邂逅

『──兄ちゃん、まさか谷底の町に行こうってんじゃないだろうな? やめときな! 話したおれが言うのもなんだが、所詮噂は噂さ。それに、町があるっていう谷は、生者の魂を食うおっかない魔法使いの縄張りだって話もあって……。
 ……いやいや、町のことは迷信にも近い噂だが、その魔法使いに関しては信憑性があるとおれは思うね。なにせ北の魔法使いは、どいつもこいつもおっかないんだから』


* * *


 レノックスは毛布にくるまって勢いよく燃える暖炉の火を見つめながら、この家に入るまでのわずかな時間で見た町の様子を思い出していた。
 ──谷底の町。自分が目指していた町。
 つい先刻まで猛然とレノックスに襲いかかっていた吹雪が嘘のように、町の中は穏やかでひっそりとしていた。風もなく、粉雪がただ静かに降り積もっている。分厚い雲が陽を覆い隠しているのは外と同じだが、それでも風がないだけでだいぶ暖かい。
 魔女の魔法によって起こっている現象だということは、レノックスの目にも明らかだった。至るところから目の前の魔女の魔力を感じる。彼女のほかに魔法使いがいたとしても、魔力が弱ければ気配をかき消されてしまいそうなほどだ。
 しかし、それ以外の点においては、見る限りはごく普通の小さな町である。いくら猛吹雪に視界を遮られていたとはいえ、魔女に示されるまで少しも気がつけなかったのが妙だった。町の街灯には温かな光が煌々と灯っている。レノックスはアーチのすぐ目の前にいたのだから、灯りのひとつくらい見えていてもおかしくなかったはずなのに──実際は光どころか、魔法使いがいる気配すら見逃していた。
 それもこれも、魔女の魔法のせいなのだろう。巧妙に隠された町だ。
 ただ、それにしては、この魔女の行動は不思議だった。吹雪の中からレノックスを見つけ出し、助けてくれた挙句、ついてこいと言うのだ。まるで、吹雪が止むまで面倒を見てくれるような口振り。
 無慈悲で冷酷な北の魔法使いの噂なら散々耳にしているが、遭難者の世話を焼いてくれる北の魔女の話などはあいにく覚えがない。谷底の町について教えてくれた旅の男に聞かされたのも、魂を喰らう魔法使いの噂話だ。
 ──言われるまま、のこのこと後ろをついていって大丈夫だろうか。
 そんな疑念が胸を掠めたものの、この吹雪の中を動き回る危険性はすでに身に染みていた。せっかく谷底の町に辿り着いたのに、その目前で引き返す理由もない。魔女には「旅の目的は果たせない」と断言されたが、それこそ鵜呑みにして引き下がることはできなかった。
 通りすぎた家の窓からは、時折住民の顔が見え隠れした。見知らぬ大男が町を歩いているのが気になるのだろう。好奇の眼差しを向ける者がいる一方で、怯えと警戒の眼差しを向ける者も多い。特に年嵩の者ほど、警戒の色が濃いようだった。
 魔女の家は、町にある建物の中で一番大きかった。とはいっても、城のような大きさには程遠い。貴族の住むような屋敷と比べても、やはり小さい。門前に氷像が一体、門番のように佇んでいるのが目をひいた。

「少しは温まった?」

 不意に背後から声をかけられ、レノックスは瞬きをして振り返った。家主である魔女が湯気のたちのぼるマグカップを持って立っている。

「ホットミルク。飲みたくなければ飲まなくても構わないけど、毛布にこぼさないようにして」
「……ありがとう」

 レノックスがマグを受け取ると、魔女は肘掛け椅子に腰を下ろした。ミルクに口をつけたレノックスを眺めながら、ゆったりと椅子の背にもたれかかる。

「おそらく吹雪は明日の朝には止む。しばらくは今日ほど荒れることはないと思うから、日が昇ったら、真っ直ぐ中央の国へお帰り」
「その前に、町の中を見せてもらえないか」
「駄目。おまえが出歩いて良いのは、この家とアーチまでの道だけ。この町で人探しはさせないし、住人に会わせるつもりもない」

