込んだ雑踏が少し遠のく頃、口を開いたのはネロのほうだった。

「なあ、今夜、何食いたい?」
「私がリクエストしていいの」
「いいよ。銀河麦買ってもらったし」
「じゃあ、クリームシチュー」
「了解」

「アーサーも喜びそうだな」と続けて、ネロは少し笑った。
 一度は触れるほど近づいた肩は、いつの間にかすっかり遠ざっている。近づく前よりも、少し遠く。


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