深緑覆う氷霜のライゼ 06

 氷霜蝶はもともと北の国の中でもごく一部の地域にしか生息せず──今の時代では既に滅んだとされる生物だ。そのため若い魔法使いにはほとんど知られていないし、たとえ長く生きている魔法使いであっても、実物を目にしたことがあるという者は限られている。
 ベリルが氷霜蝶をよく知っているのは単に、かつて谷底の町のすぐそばに最大の生息地があったからだ。町の中でも姿を見かけるほど、身近な蝶だった。
 氷霜蝶の氷のような体や翅は風景に──殊に北の国の銀世界には溶け込みやすく、人間の目では捉えにくい。氷霜蝶が地面に近い高さを飛んでいると、人間たちが気づかずに接触してしまうことがあり、羽化の時期を中心にそういう『事故』がしばしば起こる。
 基本的には低いところを飛ぶ蝶だから、特に危ないのが小さな子どもだった。子どもたちは蝶が顔の近くを飛んでいることに気づかず接触し、鱗粉を直に吸い込んでしまったりするだけでなく、鱗粉のついた手で食べ物に触れ、その食べ物を介して鱗粉を飲み込んでしまったりもする。体が小さく弱い分、鱗粉の影響が強く表れることも多い。
 体内に入った鱗粉は、自然に溶けることも排出されることもない。体は冷えるし、体の奥から絶えず感じる凍てつく寒さに、次第に人間は痛みを覚えるようになる。彼らを治してやれるのは魔法使いだけ。ベリルが度々氷霜蝶の鱗粉の対応に追われることになったのも、当然の流れである。
 もっとも当時の住民たちは慣れたもので、慌てることも怯えることもなかった。彼らにとっては、「少し厄介な風邪を引いた」程度の認識だったのかもしれない。
 町の中に残った鱗粉を処理するのも住民たちを診るのも、すべて一人でやるには多少手間が掛かる仕事ではあったが、それでもベリルは氷霜蝶のことが嫌いではなかった。どうせ時間は飽きるほどある。手間のかかる何かが起こってくれるほうが、退屈しなくていい。
 それに、氷霜蝶の鱗粉はそう簡単に剥がれ落ちるものではなかったし、襲いかかってくるような危険な蝶というわけでもない。希少種と呼ばれるだけあって数もさほど多くはなく、鱗粉にさえ気をつければ、ただ珍しい翅を持つだけの無害な蝶だ。やわらかな陽光も冴え冴えとした月光も己を引き立てる舞台装置に変え、銀世界を悠然と飛ぶさまは文句無しに美しい。
 だからベリルは、氷霜蝶が町の中を飛んでいるのを見かけても追い払うことはしなかった。人間が鱗粉の影響を受けないよう気を配りながら、光を透かすその翅をひとり楽しんでいたものである。
 ──かれこれ、五百年近く昔の話だ。


* * *


 村の入り口でする立ち話にしては些か込み入った話になると判断し、一行は場所を変えることにした。よそ者である賢者一行が集まって、住民の目や耳を気にせず話をできる場所など限られている。村長の息子夫婦が暮らしていたという家を使うことになったのは、当然の流れだった。
 息子家族が出ていって以降はずっと空き家だというわりに、家の中は意外なほど綺麗だった。テーブルや椅子などの最低限の家具も揃っており、食器棚の中にはカトラリーや食器が納められている。

「……いつでも戻って来られるようにしてあるのかもな」

 キッチンまわりを確認していたネロが言う。確かにこの家にあるものはどれも、夫婦と子どもが生活するのにちょうどいいくらいの数だろう。賢者一行の人数分にはあきらかに足りない。……家を使わせてもらうにあたり賢者とファウストが村長に断りを入れに行ったとき、「それなら是非こちらを」と食材やら食器やらたくさん渡されたため、今ではむしろ余っているくらいだが。
 渡された食器はひとまずネロが引き取った。いくつかはダイニングテーブルの端に積まれている。反対端には氷霜蝶が入ったガラス玉が置かれ、シノが食い入るようにその様子を観察していた。

「なあ。ガラス玉の下のほう、何かキラキラしてきてないか?」
「あ、本当だ……」
「もしかして、鱗粉?」

 ヒースクリフと賢者もガラス玉を覗き込んだのを見て、ベリルは口を挟んだ。

「狭い中を飛び回ってるから、翅がガラスにぶつかって鱗粉が落ちたんだろうね。もっと広くしてやればよかったのに」
「そのガラス玉を作ったのはブラッドリーだ」
「わかってる」
「おい、文句があんなら直接言えよ」
「文句じゃなくて感想」

 椅子にふんぞり返って座っているブラッドリーから、呆れた溜息が聞こえてくる。素知らぬふりで聞き流してやった。

「ところで」

 と、ファウストが口を開く。子どもたちほど熱心ではないにしても、ファウストもずっと氷霜蝶を眺めていたひとりである。氷霜蝶についてベリルが話している間、誰より真面目な顔で耳を傾けていたのが印象的だった。

