ベリルの氷像は一時期、西の国の魔法使いたちの間で密かな流行品だった。
商売を生業にしている知人が仲立ちをして、趣味で作ったものを売ったり注文を受けて新たに制作したり、細々とした商売だったが、どれもこれも高値で買い手がついた。中には動物を模した動く氷像を買い取って、溶けぬよう定期的に魔法をかけ続け、愛玩動物のように何十年も愛でる者もいたという。
けれども特に注文が多かったのは、花を模したものだった。像というよりもオブジェというべきか。純氷で作られた透き通る花が持ち主の心を反映し、様々に色づく。移ろう心に寄り添うようにゆっくりと色合いを変えていくことも、一途な強い想いに染め上げることもできたが、より人気があったのは後者のほうだった。
大切な人にこの花を贈りたい。自分の心を知ってほしい。
そんな西の魔法使いたちに、ベリルはいくつも花を売った。一輪だけ作ることもあれば、花束を作ることもあった。それらをすべて集めれば、北の国にもそこそこ大きな花畑ができるだろう。
商魂があるわけでもないから不定期な商売だ。特にこの数十年などはほとんど休業しているようなものだというのに、仲立ちの知人のところには今でも時折氷の花を買いたいという魔法使いが現れるらしい。
「今は承れませんとお伝えしておきました」と、そんなふうに知人に報告されるたび、ベリルは「助かるよ」と苦笑する。
それから、考える。
──いつになったら、また花を作る気持ちになるだろう?
* * *
魔法舎に来てから、シャイロックのバーにはまだ数えるほどしか訪れたことがない。いくらシャイロックが昔からの顔見知りでも、決して気心が知れているというわけではなかったし、何よりほかの魔法使いと鉢合わせるかもしれないことを考えると、おのずとバーから足が遠のく。
それでも今日足が向いたのは、任務で半数以上の魔法使いが出払っているから。そして、ムルが強引だったからだ。
ムルはベリルをバーに押し込むと、「じゃーん!」と声を上げた。
「……何?」
「あれ? 気がつかない?」
「何に」
尋ねた直後、ベリルは合点した。カウンターに見覚えのある花が一輪飾られている。ベリルのものではない魔力がいくらか重ねられているが、間違いなく自分が作った花だ。花弁も葉もすべてが透き通るその花は、シャイロックの瞳に宵を一匙垂らしてじわりと溶かしたような、複雑な色をしていた。
「花……この前まではなかったね」
「正解! 今夜飾ったばっかり!」
「先日神酒の歓楽街に戻ったついでに、こちらへ持ってきたんです。無人の酒場を飾る無垢な花というのも、それはそれで趣がありますが……この賑やかな魔法舎ではどんなふうに色づくのか、興味が湧いたので」
ゆったりと微笑んだシャイロックに促され、ベリルは椅子に腰掛けた。並んで座ったムルがカウンターに肘をつき、氷の花をまじまじと覗き込む。熱視線で氷が溶ける……なんてことはないと断言できるが、今にも花弁に触れそうな鼻先は気になった。
シャイロックが所有しているこの花は、ベリルが売った花のうち最も古い一輪だ。ゆえに、彫りも魔法も些かつたない。かけた魔法も時間が経って弱まっているし、人肌に長く触れれば、かたちが崩れてしまう可能性は十分にある。
「ムル」
窘めるようにシャイロックがムルを呼んだが、当のムルはお構いなしに「これがシャイロックの心の色?」と無邪気な声色で尋ねた。
「どうでしょうか。この花にかけられているのは、心のままに色合いが移ろう魔法。ベネットの酒場に飾っていた頃も、その夜のお客様の心を反映して色とりどりに染まっていましたから、案外あなたの心の色かもしれませんよ」
「えー、俺の心ってこんな色かな? ベリルのは? こんな色?」
「さあ……」
