貸しと借りと望み

 オズが双子の城で幼い魔女を紹介されたとき、漠然と、金輪際関わることはないだろうと思った。
 魔女の名前も、生い立ちも、興味がなかった。唯一興味を引くところがあるとすれば、魔力が並の魔法使いよりも強いということだけ。このまま成長すれば上等なマナ石になりそうだ、というほかに感想はない。しかしそれも、むやみに石にするなと双子に釘を刺された途端にどうでもよくなった。
 どうせいつか、フィガロに物怖じもせず言い返すその気の強さが仇となり、オズのあずかり知らぬところで石になるのだろう。それが百年後だろうが千年後だろうが、オズには関係ない。この魔女の生死如何は、何一つオズに影響を与えない。

 双子の城を後にした時点ですでにオズは魔女の名前を覚えていなかったし、その後思い出すこともなかった。顔を合わせる機会もなかったから、すぐに存在さえ忘れ去った。
 オズが初めに覚えた予感は、ほとんど正しかった──数百年後の気まぐれが、オズの世界を変えるまでは。


* * *


 ノックの音にオズが顔を上げるのとほとんど同時に、ドアの向こうからベリルの声がした。

「オズ、今いい? 少し話したい」

 魔法舎にいる若い魔法使いたちほどの勢いはなくとも、持ち前の気の強さを滲ませた声は、ドア越しにでもよく聞こえる。けれどもオズは、すぐには返事をしなかった。
 ベリルがブラッドリーによって谷底の町から連れ出されたのは、つい昨日のこと。何の支度もなく遥々中央の国までやってくる羽目になったベリルに、魔法舎の一室を貸してやるという話がまとまったのも、同じく昨日のことだ。オズはその経緯をすべて目にしていたが、この魔法舎の中でベリルの声を聞くことに奇妙な心地を覚えた。単にベリルが賢者の魔法使いではないからというだけでなく、ほとんど記憶に残っていない初対面時を除けば、谷底の町の中でしか顔を合わせたことがないからだろう。
 そういえば己と同じ階にある空き部屋を使わせることになったのだったか──とぼんやり思ったところで、「あまり時間は取らせないから」とベリルが付け加える。
 オズは暖炉前の肘掛け椅子に腰を下ろしたまま、人ひとりが通れる程度だけドアを開けた。その隙間から、ベリルが足音も立てずに入って来る。

「まさか入れてもらえるとは」
「……話をしたいと言ったのは、おまえだろう」
「それはそうだけど。拒否されて、ドアの前で一方的に話すことになると思ってた」

 入っておきながら驚いた顔をしているベリルは、後ろ手にドアを閉めるとすぐにそこで足を止めた。どうやらそれ以上、入ってくるつもりはないらしい。
 オズが用向きを尋ねるよりも早く、ベリルが自ら本題を切り出した。

「昨日、町の結界を強化してくれたんだってね。スノウ様とホワイト様から聞いた。それで、まぁ一応……一応ね、礼を言うべきかと思って……」

 オズは何も答えなかったが、ベリルは構わず話を続けた。ただし歯切れはあまり良いとはいえず、言葉を継ぐごとに眉間にはどんどん皺が寄っていく。

「……ただ、聞いておきたい。いったい何のつもりでそんなことをしたのか」

 ベリルに不服があることは、表情から明白だった。
 何しろ自分の縄張りで勝手なことをされ、あまつさえ手助けされた恰好である。北の魔女がそれを不快に思うのは自然なことで、オズにもよくわかる話だ。
 むしろこれほど明らかに不満がある様子でありながら暴れず怒鳴らず、ドアをノックをしてから会話を始める律儀さこそ、オズには奇妙に感じられる。これがほかの北の魔法使いだったなら、この部屋のドアはとうに吹き飛んでいるはずだ。
 なおもオズが答えずにいると、ベリルは腕を組みながら焦れたように唸った。

「まさかと思うけど、恩情だとか言わないでしょうね」
「……思い上がるな。私は借りを返しただけだ」
「借り」
「そうだ。決して恩情などではない。故に、おまえが礼を言う必要もない」
「あなたに貸しを作った覚えがない」
「……アーサーのことで、世話になっただろう」

