賽は投げられた

 最悪の気分だ。端的に言うと、吐きそう。
 ベリルは口元を押さえながら、「おっ、ちょうどいいところに出たな!」と満足げなブラッドリーを睨みつけた。

「なんだよ。……酔ったか?」
「酒は飲んでない……」
「そっちの酔うじゃねえよ」

 ブラッドリーの呆れた口調に苛立っても、ベリルには言い返す気力がない。そうでなくとも、今のベリルは魔女としてあまりにも弱かった。ブラッドリーが並の魔法使いよりはるかに強いことは、見ればわかる。ここは慎重に立ち回らなくてはいけない。さもなければ、待ち受けるものは死のみなのだから。

「歩けるか」
「歩ける……」
「ならいい、ついて来い」
「断る。町に返して」
「魔女なら自力で帰れ。それができねえなら大人しくついて来い。……別に取って食いやしねえよ」

 歩き出したブラッドリーは、ベリルが自力で帰れないことも逃げられないこともわかっているようだった。ベリルは捕虜にでもなった気持ちで、その後ろをついて行った。
 夜の色と月の色が混ざったような髪を後ろから眺めて、やはり知らない男だ、と思う。仮に、本当は知っているのだとしても、自分がこの男を忘れているだなんて認めたくない。
 ブラッドリーと名乗るこの魔法使いは、まるで意味がわからなかった。会ったこともなければ名前を聞いたこともないのに、ベリルの名前を知っている。そして、ベリルも自分を知っているのが当然であるかのような顔をする。
 さらに意味がわからないのが、妙なくしゃみだ。
 あのときベリルの腕を掴んだブラッドリーは、そのまま勝手知ったる足取りでキッチンまで上がりこんだかと思うと、迷いなく胡椒の瓶を引っ掴み、勢いよく振って、困惑するベリルをよそに大きなくしゃみをした。同時に体をぐっと引き寄せられ──次の瞬間、ベリルは目を疑った。目の前に、草木の生い茂る森が広がっていたからだ。
 雪に覆われた町も鈍色の空も、どこにもない。肌を撫でる風は柔らかく、湿っぽい土の匂いがする。
 何が起こったのかベリルが少しもわからないうちに、ブラッドリーはまたくしゃみをした。再び景色が変わる。たくさんの人間が行き交う洒落た街だ。「西か? 遠いな」ブラッドリーがまたくしゃみをして、景色が変わる。それを何度も何度も繰り返した。
 魔法を使っているにしては、どこか妙だ。そもそも空間移動はかなりの高等魔法だというのに、呪文も唱えずに連発するなんてにわかには信じ難い。いつしか荷物のように小脇に抱えられていたベリルは、目まぐるしく変わる景色と現状に具合が悪くなった。
 そして、冒頭に至る。
 それでも、爽やかな風を浴びているといくらか気分がマシになってきて、周囲を見回す余裕も出てきた。どうやら今いるのは中庭のようなところらしく、緑が茂り、花が咲き、噴水からは絶えず水が湧き出ている。どこだか知らないが、北の国ではないことだけは間違いない。踏み固められた雪でもつるつるした氷でもなく、硬いタイルの上を歩くのはなんとも言えない妙な感じがした。
 ブラッドリーに続いて屋内へ入り、長い階段の前を素通りして、広い廊下を進んでいく。手入れの行き届いた綺麗な内装に目を惹かれたのは一瞬のことで、すぐにたくさんの魔法使いたちの気配に背筋が粟立った。
 ベリルは、人生のほとんどを小さな谷底の町で過ごしてきた。籠もっていた、と言い換えてもいい。その中で追い払った魔法使いの人数は覚えていないが、きちんと関わった魔法使いの人数なら両手の指の数にも満たない。
 一度にたくさんの魔法使いの気配を感じるのは、生まれて初めてだ。
 ここで死ぬのかもしれない。そんな思いがベリルの脳裏をよぎる。ブラッドリーは「取って食いやしない」と言ったが、本当かどうかはわからない。仮にブラッドリーにそのつもりがないのは事実だとしても、ほかの魔法使いたちは違うだろう。

