シュガーが溶けたら

 遅めの朝食をとり終えたフィガロが一度部屋に戻ろうとすると、廊下の端に蹲る人影があった。魔法舎の居候、ベリルだ。体調でも悪いのか、半ば壁にもたれかかるような格好でぴくりとも動かない。
 さて、どうしたものか。フィガロは静かにその姿を観察する。
 ブラッドリーがベリルを連れてきて一ヶ月になる。ベリルとは以前から面識があったものの親しい仲ではなく、その距離感はいまだ変わっていない。
 ベリルがまだ幼い頃に双子の居城で顔を合わせたきり、付き合いらしいものはほとんどないまま数百年。次にきちんと言葉を交わしたのは、ブラッドリーを捕まえた後のことだ。
 あのとき、ブラッドリーと懇意にしていたというベリルを尋問することになったのは当然の流れだったと思っている。ベリルも馬鹿ではないから理解していただろうが、当時のベリルの態度は従順とは言い難く、尋問が多少手荒になるのもまた当然のことだった。──結果として、それ以来フィガロはベリルに嫌われている。
 だからここでフィガロが声をかければ、ベリルは不快感を示すに違いない。それくらいのことは、親しくなくとも容易にわかる。
 ベリルに嫌われているからといってフィガロにはなんの損害もないし、傷つきもしないのだが、あからさまな態度を取られれば少なからず腹は立つ。善意に対して返ってくるものがそれだったなら、尚更だ。
 ここは何も気づかない振りをして立ち去るほうが、お互いの心の平穏のためだろうか。
 そう思いながらも、しかしフィガロはそっとベリルに歩み寄った。
 今日の魔法舎にはミチルもルチルも賢者もいる。いつ彼らがこのベリルを見つけるかわからないとなれば、「優しい南のお医者さん魔法使い」であるフィガロが取るべき行動は結局のところ一つしかなかった。

「やあベリル、どうしたの? 大丈夫?」

 診療所にやってくる人間たちにかけるような声を出し、蹲ったままの薄い背中に近づく。
 声をかけられると思っていなかったのか、それともフィガロがいることに気がついていなかったのか、ベリルは大袈裟なほど体を揺らして振り返った。

「……別に、なんともない」
「強がっちゃって」
「放っておいてよ」
「そうしてあげたいのは山々だけど、こんなところで蹲っていたらルチルやミチルに見つかるのも時間の問題だ。あの子たちが今のきみを見つけたら、真っ直ぐ俺の部屋に連れてくるだろうね」
「…………」
「どうせ俺の世話になるなら、あの子たちに見つかる前がいいと思わない? 子どもに情けないところを見られるのは嫌だろう」

 ベリルはフィガロを睨むように見上げたまま黙りこくっている。口も利きたくないというよりは、具合が悪くて口を開きたくないように見えた。そもそもこんな人目につきやすい場所で蹲っていたくらいなのだから、相当体調が悪いらしい。
 フィガロは溜息をつきながら、ベリルの肩に手を伸ばした。

「ほら、おいで。立てる?」
「……立てる」

 壁に手をついて立ち上がるベリルの背中に、フィガロはそっと手を添えてやった。
 促すと、ベリルはゆっくり歩き始める。フィガロの部屋はこの階にあってすぐに行ける距離とはいえ、そのふらついた足取りはさすがに気に掛かった。こんなになるまで、よく我慢したものだ。
 肩を貸してやってもいいが、ベリルが素直に甘えないのは目に見えている。ほかの魔法使い──たとえばレノックスでも通りかかれば、たとえベリルに断られても肩を支えてやるだろうし、フィガロからそういうふうに仕向ける手もある。しかしそんな時に限って、不思議と誰も通りかかりやしない。
 結局、ベリルは自力でフィガロの部屋までたどり着いた。フィガロはすぐにドアを開けてやり、中に招き入れる。ベリルは大人しく着いてきて、促されるまま椅子に腰を下ろした。動作の一つ一つが気怠げで、熱でもあるのか顔が赤い。

「ちょっと触るよ」

 そう断ってから手首に触れる。ベリルは顔をしかめただけだった。額に触れるともっと嫌そうな顔をしたが、やはりじっとしている。その手を首筋に滑らせたところで、あまり力の入っていない手に振り払われた。