「そもそも、本当にこれは人の心を映してる? 誰も自分の心の色を知らないよね。俺は知らない! 誰も心を見たことがないのに、これが本当に心の色だって、どうやって証明する?」
猫のような目がベリルのほうを向く。矢継ぎ早に問いかける姿は天真爛漫な子どものようでありながら、浮かべられた笑みの底知れなさは到底子どものそれではない。双子と対峙しているときとも異なる、妙な圧がある。
「大切な人に自分の心を知ってほしい、だからこの花を贈りたい。そう言ってベリルの花を欲しがった人たち。たくさんいたっていう彼らは、いったい何を根拠に、この花の色が自分の心の色だと確信していたんだろう? 反映しているのは空模様かもしれないし、心は心でも、作り手であるベリルの心かもしれないのに」
「少なくとも空模様じゃないことは、外に出て空を見上げればわかると思うけど」
「そうかな? それだけじゃ、ほかの土地の空模様を反映してる可能性までは否定できない」
「……そんなに突き詰めて否定する必要がある? 買い手はそんなの求めてない」
ムルの傍らで花弁のふちが青白く透けた。一瞬、魔法が弱まって色が抜けてしまったのかと思ったが、目を凝らせばほのかに煌めいていることが見てとれる。──銀色に染まっているのだ。
「送り主の心の色が滲む魔法を私がかけた。作り手の私がそう言ってる、それで納得できる奴だけが花を買った。そうでなくとも、彼らにとって根拠だの確信だのは些事だった。花の色が示すものが空模様でも心模様でも、その心が誰のものでも、『花が色づく』ならそれでよかったんでしょう。だいたい、色がなくたって私の花は十二分に綺麗で申し分ない」
「なるほど。つまり彼らは、美しい花が自分の元へやってきてどう染まるのか、染まりきるまでわからない緊張感と期待感を楽しんでるんだ」
「プレゼントを開ける子どもみたいにね。……いや、少し違うかな。もっと勝手に騒々しく、意味やロマンを見出していたわけだから……」
「占いにドキドキするみたいに?」
「あぁ、そんな感じかも」
「じゃあ、今のシャイロックもそんな感じ?」
にっと笑ったムルの視線を受けたシャイロックは、いつもの微笑みを浮かべたまま「おや」と小さく首を傾げた。
「そう見えますか?」
「見えない!」
「なんで訊いたの……?」
呆れるベリルに、シャイロックは笑みを向けた。
「ムルの話に、そんなにまともに付き合わずとも大丈夫ですよ」
「俺はもっとベリルと話したい。議論だってしたい!」
「話してもいいけど議論はしたくない」
「ふふ、素直な人」
ベリルは肩をすくめた。そこで席を立ってもよかったが、見計らったかのようにシャイロックが「お代はいただいていますから」とカクテルを出してくれたので、すっかりタイミングを逃してしまった。
花の色はいつの間にか半分以上銀色に変わっていて、中央に近い部分だけが明けゆく空のような色をしている。それがこの場の誰の、どんな心を映しているのでも──目を引く色だ。
「ねえベリル、さっきの話の続き!」
「嫌だ。もう終わった」
「まだだよ! ベリルは花の色を染める心が誰のものでも、彼らは『花が色づく』ならそれでよかったんだって言ったけど、それじゃ『自分の心を知ってほしいからこの花を贈りたい』っていう彼らの希望には沿ってないよね。それについては、ベリルはどう思う?」
「……どうもこうも。彼ら自身が無自覚だったか、そういう遊びだったんじゃないの。結局、心を知ってほしいなら、言葉に勝るものはないんだから」
「言葉には視線も敵わない? 時に視線は口より雄弁だ」
「だとしても、多くの人は自分の言葉で心の中を整理するでしょう? 絵や音楽で表現する人もいるけど、大抵の場合、かたちのない心に輪郭を持たせるのは言葉だと思う。……他人に、明確に伝えられるのも」