「ベリル」

 おもむろにブラッドリーが振り返って、ベリルを見下ろした。淡いルビーを嵌め込んだような目は、最初に目を合わせたときよりもずっと不機嫌な色をしている。

「おまえ、スノウとホワイトのことは覚えてんだよな?」
「もちろん……というか、そもそも私、何も忘れてないんだけど」
「だからそれやめろ。おまえは俺を覚えてねえ、おまえが認めなくても事実は変わんねえんだよ」

 ブラッドリーは苛立った声でそう言い、がしがしと頭を掻いた。

「少なくとも、『何かを忘れてる』って自覚はあんだろ」
「……何を根拠にそんな」
「根拠っておまえな……あんな必死に『何も忘れてない』って否定すること自体不自然だろうが。心当たりがある証拠だ」

 反論しようとしたベリルを押しとどめたのは、不意に聞こえてきた愛らしい声だ。

「ブラッドリー、いつまでそんなところで立ち話を続けるつもりじゃ」
「客を連れてくるなら、もてなしくらいちゃんとせんと」

 廊下の少し先から、スノウとホワイトが揃ってやってくる。ベリルが会釈をすると、ブラッドリーは舌打ちをして、スノウとホワイトは微笑んだ。

「ベリルちゃんは礼儀正しい良い子じゃのう」
「しかし、そう堅くならずともよい。ここにはそなたを取って食おうとするやつはおらん……とも言い切れぬが、少なくとも、今すぐ石にされることはないからの。もっと肩の力を抜いて大丈夫じゃ」

「はい」とベリルは頷いた。スノウとホワイトがいる場所で好き勝手に暴れる度胸のある魔法使いは、たしかにそう多くないだろう。いざというときスノウとホワイトがベリルを守ってくれるとは限らないが、二人がいるというだけで気休め程度にはなる。
 ベリルは一歩進み出て、「聞きたいことがあるのですが」と切り出した。ブラッドリーは黙ったまま、目を眇めてその様子を伺っている。

「なんじゃ?」
「ここは一体どこでしょうか」
「なんと。知らずに来たのか」
「知りませんよ……。なんの説明もなく連れて来られたので」
「ブラッドリーちゃん……」

 廊下に響く舌打ちが一つ。
 スノウとホワイトが、やれやれと大袈裟に肩を竦める。幼く愛らしい見た目には、あまりそぐわない仕草だ。

「まったく……。ベリルをあまり困らせてやるでない」
「しかし、今回はブラッドリーに感謝せねばならんのう」

 瓜二つのあどけない顔に含みのある微笑みが浮かび、金色の瞳が二対、困惑するベリルを見上げた。「どういうことだよ」と、先に言葉にしたのはブラッドリーのほうだ。

「我ら、ちょうどベリルと話をしたかったのじゃ」
「いくつか聞きたいことがあっての。明日にでも谷底の町を訪ねようかと思っておったところじゃ」
「……お二人が私に聞きたいことだなんて、一体何があります?」
「そんなこと言ってー」
「ほんとは心当たりあるでしょー?」

 スノウとホワイトは大げさなくらいに戯けてみせると、それぞれベリルの手をとった。「我らの目は誤魔化せんぞ?」と先手を打たれれば、否定のしようもない。ベリルがまごついている間に、双子は腕を絡めてくる。まるで幼子が母親に甘えるような仕草なのに、ベリルの背筋は冷えるばかりだ。

「さあ、こっちじゃ」
「えっ、ちょっ……」
「向こうが談話室になっておるんじゃよ」
「座って話をしよう。ブラッドリーちゃんもおいで」
「指図すんな」
「というか、先に私の質問に答えていただきたいのですが!」
 
「おっと、そうじゃった」と、スノウがベリルを見上げる。「ここは中央の国じゃ」
「賢者とその魔法使いたちが住まう魔法舎じゃ」と、ホワイトもベリルを見上げた。

「続きは、談話室での」

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