その空隙は誰かのかたち

 時は少し遡り、ブラッドリーとベリルがくしゃみによる一か八かの旅をしている頃。
 魔法舎には、ひとりの若者が訪れていた。

 若者の生まれは北の国の南西部、谷底の町だ。その名の通り谷の底にひっそりと存在する、とても小さな町である。嶮しく寂しい谷の底、訪れる者は少なく、去る者は多い。
 とはいえ、ひどく住みにくい町というわけでもなかった。谷底の町は長年ひとりの魔女の庇護下にあり、この魔女が時折、お気に入りの箱庭でも作るかのごとく町に手を入れる。
 中でも魔女がこだわって整えたらしい道は、人間にとって非常に便利だった。何しろ、どんなに吹雪いても雪がほとんど積もらない。この道を使えば、人間の足でも比較的楽に他所へ行き来できた。谷底の町から他国へ出稼ぎに行く者が多いのは、この道があるおかげといってもいいだろう。
 魔法舎を訪ねた若者もその道を通って出稼ぎに出た者のひとりで、普段は中央の国で働き、年に二度たくさんの土産を持って帰郷する。次の帰郷は、半年ほど先の予定だった。
 しかし、若者は大幅に予定を早め、つい先日谷底の町へ戻った。〈大いなる厄災〉の影響を心配したからである。今年はどこも甚大な被害が出ていると聞いて、故郷に残してきた母と幼い弟たちの様子がどうしても気になった。
 きっと魔女様が守ってくださったはずだ──そう思うものの、自分の目で見て確かめるまで安心できないのがこの若者の性質だった。
 若者は故郷へ戻ると、真っ先に家族の待つ家へと向かった。村は一見すると以前と変わらない様子だ。しかし、厄災がもたらす影響は目に見えるものだけではないとも聞く。
 ──家族の様子を確認したら、魔女の家を訪ねて話を聞いてみようか。魔女の元へ行くのはあまり気が進まないが、昔からこの町の人間を幾度となく助けてくれた魔女だという話だし、悪いようにはされないだろう。話を聞く価値くらいはある──。
 ほとんど駆け足で実家に辿り着いた若者は、家へ飛び込むやいなや母に尋ねた。

「ただいま! 元気だった? 厄災の影響はない? 大丈夫?」
「え、ええ……」
「あぁよかった…! 中央は今大変なことになってるから、おれ、心配で──」
「心配してくださって、どうもありがとう」

 若者はハッとして母の顔を見た。母はひどく戸惑った顔をしていた。ドキリとして弟たちに視線を移せば、皆、怯えたような表情を浮かべている。
 これは、いったいどういうことだろう。嫌な汗が噴き出してくる。

「でも、ごめんなさい──あなた、どちら様?」

* * *

 スノウとホワイトに案内された談話室で一通りの話を聞いたベリルは、無言のまま拳を握りしめた。双子と同様に直接若者の話を聞いていたらしいフィガロが、揶揄うような表情を浮かべてベリルの様子を見つめている。

「そなたの町で『そんなこと』が起こり得るものか、半信半疑ではあったが……」
「そなたを見て納得した。まるで人間のような気配じゃな」
「この距離におって、ほんのわずかにしか魔力を感じられん」

 左右に座る双子に顔を覗き込まれても、ベリルは何も言えなかった。
「じゃあ」と、壁に背を預けて話を聞いていたブラッドリーがずかずかと近寄ってくる。「じじいどもが何かしたわけじゃねえんだな」

「我らは何もしとらんぞ」
「どうしてそんなふうに思ったんじゃ」
「……こいつが、俺様を覚えてねえなんざ抜かしやがるからだ」

 有り得ねえだろ。吐き捨てる声は低く、彼の機嫌を物語っている。

「そのくせ魔道具は構えねえし、魔力は冗談みてえに弱ってる。魔力の件はともかく、記憶に細工すんのはいかにもおまえらやフィガロがやりそうなことだろ」
「ふむ。ベリルがブラッドリーを忘れることが有り得んかどうかはともかくとして、我ら、そんな野暮はせん」
「フィガロちゃんならどうか知らんが、たぶんせんじゃろう」
「たぶんというか、普通にしませんって」

 ベリルの目の前のソファに腰掛けているフィガロは半笑いを浮かべた。「この子の記憶を弄っても、俺にはなんのメリットもない」

「物凄く頼み込まれたら考えなくもないけど──」
「こいつがそんなことするかよ」
「その通り。俺は何も頼まれてないし、だから何も手を加えちゃいない。それにしても、ブラッドリーがそんなに彼女を気に入ってたなんて知らなかったよ」

 ブラッドリーの顔が歪んだ。
 空気がひりつく。だが、この程度のことに怯えるような者はこの場にはいない。
 ベリルは嘆息し、「それはさておき」と口を開く。

「私は、自分がこの男を忘れているなんてことは認めませんが──」
「あぁ!? まだ言うのかよ」
「──先程の話にあった通りの事象が私の町で起こっていることは認めましょう。おまけに、自力では解決できそうもない」

