献杯

※第2部第22章までのネタバレを含むifです




 話があると呼び出されブラッドリーの部屋に行けば、そこには神妙な顔をしたネロもいて、顔色を伺うような目で私を見た。部屋にはなんとも言えない空気が漂っている。
 私がコーナーソファに腰を下ろすのを待って口火を切ったブラッドリーは、一つのマナ石を差し出した。

「エヴァをやったやつの石だ」
「……は?」

 思いがけず、掠れた声が出た。

「エヴァって、北の大魔女エヴァ?」

 私は知り合いが少ないから、ほかにエヴァという名を持つ者を知らない。ブラッドリーは「ああ」と言葉少なに肯いた。
 出来の悪い冗談だと笑い飛ばすところだろうか、けれど、ブラッドリーがこんな冗談を言うとも思えない。私はチレッタと親しかった反面、エヴァとはさほど交流をもたなかったが、ブラッドリーは違った。エヴァの名誉を傷つけるようなことは、冗談でも言わないだろう。
 それでもブラッドリーの言葉を素直に受け止めることもできなくて、マナ石を見つめたまま「エヴァ『を』って言った?」と問うてみる。

「エヴァ『が』の間違いじゃなくて?」
「そんなクソみてえな言い間違い、俺様がすると思うか?」
「……だって。まさか、あの人がこんな……」

 ただ信じられなかった。高貴で強大ないかにも北の魔女らしいあの大魔女が、オズでもミスラでもない者の手によって石になるなど、いったい誰が想像しただろう。
 目の前のマナ石からは、エヴァの魔力を取り込んだだけあってそれなりの強い魔力を感じる。言いかえれば、『それなり』でしかなかった。あの大魔女の魔力を食らっておきながらこの程度に留まるのかと、失望してしまうほどの──こんな相手にあのエヴァが負けるとは、とても。

「どうする?」
「こいつは、ブラッドリーがやったの?」
「ああ」
「どんなやつだった。あんたの目から見て、エヴァを殺すのに相応しいやつ? エヴァを侮辱したりはしなかった?」

 マナ石から視線を外してブラッドリーを見やる。
 表情だけで、わかった。

「じゃあ、いらない。この石は欲しくない」

 えっ、と小さな声をあげたのはネロだった。ブラッドリーは「おまえはそう言うよな」と目を伏せて笑っている。私の返事をわかっていて敢えて声をかけたらしい。私はそれに「ありがとう」と返した。言葉だけ聞けば噛み合わない会話でも、私たちには十分だった。
 いつの間にかマナ石は手のひらから消えて、ブラッドリーの表情はあまり見慣れないものに変わっていた。ブラッドリーにも、思うところがたくさんあるのだろう。
 ふと視線を上げると、ネロと目があった。金色の瞳は戸惑いに揺れている。

「そんなに意外?」
「いや、意外っつうか……まあ、北の魔法使いでマナ石に興味がないやつのほうが珍しいだろ。エヴァのことを抜きにしても──」
「興味がないわけじゃないよ。そいつを欲しくないだけ。『エヴァのことを抜きに』できるなら、受け取っていたかもしれない」

 尤も、エヴァが絡んでいなければブラッドリーは私に声をかけなかっただろうが。

「それは……」
「そいつがエヴァを殺していなければ。もしくは、その石からエヴァの魔力だけ取り出せるなら」
「そんな方法、聞いたこともねえよ……」
「だから、それはいらないんだ」
「……あんた、そんなにエヴァと親しかったのか」
「全然」

 エヴァとは、親しくなかった。だからといって、なんとも思っていなかったわけじゃない。エヴァが私をどう思っていたか知らないが、私はあの人を嫌いではなかったし、苛烈な北の国で長い時を生き抜いてきた気高い北の魔女への敬意も憧れもあった。
 理想と言い換えてもいい。私が思い描く偉大な北の魔女は、エヴァの姿をしている。
 それは、チレッタへ抱いたような眩しく温かな気持ちとも違う。ほのかな、それでいてかすかに爆ぜるような、ささやかな憧れ。エヴァと出会ったのがまだ若い頃だったからこそ抱いた感情。チレッタへの敬意と憧れは彼女に親しむにつれ変容したが、エヴァとは関わりが希薄だったがゆえにそのまま焼きついたのだろう。どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ純然たる事実として、そうなのだ。
 私にとって、エヴァは北の魔女らしい北の魔女だった。チレッタが南の国へ移って、石になって──私が憧れていられる北の魔女はもう、あの人しかいなかった。
 北の国では、誰かが石にされたなんて話は快晴よりも珍しくない。エヴァが石にされた。それもまあ、ひどく残念ではあってもかろうじて飲み込める、いや、飲み込まざるを得ない話だ。目の前にあるものがエヴァの石なら、感傷とともに一口で飲み下したのに。エヴァの尊厳を踏み躙り、嘲りながら石を食べたようなやつまで、自分の中に取り込みたくはない。
 ふ、と息を吐くと、「ベリルはマナ石の選り好みが激しいんだよ」とブラッドリーが笑った。

