ベリルのバレンタイン

 異界の風習、バレンタイン。なんでも日頃の感謝の気持ちを込めて、友人や恋人、そのほか世話になっている人などにチョコレートを贈るのだという。
 大切な相手への贈り物だというのならいつでも好きなときに贈ればいいし、感謝の気持ちだっていつでも伝えたいときに伝えればいいのではないかと思うけれど、おそらくそういう機会でもなければ素直になれない奴や弱気な奴がたくさんいるということなのだろう。あるいは、ただ特別感に浸りたいとかはしゃぎたいとか、ちょっとしたお祭り気分を味わいたいだけなのかもしれない。
 果たしてチレッタの息子たちはその中の『どれ』だったのか、先刻受け取ったばかりの箱を眺めて考える。ベリルの瞳と同じ色のリボンがかけられた小さな箱。中には、二人が街で選んだチョコレートが収まっているらしい。
 手紙まで添えられたそれを二人揃って手渡しに来たとき、ミチルのほうは気恥ずかしさがあるのか始終落ち着かない様子だったが、ルチルのほうは堂々としたものだった。チレッタよりも柔和な笑みを浮かべていたものの、相変わらずチレッタの面影が色濃い。
「ベリルさんは、ブラッドリーさんにチョコレートを贈ったんですか?」
「いや、用意してないよ。あいつ肉派だし、チョコなんて興味ないでしょ」
「うーん……。私もチョコレートが一番の好物というわけではないですけど、もしベリルさんからチョコレートを貰えたらとっても嬉しいだろうなって思います。ひょっとしたら、一番の好物を貰うよりも!」
「ボクもそう思います! ……あっ、でもこれは、チョコレートを催促しているわけじゃなくて……!」
「……ふふ。ブラッドリーはそんなに可愛い性格してないと思うけど……、そうだな、素直な坊やたちには何か作ってあげる」
「えっ!」
 顔を赤くして慌てていたミチルの愛らしさと、ルチルの満面の笑みに流されたといえばそのとおりで──気がつけばキッチンでチョコレートの香りに包まれている。
 今し方焼き上がったチョコマフィンの出来栄えは、急いで作ったにしてはよく出来ていると思う。どうせ作るならアーサーや賢者の分も……といった具合で多めに作ったうちの、どれ一つとして焦げたりはしていない。もちろん形も良い。思いつきで猫やうさぎなどの顔を描いてみたりもしたが、快くキッチンを使わせてくれたうえに材料まで分けてくれたネロが覗き込んで「へえ、可愛いじゃん」と呟いた程度には可愛い。
「あんた、意外と可愛いことするんだな」
「子どもってこういうの好きじゃない? ネロはやらないの」
「まあ……やるけど」
「じゃあ、ネロも可愛いことしてるってことだ」
「いやー……俺は……まあ、うん……。つーか、そっちのには何も描かなくていいのか?」
 わざとらしく話を逸らしたネロの指が示した先には、ただのチョコマフィンがある。
「あー……うん、いい。これは、このままで」
 今度はベリルが言葉を濁す番だった。可愛いマフィンよりもいくらか甘さを控えて作ってあるのだが、ひとまず作ってみただけで、実際に渡すかどうかはわからないというのが正直なところだ。……まあ別に誰にも渡すことなく自分で食べたっていいし、バレンタインの贈り物が感謝の気持ちを伝えるものなら、このままここでネロに「キッチンを使わせてくれてありがとう」と渡したっていい。
 ベリルの微妙な声音を感じ取ったのか、ネロはそれ以上追及することなく「そっか」と頷いて、
「シンプルなのもいいよな」
 たぶん、そのようなことを言った。はっきりと聞き取れなかったのは、ちょうどそのときブラッドリーがキッチンに入って来たからだ。
「廊下まで甘ったるい匂いがしてやがると思ったら……」
 ブラッドリーは顔をしかめたベリルとチョコマフィンを交互に見やり、大股に近寄って来る。
「まさか、ベリルだったとはな」
「……何」
「いや? なんでもねえよ」
 なんでもないと言うわりに、なんでもない顔はしていない。にやりと口の端を吊り上げて悪どい笑みを浮かべている。どう揶揄ってやろうか考えている顔だ。
 訊かれる前に、ベリルは口を開いた。
「これは可愛い坊やたちの分だよ」
「……坊やたち?」
「あんたの分じゃないってこと」
「へえ」
 言ったそばから、指輪で装飾された手がうさぎの顔のチョコマフィンに伸びている。ぴしゃりと叩くと、その手がくるりと翻ってベリルの指先を掴んだ。
「何か言いたいことでもあるの?」
「ねえよ」
「じゃあ離して」
 ブラッドリーは何も言わずに、親指でベリルの爪先を撫でた。爪に乗せた色と同じ色をした瞳は、まっすぐこちらに向けられている。ずるいやつ、とベリルは胸のうちだけで呟いた。
「そんなに欲しいなら、欲しいって言って」
「盗賊に『強請れ』ってか?」
「別にそこまでは……あ、こら!」
 笑ったブラッドリーの空いているほうの手が、猫のチョコマフィンを掻っ攫っていく。こちらも反対の手を出すが、もう遅い。
「……甘ぇ」
「言ったじゃん、これはあんたのじゃないって……」
 ベリルは宙ぶらりんになった手を一度引っ込めて、しかしすぐ、その手でシンプルなチョコマフィンを指差した。甘さを控えめにした、自分の腹に収まるかもしれなかったチョコマフィン。
「……あんたのは、こっち」
 きまり悪くなって顔をそむけると、居心地悪そうなネロが目に留まった。心底居た堪れないという顔で、残ったマフィンの猫の顔を見つめている。ハッとしてブラッドリーの手の中から自分の手を引き抜けば、ブラッドリーはくつくつ笑って、顔のついていないマフィンへと手を伸ばした。

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