「うーん、なるほどね! そもそも心を定義づけられるのは世界にただ一人、自分自身だけ。花の色が何を映していたとしても、その色を『自分の心の色だ』と本人が定義するなら、それは一つの真実になるわけだ」
何か得心がいったのか、ムルはうんうんと頷いた。それから目を細め、花を見つめる。
ベリルはほっと一息ついて、グラスに口をつけた。
「じゃあ、これは俺の心の色!」
「……あ、そう」
「あはは! 興味なさそう」
「全然ない」
「僕はあるかもしれない」
「!?」
驚いて振り返ると客が増えていた。垂れ目がちでおっとりした雰囲気の男。確か名前はラスティカ、西の魔法使いだ。その後ろには、赤毛の若者が戸惑った様子で立っている。仕立て屋で西の魔法使いの、クロエだ。
ラスティカは上品さを感じさせる仕草で花を覗き込んで、「素敵な花だね。香りは……しないみたいだけれど」と首を傾げた。
「氷の花ですからね。これは一輪挿しですが、ベリルブーケといえば、豊かの街でも流行ったのでは?」
「ベリルブーケ?」
今度はクロエが首を傾げた。ああ、と頷いたラスティカが「これは、ムルの心の色なんだね」と笑う。ムルが「そうだよ!」と笑うものだから、会話に取り残されたクロエは一人困惑している。
「え? え? どういうこと?」
「ある魔女が氷から作った特別な花で、心模様を反映して色が変わるんです。美術品として、あるいは大切な人への贈り物として、かつて多くの西の魔法使いたちが夢中になりました。今はほとんど出回っていませんから、お目にかかれる機会は少ないですが」
「へえ! それで、今はムルの心を反映してるってことなんだね。凄いなあ……! 色も綺麗だけど、作りもすっごく綺麗! 花びら一枚一枚が丁寧に作り込まれてて、本物の花を摘んできたみたい」
「ええ、そうでしょう? 私もお気に入りで。ちなみに作り手は、こちらにいるベリルですよ」
「ええ、そうなの!? あっ、だからベリルブーケ!?」
目を丸くしたクロエがベリルと花を交互に見やった。シャイロックもムルも、素直な反応をするクロエをどこか微笑ましそうに見つめている。おそらく普段から、さぞ可愛がっているのだろう。
ラスティカもにこにこしていたが、しかしその視線は、ベリルに向けられていた。
「素晴らしい。こんなにも繊細で美しい、たくさんの人の心を惹きつけるものを作れるなんて……僕の花嫁かもしれない」
「は?」
「《アモレスト……》」
──この優男は何を言っているんだ?
人当たりの良い笑顔で妙なことを言っている。まったく意味がわからなかったが、ラスティカが魔道具らしき鳥籠をかざしたのを見て、ベリルも反射的に魔道具を構えた。
「わーっ! ストップ、ラスティカ! 人違い! っていうか、その人はダメだって!」
弾かれたような勢いで、クロエがラスティカに飛びつく。それは、先ほどまでの比ではないくらいの慌てぶりだった。
「花嫁は花嫁でも、その人はブラッドリーの花嫁さんだから……!」
「……は?」
「ベリル、凄い顔ー!」
「いや、だって……え?」
ラスティカは「あれ?」ととぼけた顔をして、ムルはけらけら笑っている。シャイロックの笑みにも含みがあって、ベリルはにわかに居心地が悪くなった。
……それでも、クロエよりはマシに違いない。クロエは見るからに萎縮して、おどおどしていた。
「ご、ごめんなさいベリル様! これはその、ラスティカの癖みたいなもので、悪気があったわけじゃなくて……!」
「……落ち着いて、坊や。何をしようとしたか知らないけど、魔法舎の中で誰かを石にしたりはしないよ。未遂だし、そのくらいの分別はある」
「そ、そっか……! ありがとう……!」
「それより、さっきの何? 誰が誰の花嫁だって?」
「え? ベリル様が、ブラッドリーの……」