「嫌いだ、食いたくねえと思ったやつの石は絶対食わねえ。質の良し悪しに関わらずな」
「だって、嫌いなやつを自分の中に入れたくないじゃん」
「……へえ」

 食べ物の好き嫌いはそうでもねえのにな、とネロが呟く。気を遣われたのだろうか、その声はどこか冗談めいた響きを持っていた。

「あんた、食べ物だったら嫌いなもんでもちゃんと食うじゃん。我慢してさ」
「その言い草、私が小さな子どもみたいに聞こえる。……まあ、食事はともかく。選り好みできるのは強者の特権でしょ」

 そう答えると、ネロはかすかに目を見張った。視界の端にはブラッドリーの静かな笑みが映る。

「弱者は与えられたもの、手の中に落ちてきたものをただ享受するしかない。何事においてもね。でも、私は欲しいものを選ぶ」
「……強いから?」
「そう。強いから。与えることも選ぶこともできるし、欲しいものや好きなものを手に取れる」
「……あんたでもそういうこと言うんだな……」
「まあね。私は、そのために強くなったようなものだから。自分の弱さを恥じたり不甲斐なく思ったりすることはあっても、積み重ねた強さを恥じたりはしないよ」

 ブラッドリーが声を上げて笑った。少し腰を浮かせて手を伸ばしてきたかと思うと、そのまま私の二の腕のあたりを掴んで引き寄せる。そうして傾いた体を器用に抱き寄せたブラッドリーは、「てめえはそれでいい」と笑いながら私の背を叩いた。

「言われるまでもないけど、どうも。ところで、エヴァがどのあたりに住んでいたか知ってる?」
「昔の縄張りならわかるぜ。行くのか?」
「うん。エヴァの物が何か残ってるなら、私はそれが欲しい。だから場所、えーと、地図──」
「まぁ待て、その前に一杯やろうや」

 下へ降りていった固い手が、体を支えるためにソファについた手の甲を宥めるように撫でる。指先でするりと撫でて、ほんの一瞬力がこもって──きゅっと握られたようにも思ったが、それはきっと気のせいだろう。スキンシップが多いブラッドリーといえど、そんなふうに手を握ることはまずない。
 ……けれど、もし、気のせいではないのなら?
 ブラッドリーは笑っているように見えて、いつもの笑みではない。そんなことは、こんなにも近い距離で見上げるまでもなく、わかる。

(……でも、わかったところで)

 たぶんそれは、強くなっても、ままならないことだ。
 気がつけば重ねられた手はそのままに、動かせる親指に触れたブラッドリーの手を、そっと撫でていた。ブラッドリーは何も言わない。ただ私と同じ温かさを持った固い手だけが、ぴくりと動いた。

「……あー、俺、席外そうか……?」
「なんで? あぁ、疲れてるよね、ネロも」
「いや……それは、まあ……」
「でも、もう少しいなよ」
「そうだぜ、ネロ」

 あっさりとなんでもない顔で手を離したブラッドリーが、酒とグラスを用意し始める。
 その横顔を見つめる。例のマナ石の気配はすぐ近くにある。
 それが不思議なほど物悲しかった。エヴァではない、エヴァを殺した魔法使いのマナ石。その魔法使いの名前は知らない。知ろうという気にもならない。知ったところで今更呪えもしない相手だし、そいつの死を悼むのも私がすることじゃない。
 悪く思うな、と心の中で呟いて。
 それから。


 この一杯を、エヴァへ。
 ゆかりもない小娘からの献杯などいらないと、あの人は嫌そうに言うかもしれないけれど。



230903 / 230930
夢主をぶちこむのは野暮だと思いつつもエヴァの退場が本当につらかったので書きました。
お互いに相手を慰めてやってるつもり。慰められてるつもりはない。
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