 魔女は有無を言わせぬ口調で言うと、レノックスを見据えた。

「そもそも……どんな話を聞いてここまで来たか知らないけど、この町ほど人探しに向かない町もないよ」
「……あなたがいるからか」
「それもある。普通、おまえみたいなのは私が門前払いにするからね」

 少しだけ、声音が軽いものに変わった。しかしその目つきには温かみが感じられず、レノックスから少しも目を逸らさない。

「でも、一番の理由は別にある。この町にどんな連中が暮らしてるのか、聞いてる?」
「……居場所を失った者や、行くあてのない者」
「そう。より正確に言うなら、居場所を追われた者やどこにも身の置き所がなかった者。そういう者が、やっとの思いで逃げてきたり、放浪の果てに偶然辿り着いたり……。今はその子孫の世代が多いけど、当事者もまだまだいる」
「増えることもあるのか?」
「ある。ここで隠れて生きていきたい、他には居場所がない──そういう者はどの時代にもいるから」

 その瞬間、魔女は目を伏せ、まつ毛が影を落とした。淡々とした口調ではあったが、何か彼女なりに思うところがあるのだろう。わずかに声が低くなる。

「住人の大半は、誰にも見つかりたくない。ここにいると知られたくない。だから、もしも自分を探している人物が現れたら身を隠すし、隣人を探している人物が現れたらしらを切る。……そういう町で人を探そうなんて端から無理があるの、わかる?」

 問いかけられたレノックスは、静かに頷いて魔女の目を見つめ返した。魔女の眼差しはやはり温かいとは言えないが、そこに宿っているものは決して敵意ではなかった。悪意でもない。かといって、警戒心というには柔すぎる。
 旅の魔法使いから聞いた話とは随分異なる印象だ。どうしても、戸惑う。しかし、彼女が善良な魔女であるなら、それはレノックスにとっては好都合のはずだ。
「よくわかった」と改めて頷きつつ、「だが、それなら、せめて」と慎重に言葉を継ぐ。

「俺が探している人物に心当たりがないかだけでも、教えてもらえないだろうか。もし、似た住人がいれば……」
「この流れで訊く? ないよ、心当たりなんて」
「まだ何の特徴も伝えていない」
「聞いたところで答えは変わらないもの」

 淡い期待を打ち砕くにべもない返答に、思わずマグカップを持つ手に力がこもった。まだ半分以上入っているミルクの表面が揺らぐ。このマグカップを持っていなければ、気が急くままに立ち上がっていたかもしれなかった。

「だが……」
「逆に聞くけど、おまえの探している人は、この町にいそうな人なの? 誰にも会いたくない、知られたくない。自分のことを忘れてほしいと願いながら、この谷底に身を潜めることを選ぶような人?」

 とっさに言葉が出てこなかった。「違う」とも「そうだ」とも言えない。行方知れずの主人が何を思って姿を消し、どこでどうしているのか、レノックスにはまるでわからなかった。
 魔女はまた、レノックスの目を真っ直ぐに見据えている。瞳の奥、心の奥までを見透かそうとしているようにも思えたが、しかしそれもほんの数秒のことだった。
 レノックスへの興味が失せたのか、あるいは元からさして興味などなかったのか。視線を外した魔女はゆっくりと立ち上がり、反射的に身構えたレノックスをよそに窓際の戸棚まで歩いていった。そこから革のグローブを取り出し、両手にはめる。そのまま魔女が窓枠に手を伸ばすと、触れる前に窓がひとりでに開いた。
 途端に冷たい風が吹き込んで、レノックスはぶるりと身震いした。たださえ冷たい雪混じりの風だ。暖炉で温まった体にはいっそう冷たく感じられるが、魔女はまったく動じていない。それどころか、窓の外に手を伸ばしている。
 よく見ればそこには、氷のような体の狼が一匹、何かをくわえて静かに立っていた。すぐに気がつけなかったのは、体が透き通っていて雪景色と同化して見えたためだろう。
 魔女は狼がくわえている何かを受け取り、手を引っ込める。開いたときと同じように、窓はひとりでに閉まった。
 いったい何を受け取ったのか、その答えは魔女が肘掛け椅子に戻ってきたときにわかった。氷塊だ。カボチャ大ほどの、汚れのない氷塊。再び椅子に腰を下ろした魔女は、氷塊を矯めつ眇めつしている。
 これから何をしようというのだろう。先程までの話はもう終わりなのだろうか。
 疑問に答える声はなく、代わりに囁くような呪文が聞こえた。淡い光が氷塊を包み込んだかと思うと、吸い込まれるように消えていく。
 魔女が指を振り、別の戸棚からナイフやら(のみ)やらが飛び出してきたところで、ついにレノックスは言葉を発した。