「こら、診察中」
「もう、じゅうぶんでしょ」
「十分かどうか判断するのは俺だよ。ほら、口開けて」
「嫌だ」
「子どもじゃないんだから……。自覚してると思うけど、凄い熱だよ。本当は歩くのも辛かったんじゃない?」
「…………」
「いつから体調が悪かった?」
「…………夕べ」

 答えたベリルは、いかにも渋々といった面持ちだ。
 ここまで来たら、意地を張らろうとせず素直に答えればいいものを。
 フィガロは内心そう呟いたが、口には出さなかった。かわりに「夕べね」とベリルの返事を繰り返す。

「他に何か、自覚症状はある?」
「……頭が痛い」
「あとは?」
「……怠い」
「これだけ熱が高ければね。たぶん、慣れない生活での疲れが出たんだろう」
「そんなにヤワじゃ……」
「たとえ体が丈夫でも、心は様々な要因で擦り減っていくし、回復が追いつかなければ、弱って風邪だって引く。それくらいわかってるだろう、魔法を覚えたての子どもじゃないんだから」
「…………」
「認めたくないかな。でも今のベリルは、自分で思ってるよりもずっと、心が疲弊してるんだと思うよ」

 魔法舎にベリルがやってくることになった経緯は、双子から聞かされていた。
 何百年も目をかけてきた町の人間たちに追いやられるとは──なんと惨めで憐れなことか。ベリルがどれだけ気丈だとしても、落胆や失望を少しも覚えなかったはずがない。あまつさえ、魔法をまともに使えないほど心が不安定になっていた直後の出来事だ。心が弱るのも頷けるだけの要素が揃っている。

「聞いた話じゃ、きみ、あまり部屋で休んでいないんだって? マナエリアで休んでいるならいいけど、そうじゃないなら、ちゃんと部屋に戻って休むようにしないと。いつまでも疲れが取れないよ」
「……マナエリアは……」
「この近くにはない?」

 ベリルがぎこちなく頷くのを見て、フィガロは「だったら今日は、アミュレットを枕元に置くか抱えるかして眠ったら?」と続けた。

「薬を出してあげてもいいんだけど、今のベリルにはそっちのほうが効くと思うよ」
「……アミュレット」
「そう、アミュレット」
「…………」
「何その渋い顔」

 まさか。思わず呟くと、ベリルはひどく不機嫌そうに唇を尖らせて、

「持ってきてない」
「……きみ、今幾つだっけ」

 幼い魔法使いならまだしも。
 フィガロが呆れた気配を感じ取ったのだろう、ますますベリルの表情が不機嫌に歪む。ぼそぼそと年齢を答える声が聞こえたが、こんな妙なところで律儀さを発揮しなくてもいい。今はそういう話をしたいわけではないのだ。

「マナエリアを離れるときはアミュレットを。お師匠様に教わらなかったのか?」
「……教わった。出発が急だったから、うっかり、置いてきてしまっただけ」
「それならそれで、何かやりようがあるだろう? ミスラにアルシムさせて取りに戻るとか、新しく用意するとか」
「……忘れてきたことを、昨日まで忘れていて」
「嘘でしょ……。きみのこと、もっと賢いと思っていたんだけど。買い被りすぎだったのかな」

 フィガロを見上げる目がぎらりと光る。そこには確かに、今にも魔道具を取り出しそうな険と鋭さがあった。とはいえ、フィガロにとっては所詮千歳以上も歳下の──しかも今は体調不良でふらふらの──小娘でしかない。怯むでも身構えるでもなく、ただ、尻尾を膨らませた猫でも眺めるような目を向けた。
 何か言いたげな目と視線がぶつかる。
 ベリルは結局魔道具を取り出すことはなく、黙りこくって目を伏せた。馬鹿にされて腹を立てたものの、返す言葉が見つからなかったのだろう。次に目があったときにはもうあの眼光は消え失せていて、熱に潤んだ瞳があるだけだった。

