「──し、死んだかと思った……」
ベリルはハッと目を見開いて、詰めていた息を吐きだした。突然のことに何が起こったのかよくわからなかったが、それでも心臓は早鐘を打ち、冷や汗が背筋を伝っている。フィガロの魔法をこの至近距離で、しかもノーガードで受けたのだ。それがどんな魔法であるにしろ、平静でいるほうが難しい。
動揺しながらも、ベリルは背後から頭を抱き寄せられていることを認識した。武骨な手だ──そう思ったのも束の間、熱が離れていく。視界の端でその手が長銃を構えたのがわかった。
ベリルから距離をとったフィガロが、両手を挙げてからからと笑う。
「怒らないでよ、ブラッドリー。善意だってば」
「善意なら何しても許されんのかよ」
「それはどうだろう。わからないけど、俺としては今、きみたちに許される必要性は特に感じないかなぁ」
「あ?」
「よさんか、二人とも」とスノウが二人を窘める。
「それで、どうじゃ? 何か思い出せたかの」とホワイトはベリルを見上げた。
銃を収める気配を感じながら、ベリルは首を横に振った。肝は冷えたが、そのほかには何一つ変化がない。
「フィガロや」
「残念ですけど、ちょっと難しいですね」
笑いを引っ込めたフィガロが、検分するような目つきでベリルを見た。
「厄災の影響なのかな、きみがかけたっていう保護魔法がめちゃくちゃになってるね。捻じ曲がったりこんがらがったり……。完全に無効になってるわけでもなくて、部分的に、中途半端に機能してる。だからこそ、俺も迂闊に触れられない」
「……そう」
「少し強引なやり方になっても構わないなら、綻んだ隙間から記憶を引っ張り出してみてもいいけどね。完全なかたちで取り出せる保証はしてやれないよ。たぶん、どこかに歪みができる……それは嫌だろう?」
「当たり前です」
「となると、やっぱり根本的な問題を解決するしかないね」
結局のところ、それしかないのか。
ベリルが黙り込むと、フィガロは再び笑みを浮かべた。
「落ち込まないでよ」
「落ち込んでませんが?」
「そうだ。スノウ様とホワイト様は、彼女の師匠とお知り合いだったんでしょう? 教えてあげたらいいんじゃないですか」
ベリルのムッとした声は、フィガロには届かなかったらしい。話の矛先を向けられた双子は、揃って「はて」と首を傾げた。
「なんと説明したらよいものか」
「あやつを言い表す言葉を見つけるのはちと難しいのう」
「名前くらい言えねえのかよ」
「名前……我らは『気ままちゃん』と呼んでおった」
「それ、名前じゃなくないですか……?」
怪訝な顔をしたベリルとは対照的に、双子は至って真面目な顔で「名は知らん」と声を揃える。
「名乗りもせずに呼びたい名で呼べと言って、相手に呼び名を委ねる奴での。いくつもの名前を持っておった」
「その上、服を着替えるように顔を変え、装飾品を付け替えるように性別を変える奴での。ベリルの知るあやつがどんな姿でどんな名を呼ばせていたのか、我らにはわからぬのじゃ」
「……一応聞くけど、これを聞いて何か思い出したことはある?」
「いいえ」
「うーん、残念」
そう言うフィガロの顔は、残念そうでも気の毒そうでもなかった。顔を顰めたベリルの後ろから、低い舌打ちが聞こえる。
それが聞こえたのかどうか、フィガロは「じゃあ、次はブラッドリー」と指を鳴らした。
「彼女の魔道具に心当たりは?」
「鋏」
一切の迷いもなく、ブラッドリーは即答した。双子が感心したように息をつく。
鋏──ベリルはブラッドリーの言葉を反芻する。思い当たる節はないでもないが、だからこそ、ベリルは渋面をつくった。なんとままならないことか。
「鋏って、銀の?」
「ああ。凝った装飾の洒落た鋏だ」
「……そう。たぶん、違う」
「は?」
ブラッドリーが眉を寄せ、ベリルはもう一度「鋏は違う」と繰り返した。
自分の魔道具が何かわからなくなった朝、ベリルはただ途方に暮れていたわけではない。必死になって思い出そうとしたし、探し回りもした。何か手掛かりになるものがあればと様々なものを手に取って、魔法を使おうと試みて──それを何度繰り返してもわからなかったのだ。
何しろベリルは、この数百年ずっとひとりで谷底の町を庇護している。あちこちに手も加えた。もはや、町が丸ごとベリルの所有物のようなものといっても過言ではない。家の中にあるものはもちろん外にあるものでさえベリルの魔力が染みつき、どれもが魔道具らしく思えるし、逆にどれもが決め手に欠けるようにも思える。
中でも一番それらしくて、にもかかわらず妙にしっくりこなかったもの──それこそがブラッドリーのいう『洒落た鋏』だった。
──本当にあの鋏が魔道具だったら、どんなによかったか。
「違わねえだろ。おまえの魔道具は昔から──、まさか変わったのか? いつ?」
「それを覚えてたら苦労してないでしょ」
フィガロが呆れたように口を挟む。ブラッドリーの反論を聞く前に、ベリルは頭を振って立ち上がった。
「帰る」
「何言ってんだ、自力で帰れねえんだろ」
「……ここ、賢者の魔法使いが住んでるんでしょ。ミスラを見つけて、町まで空間を繋げさせる」
「あれ? ベリルちゃんってミスラちゃんと仲良かったっけ?」