「何をするんだ」
「彫る」

 鑿を使うならそうだろうが、今聞きたいのは、そういうことではない。
 レノックスの困惑を見て取ったのか、魔女はもう一度指を振りつつ「家に入るまでに見たでしょ。氷像」と続けた。その傍らに、どこからか小ぶりの作業台が引き寄せられるようにしてやって来る。

「氷像……を、作るのか? 今から?」
「そう。といっても小さいものだし、時間はあまりかからない。見ていてもいいけど、夕食まで眠っていたら? 夕食の時間には起こすから」
「待ってくれ、まだ話の途中──」
「いや、話は終わり。眠れないなら、眠らせてあげようか」

 ヴィアオプティムス。
 レノックスの返事も待たず、魔女は呪文を口にした。



 目が覚めたとき、レノックスはやはり暖炉の前にいた。ずっと椅子に座ったまま眠っていたようで、体が変に疲れている。しかし、もともと疲労が溜まっていたにしては、体が軽いような気がした。ひょっとしたら、あのホットミルクに魔女のシュガーが入っていたのかもしれない。味を思い返してみようとしたが、あまり思い出せなかった。
 ぐっと伸びをして辺りを見回すと、近くに魔女の姿はなく、作業台も氷塊も見当たらなかった。窓はブルーグレーのカーテンに閉ざされ、外の様子を伺い知ることはできない。暖炉の火だけが眠る前と変わらずに、赤々と燃えている。
 眠気が覚めてくると、どこからか空腹を刺激する匂いがしたように思って、レノックスは立ち上がった。毛布は椅子の背に引っ掛けておく。
 勝手に歩き回って怒られやしないか考えないでもなかったが、今のところ、あの魔女に対して噂に聞くような恐ろしさは感じていなかった。話を一方的に打ち切られ、強制的に眠らされはしたものの、それは命の危険を覚えるようなものではない。たとえ彼女が北の魔法使いらしい恐ろしい一面を隠しているのだとしても、歓迎しないはずの訪問者に毛布やホットミルクを用意するような一面も持っていることは、すでに目にしたとおりである。
 部屋を出ると、「あ」と声がした。ちょうど彼女も、別の部屋から出てきたところだったらしい。

「起きてたならちょうどよかった。ポトフとグラタン。食べられる?」
「…………」
「何、その顔。どっちも嫌いって言っても、代わりのものはないよ」
「……いや、どちらも好きだ。ありがとう。もし嫌いだったとしても、用意してもらったからには、全部食べる」
「ふうん。律儀だね」

 そのときほんの一瞬だけ、魔女は口元をゆるめたように見えた。彼女なりに褒めたつもりだったのかもしれない。レノックスは驚いてその顔を見つめたが、魔女はもう元通りの表情に戻っている。彼女は先程出てきたばかりの部屋を見やって、「こっち」と手招きした。
 招かれるまま入った部屋はダイニングルームだった。テーブルの上に、温かいポトフとグラタン。それを目にした途端、レノックスの腹の虫が大きく鳴いた。