「……はぁ。とりあえず、今日はもう部屋に戻って休みなさい。アミュレットは……うーん、どうしようか。今から用意できそう? それとも、オズに頼んで取りに行ってもらう?」
「どうしてオズ……?」
「北の魔法使いたちは昨日から任務で出払ってて、ミスラもブラッドリーもいないからね。オズなら空間移動魔法が使えるし、一時期は家にも招くくらい親しくしてたんだろう?」
「べつに親しくは……。というか、オズにたのむくらいなら、自分で取りに行きたい」
「えぇ……今の状態で町の人間に会うの、良くないと思うよ」

 唇を引き結んだベリルを見下ろして、フィガロは溜息をついた。

「アミュレットは諦めて、とりあえずきみの部屋に行こう。薬はあとで届けるから」

 ベリルが仮の宿にしている部屋は五階にある。対して、フィガロの部屋は一階。
 魔法で浮かせて運ぼうかとも思ったが、ベリルが自分で歩けると言うので肩を貸してやって、二人で階段を上った。

「薬はこれから調合するから、少し待ってもらわなくちゃいけないけど……それまで大丈夫? フィガロ先生のシュガーでも食べる?」
「あなたのは食べたくない」
「可愛くないなぁ……」

 それでもまぁ、生意気な口が利けるなら、回復も早いだろう。
 そう頷いて、扉を開けて──フィガロは目を瞬いた。

「きみ、本当にここで寝泊まりしてる?」
「…………してる」
「ベッドは?」

 ベリルは黙り込んだ。顔を覗き込むと目を泳がせる。

「ねえ。この部屋、ベッドないよね。家具も随分少ないし」

 壁際に置かれた大きな棚、部屋の真ん中にローテーブル。それから、机とキャビネットとスツール。以上。
 確か、どれもフィガロが魔法舎へ来た時点で既にこの部屋にあった家具だ。部屋割りを決めるときに少し覗いて、先の戦いで石になった魔法使いの荷物がそのままになっているのだなと思ったことを覚えている。棚が当時よりもぎゅうぎゅうに見えるので、おそらく残されていた小物類なんかをベリルがまとめて押し込んだのだろう。

「……ベッドは、ない」

 ひとまずスツールに座らせたベリルがもごもごと答えて、フィガロはまた溜息をついた。

「もしかして、居候だからって気を遣った? 賢者様には相談しなかったのか? 足りないものがあれば気軽に言ってほしいって、賢者様もアーサーも言ってくれていたじゃないか。この部屋で、どうやって休むっていうんだ」
「座れれば、ある程度休める。部屋で眠るときは、壁に凭れたり、スツールを簡易ベッドに変えたり──」
「待って。言いたいことがたくさんあるけど、『部屋で眠るときは』ってどういうこと」
「……普段は、あまり部屋で寝ないから」
「じゃあどこで──あ、そうか」

 今更ながらに、ベリルとブラッドリーの関係に思い至る。思うところがありすぎて、うっかり忘れかけていた。
 いくつか空室がある中でベリルに五階のこの部屋があてがわれたのは、同じ階に双子の部屋とオズの部屋があり、ちょうどよくブラッドリーの隣部屋だったからだ。監視の目が届く上にベリルの恋人(・・)と数少ない知り合いが近くにいるという、双子曰く「色んな意味で気が利いた部屋割り」になっている。
 要するに、ベリルは自分の部屋にベッドがなくても困らないのだろう。隣の部屋で夜を過ごすから。
 ごめんごめん、野暮なこと聞いちゃったね。フィガロがそう言って笑おうとしたところで、ベリルが先に口を開いた。

「森」
「……森?」
「森で、寝てる。普段」
「えっ。野宿ってこと? まさかここに来てからずっと?」
「ずっとってわけじゃ……。天気が悪い日は、部屋に戻ってたし……」
「ブラッドリーの部屋は?」
「……?」

 本気で怪訝な顔をされた。そういう顔をしたいのはむしろフィガロのほうなのだが。
 言葉数が少なくなっているし、熱のせいで頭が回っていないのかもしれない。フィガロはつとめて穏やかな声で続けた。

「夕べから体調が悪かったんだよね。昨日はどこで寝たのかな」
「……森」
「馬鹿なの?」
「うるさいな……。さっきからずっと、質問ばっかりだし」
「質問したくもなるよ。……でも確かに、仮にも病人を質問攻めにするのはよくなかったかな」