「はは、ずいぶん素直なんだね」とフィガロが笑う。
「嫌味ですか」とベリルは苦虫を噛み潰したような顔をした。

 本当は認めたくない。もちろん頼りたくもない。しかし、認めて頼らざるを得ないのが現状だった。それほどまでに今の己の魔力は衰えているし、町では異常な出来事が続いている。
 何より、ベリルより一足早く魔法舎を訪れた若者はこの事件の解決を正式に依頼し、賢者はこれを引き受けたという。若者は数百年にわたり町を庇護してきたベリルではなく、会ったこともない賢者とその魔法使いを選んだのだ。ベリルでは解決できないと察して。
 人間にさえそれを見抜かれた──そう思うとあまりの屈辱にどうにかなってしまいそうで、ベリルは強く唇を噛んだ。すぐに血の味が滲む。

「ベリルや、自分を恥じることはない」
「今年の〈大いなる厄災〉は、これまでとまるで違った。各地で秩序が乱れ、異変が起こっておる。谷底の町も例外ではなかった、それだけのことじゃ」
「他所のことはどうだっていいです。私にとって重要なのは、『谷底の町が例外になれなかった』ということだけですから」

 ──否、ベリルの力では、谷底の町を例外に『できなかった』のだ。
 これまで六百年近く庇護してきた町の異変を自らの力ではどうにもできない。それどころか、町がほかの魔法使いに脅かされないようにするために、昔スノウとホワイトに押しつけられたステンドグラスまで引っ張り出した。
 ただただ、惨めだった。らしくない、などとブラッドリーに指摘されるまでもない。それはベリル自身がよくわかっていることだ。

「こんなに最低の気分は初めてです。私の町に他者の介入なんか必要ない、私と共に滅べばいい……そう割り切れたら、幾分楽なんでしょうが」
「難儀じゃのう」

 憐れみとも呆れともつかない表情でスノウが言う。

「そなたはあの町を捨てられぬものな」
「生まれ持った性分のせいもあるじゃろうが……」

 よしよし、と幼子にするような調子でホワイトに頭を撫でられ、ベリルはいっそう顔を顰めた。
 不毛な時間だとでも思ったのか、フィガロが「とにかく」と口を挟む。
 
「賢者様がこの依頼を受けると決めたんだ。今のうちに、情報を整理しておこう。きみの知っている情報ときみ自身の異変について話して」

 声色こそ穏やかだが、有無を言わせぬ響きがある。ベリルはホワイトの小さな手をやんわりと押し返し、居住まいを正した。

「〈大いなる厄災〉が押し返されたその翌朝から、あなた方が聞いた通りの現象が起こっています」
「住民の、記憶の欠落?」
「ええ。とはいっても、一夜で皆の記憶が失われたわけではなく……最初の頃は、住民の半数以上にはなんの影響も見られなかった。だからその日のうちに、住民たちに記憶を保護する魔法をかけました。原因を探る間、事態が悪化しないように」

 それなのに、記憶の欠けた者が日に日に増えていく。
 その現象に呼応するかのように、土地の秩序が乱れていく。

「私も初めのうちは平気でした。だけど、ある朝目覚めたら──自分の魔道具が思い出せなかった」
「魔道具を?」

 有り得ない。魔道具を手にしない日なんて、これまで一度もなかったはずだ──そう思うのに、思い出せない。ただ、心にぽっかり穴が空いている。何か大切なものを忘れている。そういう感覚だけが、強くある。

「私はもう随分前から、自分にとって重要な記憶には保護魔法をかけています。そのおかげか──あるいは魔女だからか──住民たちと違って欠けた記憶はごく一部で、何を忘れているのかも大体わかってる。師匠のことです」

 背後から聞こえた大きな舌打ちを無視して、ベリルは話を続けた。

「私には師匠がいた。それは覚えてる。でも、師匠の顔も名前もどんな人物だったのかも思い出せない。つまり、そういうことでしょう。憶測ですが、たぶん私の魔道具は師匠に頂いたもので──だから、思い出せない」
「なるほどね」

 何を考えているのかわからない顔でフィガロが頷く。

「魔道具を思い出せないのは厄介だね。しかも、それがきみの心を大きく揺らがせる。不完全な記憶に不安定な心──そのせいで魔力が著しく弱ってる、ってところかな?」
「……おそらくは」
「そんな状態じゃ、原因を探るどころじゃないだろう。自力で解決できないのも納得だ」

 そう言ってフィガロが笑った。対照的に、ベリルの表情は曇る。──ちっとも面白くない。
 両隣りの双子が宥めるように、小さな手をベリルの手に重ねた。

「フィガロちゃん、なんとかできんかのう?」
「そういうの、得意じゃろ?」
「えぇ?」

 フィガロは面倒臭そうな表情を隠しもしない。次に続く言葉はきっと「嫌ですよ」だ──ベリルはそう思い、双子に「結構です」と声をかけようとした。
 そのときだ。乾いた指先が、とん、とベリルの額を突いた。

「《ポッシデオ》」

 ──気が、遠のいていく。
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