 レノックスがその鳥に気がついたのは、食事の最中のことだった。誰もいない椅子の背に留まったり、テーブルの上をちょんちょんと歩いたり、自由なものだ。魔女が少しも気にしていないところを見ると、迷い込んだ野鳥というわけではないのだろう。
 レノックスが食事を終えたときには、鳥は食器の片付けられたテーブルの真ん中で羽繕いをしていた。改めて、その鳥を観察してみる。これまでに見たことのない鳥だった。おそらく普通の鳥ではなく、魔法生物だ。魔女と同じ魔力を感じるので、彼女の使い魔なのかもしれない。昼間見た狼と同じ、氷のような透き通る体をしている。
 ──氷のような?
 はっとして、レノックスは鳥を凝視した。氷のような、ではない。これは氷そのものだ。そう気づくと、魔女が「彫る」と言っていたあの氷塊が思い出される。きっとこの鳥は、彼女が作った氷像なのだ。

「可愛いでしょう」

 レノックスの視線に気がついたらしい魔女は、どこか誇らしげにそう言った。

「私が作った。その鳥がおまえの案内役になる」
「案内?」
「そう。この家の中なら、お風呂とか、寝室とか。その子が教えてくれるから」
「……凄いな」
「この町を出たら、中央の国まで先導する。その後をついて行けば、ちゃんと国へ帰れるよ」
「な……」

 真っ先に浮かんだ思いは、「なぜ」だった。
 彼女にはレノックスの世話を焼く理由などないはずだ。普通なら門前払いだとも言った。それなのに、見ず知らずの北の魔女が、なぜそこまでしてくれるというのか。

「信じられなければ、ついていかなくてもいい。ただ、鳥は役目を果たすまで、おまえにずっとつきまとうけど」
「……どうしてそこまでしてくれるのか、わからないんだが」
「なんて言ってほしい? あなたに一目惚れしたから、とか?」
「茶化さないでくれ」

 羽繕いを終えた鳥が羽を広げ、魔女の肩へ飛び移る。魔女は飼い猫を撫でるかのような手つきで鳥を撫でてやると、少しだけ考える素振りをした。

「別に、理由はなんて……。強いていえば、同郷のよしみ……、いや、少し違うかな。おまえが未熟な魔法使いだからかも」
「どういう……? 同郷ということは、中央の国の生まれなのか」
「一応ね。長くは住まなかった。色々あって、この谷底へ。それで、その頃この辺り一帯を縄張りとしていた魔法使いに助けられた。強くて自由な北の魔法使い……、殺されてもおかしくなかったのに。あの人が気まぐれを起こさなければ、私はここにいない」

 その魔法使いのことを口にするとき、魔女は柔らかく目を細めた。そこには、その魔法使いへの敬愛が滲んでいる。

「だからかな。昔のことを思い出して、師の真似事をしたのかもしれない」
「他人事みたいに言うんだな」
「……上手く説明できないんだよ。子どもならともかく、おまえはもうそこそこの年齢でしょう? おまえくらいの魔法使いにここまでしたの、たぶん初めて」

 レノックスはついまじまじと魔女の顔を眺めた。やはりこの魔女は、話に聞いていた北の魔法使い像とはかけ離れている。もちろん、良い意味でだ。

「あなたの気まぐれに、感謝する」
「そうして。それから、自分自身の幸運にも感謝しておくといい」
「できれば、気まぐれついでに、俺の質問に答えてもらえるとありがたいんだが……」
「…………どんな質問?」
「俺以外に、中央の魔法使いが来たことはないか」
「……はぁ」

 魔女は溜息を吐いた。ありありと呆れが見て取れる顔で「相当な執念を飼ってるなとは思ったけど……」と独り言のように呟くと、小さく首を捻る。肩に乗ったままの鳥と頭がぶつかって、驚いた鳥が忙しなく椅子へ飛び移った。

「おまえ、魔法使いを探してるんだ」
「質問に答えてほしい」
「…………あったよ、何度か」
「本当か!」

 椅子が派手に倒れる音で、自分が勢いよく立ち上がったことを理解した。まだ手がかりとも呼べない些細な情報だが、落ち着いてなどいられない。全身が燃えるように熱く、彼女の気が変わる前に少しでも多く聞き出さなければと気が急いた。