 ベリルは眉間に皺を寄せている。単に機嫌が悪いのか、より具合が悪くなったのか。フィガロが「ブラッドリーの部屋を借りよう」と提案すると、ますます皺が深く刻まれて、それはもう凄い顔になった。

「どうして」
「どうしてって、そりゃもちろんブラッドリーの部屋だからさ。隣だし。不在時に勝手に入ったら怒るかもしれないけど、ベリルが入る分には大丈夫でしょ」
「……でも」
「でも、何?」
「あなた、まだ勘違いしてるんでしょう。私とあいつ、恋人とか、そういうのじゃない。あと、あいつの部屋も、ベッドはない」

 今度はフィガロが黙る番だった。
 一瞬「面倒臭いな」と投げ出したいような気持ちになったが、ミスラじゃあるまいし、ここまで関わって放り出すわけにもいかない。それに、放り出したところで、関わらずにいられるとも思えなかった。どうせ明日にも、さらに体調を悪化させたベリルがフィガロの元へ運び込まれてくる。
 フィガロは今日一番の深い溜息をつき、ベリルの手を取った。最初に触れたときよりも明らかに体温が上がっている。

「わかった。……立って」
「え……」

 腕を引くと、ベリルは怠そうにしながらも立ち上がった。転ばないようその肩を抱いてやり、フィガロは歩き出した。

「オズの部屋に行こう」
「はっ?」

 ベリルの口から素っ頓狂な声が上がる。フィガロが初めて聞く声だ。
 冗談でしょ、なんで、とごねるベリルに構わず歩みを進めると、ベリルは意外にもちゃんと足を踏み出した。抵抗する余力がないだけかもしれないが、かえって都合がいい。

「ねえ、意味がわからない、なんで……」
「オズの部屋なら暖炉がある。確かベリルの家にも暖炉があったよね。心を休めるためには、慣れ親しんだ環境に少しでも近いほうがいい」
「いや、だからって、オズの部屋……? 絶対落ち着かな……」
「はい、着いた」
「えっ」
「オズ、いるんだろう。入るよ」

 ドアをノックして、返事も待たずにドアノブを捻った。仏頂面のオズを見て「私は帰る」と口走りかけたベリルの口を掌で塞ぎ、部屋の中へ入ると、まだ一言も喋っていないオズに経緯を説明する。

「──そういうわけだからさ、ベリルに部屋とベッド使わせてやってくれる?」
「…………」
「この子、放っておいたら床で寝かねない。おまえはアーサーの件でベリルに借りがあるんだから、少しくらい面倒見てやったっていいだろ」
「……その件なら、既にベリルと話がついている」
「あ、そう? まぁ、それなら一つ貸しにしておけばいいじゃないか」

 ベリルは口を塞がれたまま、オズを見上げ首を横に振っている。その目がぼんやりしていることや顔が赤いことは、オズも気がついたはずだった。

「何も面倒事を押しつけようっていうんじゃない。ちょっとベッドを貸せばいいだけだ」

 オズが明確な拒否を口にしないのをいいことに、フィガロはそう畳みかける。それから、ベリルをベッドのほうへ押しやった。

「ほら、ベリル。オズがベッドを使わせてくれるって」
「そんなこと、絶対、言ってなかった」
「そうかもね。でも駄目だとも言わなかった」
「屁理屈──」
「《ポッシデオ》」

 意識を失ったベリルの体が傾ぐ。それを受け止めたのはオズだった。意外なようで、どこか納得感もある。幼いアーサーをベリルに会わせてみたら思いのほか懐いたので、その後も度々家を訪ねるようになった──以前そんな話を双子から聞き、もしやと思っていたが、やはりオズなりにいくらかこの魔女に情が湧いているらしい。
 オズは仏頂面のまま、フィガロを見据えた。

「私はまだ、了承していない」
「了承するつもりが少しでもあったんなら、別にいいだろ。どうせお前は了承してたよ」
「……」
「じゃあ、俺は戻る。薬の用意をしなくちゃ」

 返事を待つ気はなかった。フィガロはひらりと手を振って背を向ける。
 部屋を出る間際に見えたのは、ベリルをベッドへ横たえるオズの後ろ姿だった。

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