「別に親しいわけじゃないですけど、うちにあるマナ石と引き換えに繋げさせます」
「うまくいくかのう……」
「泊まっていけば?」とフィガロは笑う。「どうせ近いうちに賢者様と北の魔法使いが町に行くんだし、そのとき一緒に移動すればいいんじゃない」
ベリルは堪らずフィガロを睨みつけた。
何が『泊まっていけば?』だ。友人でもなんでもない魔女にかける言葉ではない。ベリルがなんの脅威にもなり得ないから簡単にそんなことが言えるのだろうが、それにしてもあんまりな言葉だ。
見くびられている。軽んじられている。
弱っていても、記憶の一部が欠けていても、それでもベリルは北の魔女だ。自覚も矜持も、いまだベリルの中にある。危機意識も防衛本能も、ともに。
馬鹿にするな──喉元まで出かかった言葉を無理やり飲みこんで、ベリルは談話室の出入り口へ足を向けた。いかにも不機嫌そうなブラッドリーと視線がかち合い、じりじりと睨み合うかたちになる。ブラッドリーはベリルの進路を塞ぎ、退く様子がない。
先に動いたのはベリルだった。
魔道具を取り出すかわりに、鮮やかに彩られた爪先に魔力を乗せて指を振る。現れたいびつなつららがブラッドリーに迫り──しかしその目前で、つららは形を維持できずに水と化した。
──なんてザマだ。
唇を噛んだベリルの前で、ブラッドリーが顔を歪める。
「……どうしてあんたがそんな顔をするの」
思わずそう口にしてから、ベリルは短く溜息をついた。尋ねはしたが、答えがほしいわけでもない。答えも待たず強引に出ていこうとしたとき、それを引き留めたのはフィガロだった。
「待って。いや、帰れるなら帰ってもいいけど、言い忘れてることがあるよね」
「……なんのこと」
「きみには『心当たり』がある。そうだろ?」
ベリルはフィガロを振り返った。何を考えているのか、フィガロの口元はゆるく弧を描いている。
「まず、抜け落ちる記憶の法則。それは、大切な人、愛しい人、その人に関するあらゆる記憶──多くは家族や恋人の記憶だ」
その瞬間、空気が変わった、と思った。
「ってことは、つまり……」とホワイトが口を開く。先ほどまでとは明らかに声色が違っている。
「えっ、まさかそういうことなの?」とスノウも同じく茶化すような声色で言って、口元を手で覆った。
「ブラッドリーのこと好──」
「違います、断じて」
「でも忘れとるんじゃろ」
「はなから知らないんです」
「その言い訳は無理がある」
「ブラッドリーもニヤニヤしておるぞ」
「してねーよ。ガキじゃあるまいし」
ふん、と鼻を鳴らしたブラッドリーの表情を盗み見る。言葉に違わずニヤニヤはしていないが、しかし先ほどまでの険しさもない。
フィガロに目を向ければ、フィガロはへらりと笑って「助け舟のつもりだったんだけど。ありがとうは?」と宣った。
「帰る」
「あれ、聞こえなかったのかな」
返事をするかわりに大きく舌を鳴らしたベリルを、ブラッドリーがかすかに笑う。
「……何」
「いーや?」
含みのある言い方に、ベリルはもう一度舌打ちをした。戸惑いも焦燥も葛藤も屈辱も、すべてが苛立ちに収束していったようだった。
ブラッドリーがおもむろに口を開く──が、何を言いかけたのかは結局わからなかった。慌ただしい足音によって掻き消されたからだ。
「スノウとホワイトはいますか? すみませんが、少し手を貸し──えっ? ど、どなたですか!?」
何やら慌てた様子で顔を出した人間が、ベリルと目が合うなり驚きに目を丸くする。これが話に出ていた『賢者様』だろうと、ベリルはまじまじとその姿を観察した。
町にこもりきりのベリルは、歴代の賢者にもお目にかかったことがない。ただ、賢者というのは異界からやって来るらしいという知識だけがある。そういう刷り込みがあるからなのか、ベリルがこれまで見てきた人間たちとはどこか違う雰囲気を纏っているように見えた。
「賢者ちゃん、ちょうどいいところに!」
「ブラッドリーちゃんがベリルちゃんを連れてきてくれたんじゃよ!」
「ベリルさん……って、依頼のあった谷底の町の?」
ぴょこぴょこやってきた双子の説明に、賢者はいかにも人の良さそうな顔をいっそう驚きに染め、それから緊張を滲ませる。背筋を伸ばし、ベリルを見つめる目は無垢で真っ直ぐだ。
「は、初めまして。賢者の晶といいます」
「……北の魔女、ベリル。知ってのとおり、谷底の町に住んでいる」
「その……実は、谷底の町で起きている異変について、魔法舎に依頼があったんです。それで、近々調査に伺いたいと──」
「その話はもう聞いた」
「そ、そうですか……! えっと、では、私たちが谷底の町に入ることを認めていただけますか……?」
どうやら賢者は、ベリルが町に余所者が入るのを嫌っていることもすでに聞き知っているらしい。大方、スノウとホワイトだろう。
ベリルは逡巡ののち、首を縦に振った。賢者の顔から緊張が解けていく。双子がするりと賢者の腕をとり、愛らしい笑顔を見せて今後の手筈について話し始めた。
その様子を眺めながら、ベリルはひっそり歯を食いしばった。
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