「ベリルの話を聞いて思い出した。氷霜蝶の生息地が限られていたのは、そもそも主食となる雪苔桃(ユキコケモモ)が希少種で、北の国の一部にしか自生していなかったから……だったか」
「よく知ってるね。本当に東の魔法使い?」
「正真正銘東の魔法使いだよ。昔、少し教わったことがあるだけだ。その時点ですでに滅んだ生き物だと聞いていたから、今更その知識を思い起こすことになるとは思わなかったが」

 そう言って、ファウストは顎に手をやった。

「蝶は食草が決まっているのが普通だろう。この辺りに雪苔桃は……」
「見当たらない。変種がある可能性も考えたけど」

 ちらとブラッドリーを見やると、「それらしいもんは何もなかった」と明快な答えがある。

「というわけで、異常発生したのは氷霜蝶の大群だけみたいだね」 

「大群?」と口を挟んだのはシノだ。「どうして群れってわかるんだ」
 言葉にこそしなかったが、「オレはこの一匹しか見かけなかったのに」という心の声が聞こえてきそうな表情を浮かべている。
「生きた氷霜蝶から鱗粉が落ちるのは、大抵、翅が何かに擦れたときだ」とブラッドリーがふんぞり返ったまま言った。

「狭え場所を無理に飛んだとか、群れて他の蝶と翅同士が擦れ合ったとかな。この辺りは確かに鬱蒼としちゃいるが、俺たちが十分通れるんだから、蝶にとっても狭えわけねえだろ」
「だから、群れだっていうのか」
「大量の蝶が群れて犇めき合って、それでやっとこの量になるかどうかってところだ。相当いなけりゃ、こうも白くはならねえ」
「でも、本当にそんなにたくさんいるとしたら、もっと見かけてもいいはずだろ」
「全部が今も生きてりゃそうだろうが、死んだのもそれなりの数いるだろう」

 木陰の村周辺は北の国よりも温暖で湿度が高く、雪苔桃も生えていない。氷霜蝶には適さない環境なのだ。『霜』の発生から日も経っているし、断続的に新たな個体が発生しているのでもなければ、この辺りに現れた氷霜蝶の群れは発生当時よりもいくらか小規模になっているはずである。

「死ぬ間際も鱗粉は落ちやすい。弱ってくると、菓子の砂糖みてえにポロポロ落ちやがるしよ。ここら一帯がこれだけ白くなったのは、そのせいもあると思うぜ」
「それならそれで、死骸が見つかるはずじゃないのか」
「いいや。これでも一応、氷霜蝶は魔法生物だからな。見つかるってんならマナ石だ。……が、こいつらはそれも残らねえ」
「どういうことだ」

 眉を寄せたシノはファウストを振り仰いだ。静かに話を聞いている賢者とヒースクリフも、それぞれ困惑気味の表情を浮かべている。
 ファウストはそんな三人に「聞きかじった程度の知識だが」と前置きをした上で、

「氷霜蝶がその翅や体で吹雪の中でも生きられるのは、常に魔力によって翅体が保護されているおかげだ。寿命などで魔力が衰えるにつれ、脆くなっていく。死を迎えるときには、マナ石に変わるより早く粉々砕け散ってしまうという話だ」
「ま、寿命で死ぬやつは滅多にいねえけどな。弱ったところを吹雪に巻き込まれて、そのまま砕けるのがほとんどだ」
「……そんなに脆いなら、このガラス玉に翅がぶつかるのも良くないんじゃ……」

 氷霜蝶を見やった賢者の眉はすっかり垂れ下がっている。
 捕えられている氷霜蝶はいつの間にか飛ぶのをやめ、ガラス玉の底に止まっていた。薄い翅は向こう側が透けて見える。ゆっくり閉じたり開いたりする動きを繰り返していなければ、ぱっと見た限りでは蝶が消えたようにも思えるかもしれない。

「今は大丈夫だよ。まだ弱ってないから」

 ベリルが答えると、ヒースクリフが「まだ……」と繰り返した。

「あまり心を寄せるのは止しなね。受けた依頼を解決したいなら氷霜蝶を野放しにはできないし、どうせこの森じゃ長くは生きられない」
「……そう、ですよね」

 ヒースクリフの様子はしゅんとして見える。それがなぜか幼い頃のアーサーの姿に重なって、急に居心地が悪くなった。翳る瞳が青い色をしているせいだろうか。子どもの悲しげな顔が目の前にあると、どうももぞもぞしてしまう。
 そのとき、タイミングを見計らったかのようにネロがキッチンからやってきた。

「そろそろ腹が減ってきただろ。ガレットできたぞ」
「ガレット? こういうときは肉だろうが、肉」
「絶対言うと思ったけど、分けてもらった食材で作れるもんってなると肉料理は無理だ。我慢しろ」

 ネロはブラッドリーをあしらいつつ、ガレットをのせた皿を並べていく。
 当然のように自分の前にも皿が置かれ、ベリルはまたもぞもぞした。



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