「それはどんな──」
「おまえが探してる相手ではないと思う」
「どうしてそう言える」
「半数は、おまえが生まれるより前の話だし」
「残りは」
「……迫害されて逃げてきた子。それと……叶わなかった夢に苦しんでいる子たち」
「それは──」
「信じて追いかけた背中を忘れられなくて、つらくて、気が狂いそうだって。一人じゃなかった。やって来た時期は違ったけど」

 ──それはたしかに、探している人とは別の者かもしれない。
 レノックスが探しているのは、その背中だから。
 けれども、魔女が語った者たちのことも気にかかった。きっと、同じ背中を追いかけた者たち。もしも、会えるなら。
 そう思ったのが魔女にはわかったのだろう。彼女はレノックスから目を逸らさず首を横に振った。

「もう一人も残ってない。……だから話したし、だからこそ、探してる相手ではないと思っていたほうが都合がいいでしょう?」



 夜が明けると、空模様がすっかり変わっていた。粉雪がちらほら舞っているものの、雲の切間から柔らかな陽の光が差し込んでいる。魔女の言ったとおりなら、しばらくはこの穏やかな天気が続くのだろう。
 それよりもレノックスの気を引いたのは、レノックスが貸し与えられた寝室で眠った氷の鳥のことだった。昨夜は純氷のような体だったのに、今朝は明らかに色づいている。淡い、紫色だ。
 朝食の席で魔女に見せると、魔女はわかっていたかのように「雪原でも目を引く色になったでしょ」と言った。

「どうしてこの色なんだ」
「それは自分自身に聞いて。おまえの心から滲んだ色だからね」

 鳥は椅子の背もたれにとまって、レノックスを見上げている。昨夜の夕食のときにはあちこち動き回っていたのに、打って変わって静かだ。
 魔女はその嘴のあたりを指先で撫でてやって、呪文を唱えた。春の陽射しのような光が、冷たい体に吸い込まれる。
 朝食を終えれば、あとはもうここに留まる理由がない。程なくして、レノックスは魔女の家を後にした。
 アーチの前までついてきた魔女は、レノックスを視界におさめつつ、町の様子を気にしている。
 住人は誰一人、外に出ていなかった。余所者を警戒しているせいなのか、それとも普段からこうなのか、レノックスにはわからない。
 アーチの向こう側が吹雪いていたらどうしようかと思っていたが、見る限り町の中と同じように風が穏やかで、粉雪がちらつく程度だった。このくらいの天候ならば、箒に乗って移動できる。魔女が先導役を鳥にしたのも、それを見越してのことだったのかもしれない。

「世話になった。ありがとう」

 レノックスが礼を言うと、魔女は「二度はないよ」と言った。もうここへは来るなということだろう。

「この辺りは盗賊がいるから、無事に帰りたければ用心しなさい。まぁ、私の魔力がこもった鳥を連れてる限りは、たぶん、悪いようにはされないと思うけど……」
「何から何まですまない。……いつかどこかで会うことがあれば、改めて礼をさせてくれ」
「……おまえ、ほんと律儀だね」

 そう言って、魔女が苦笑する。
 その顔を見ていたら、「今更かもしれないが」と口をついて出た。

「俺の名前は、レノックスだ」
「えっ、本当に今更」
「あなたの名前を聞いてもいいだろうか」
「必要ないでしょ」
「だが……次に会ったとき、呼び止められない」

 レノックスは大真面目だったが、魔女はこれにも苦笑した。そんな日は来ないとでも言いたげに。


* * *


 魔法舎に賢者の魔法使いではない北の魔女を居候させると聞いて、誰もがすんなり納得したわけではない。ただレノックスは、その魔女を目にしてあっと思い、同時に「彼女なら大丈夫だろう」とも思った。

 中庭のほうへひとり歩いていこうとする後ろ姿に呼びかける。
 振り返った彼女はばつが悪そうに肩を竦めたが、レノックスの目を見ると何かに気がついたような顔をして、少しだけ笑った。


220321
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