「違う」
「えっ」
「違うから。誰がそんな……いや、どうせ双子かフィガロでしょう」
「あっ、うん……えっと、俺、二人は婚約者みたいなものって聞いたんだけど、違うの……?」
「違う。真に受けないで」
再び目を丸くするクロエは本当に驚いている様子で、「えー! ごめんなさい、俺すっかり信じちゃってた……!」と眉を下げる。
反応がいちいち素直で、まるで純真な子どもを相手にしているみたいだ。ベリルは眉間の皺を和らげて、なるべく穏やかな声を出した。
「わかればいいよ。悪いのは嘘を教えた年寄りだから」
「クロエは素直ですからね」
知っていて黙っていたあなたも悪いのでは──とは、シャイロックが相手となるとさすがに言いづらい。ベリルはぐっと押し黙って、ダーツの矢をもてあそんだ。
カウンターの花は誰の心を映してか、恥じらうように赤い。
聞けばラスティカはいなくなった花嫁を探しており、花嫁と思しき者を──魔法使いも人間も老若男女関係なく──見つけると、小鳥にして鳥籠に閉じ込めてしまうらしい。物腰柔らかな紳士の顔をしているくせに、とんだ奇癖の持ち主だ。
やがて、クロエとラスティカとムルは花の色を変える遊びを始めた。一人が心に何かを強く思い浮かべて、どんなことを考えたのかをほかの二人が当てるという遊びだ。
ベリルも誘われたが断った。カクテルをちびちび飲みながら、賑やかな様子を眺めるともなく眺める。
「ベリルブーケなんて言われてたの、知らなかった」
「言い出したのはチレッタですよ」
「そのまんまじゃん。……あなたにあげた花が、まだ残ってるのも知らなかったし」
「意外でしたか? 水をやるように魔法をかけてくださるお客様がいたおかげか、こうして長い間楽しませてもらっていますよ」
「ふうん……」
「……もう、花は作らないのですか?」
一拍おいて、ベリルは「わからない」と呟いた。
氷の花は元々、チレッタのために作り始めたものだ。彼女は花が好きだったから。いつ始めたのかは覚えていないが、毎年彼女の誕生日に花を贈った。そのチレッタに後押しされるかたちで、細々と売るようにもなった。
チレッタが南の国へ移住したあとも、誕生日には花を贈り続けた。彼女が世界のどこにもいなくなって、花を作るのをぱたりとやめた。
ベリルの心が滲む花を受け取って、どんな花より美しく笑う彼女がいない。それだけで、気が向かなくなってしまった。
「花を作るのは好きだったから、いつかまた、作りたいとは思うけど。それがいつになるかはまだわからない。商売も無期限休業中」
「期限を決める必要はないと思います。いつかそのときが来たら、あなたの心が教えてくれるでしょう」
「そのとき、ねぇ……。来るかな」
「ええ、必ず。また作りたいと、ベリルが思えているのなら。それに──」
シャイロックはそこで言葉を切った。ムルたちから一際大きなはしゃぎ声が上がったからだ。
二人揃って彼らの中心にある氷の花に目を向けると、今までに見たことがないほど極彩色に染まっている。好きな色の絵の具を好きなだけ並べたような──たくさんの色が入り混じっているのに、決してぐちゃぐちゃしているわけではない。不思議なことに、むしろ調和が取れて見えた。
「うわー! めっちゃカラフル!」
「踊り出したくなるような楽しい色だね」
「ベリルも見て見て! 俺たち三人の心の色!」
まるで一輪の花の中に、いくつもの花火が打ち上げられているみたいな色。
「……っはは、凄い色」
賑やかな西の魔法使いの笑い声にあてられて、ベリルも笑った。
シャイロックは言葉を継がなかったが、彼が言いかけたことが何だったのか、少しだけわかるような気がした。
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