 そうオズが続ければ、ベリルは目を瞠った。その唇からは「え」だとか「は」だとか、短い音ばかりこぼれる。

「そ……それだけ?」
「それだけ、とは」
「ほかにも何かあるんでしょ。いや、なくちゃおかしい。全然釣り合ってない。お釣りが出る」
「……釣り合わないと思うのは、おまえの勝手だが。ほかには、何もない。アーサーのことがなければ、私がおまえに借りを作ることなど、あるはずもないのだから」

 オズが口にしたのはただの事実だった。
 いくらベリルが強いといっても、ベリルひとり分の魔力などたかが知れている。オズにとって毒にも薬にもならない、取るに足りない魔女だ。
 ベリルはそれに反論こそしなかったが、何か言いたげな目でオズを見上げた。
 しかし所詮、アーサーがいなければ関わることがなかったはずの相手である。視線ひとつで通じ合えるほど親密ではない。ベリルの目を見つめ返したところで何がわかるわけでもなく、オズは苦々しい顔で溜息をついた。

「不満か」
「当然。そもそもアーサーのことを貸しにしたつもりはなかったんだけど、仮に貸しだとしても『町の結界の強化』と等価になるような大層なものじゃない。本当に些細なことしかしてないんだから。それなのに……、ねえ、あなたの魔力で町を強化することの意味、本当にわかってる? 天秤に載るのは町の全住民の安全と、私の……」

 不意に、それまで鉄砲水のような勢いだったベリルの言葉が途切れた。ぎゅっと眉を寄せ、唇を噛む。
 続くはずの言葉をオズは知っていた。ベリルが死んだ父親と約束していることもその内容も、すでに本人の口から聞かされている。以前、「私がアーサーを人質にしないか心配なら、あなたも人質をとればいい」とベリルが明かしたその約束は、いつもオズの心の片隅にあった。
 ベリル程度の魔女なら、約束を利用せずとも容易く無力化できる。忘れてしまっても何ら支障はないはずの情報だったのに、なぜ忘れずにいるのか。理由はオズ自身にも定かではない。ただはっきりと言えるのは、覚えていたからこそ、空間を繋ぐ扉をくぐり抜けるベリルの背を見て町の結界を強化することを思いついた、ということのみだ。
 今更問われるまでもない──その意を込めながら、「わかっている」とオズは答えた。

「あの町の人間たちに何かあれば、おまえは魔力を失うのだろう。万が一、そのようなことになれば……おまえに懐いているアーサーは、必ず傷つく。……おまえの言う天秤とやらには、アーサーの心も載っている」

 それに、と声に出さず心の中で続ける。ベリルにとっては些細なことでも、アーサーにとっては違ったのだ。──不本意ながら、オズにとっても。
 アーサーを連れて谷底の町を訪れるようオズに勧めたのは、ほかでもないスノウとホワイトである。アーサーが夢見の悪さから調子を崩したことをきっかけに、双子は言った。
 昔紹介したベリルという魔女、あれは子どもに甘く、独り身ではあるが数多の子どもたちを見守ってきた。親のある子もみなしごも、町の子ならば皆ベリルの養い子同然。然らば育て方にも詳しかろう──。
 そのようなことをつらつらと並べた双子に押し負けるかたちでベリルと会ったときは、それからアーサーが中央の国に戻るまで交流が続くとは思いもしなかったが、その交流を続けたのはオズのほうなのだった。
 とても単純な理由だ。アーサーがベリルに会いたがったから。「次はいつベリル様のおうちに来られますか」と見上げる青が、雨上がりの空のように輝くから。

「……アーサーを軽んじるわけではないけど、やっぱり釣り合ってない」

 オズの言葉を噛み締めたらしいベリルが、ドアにもたれかかりながら口を開いた。腕はなおも組んだまま、声には呆れとも諦めともつかぬ溜息が混じっている。

「命の数、心の数。アーサーひとりと、町の全住民。……それに、あの町には単に私の魔力が懸かってるだけじゃない。あの町には、私の六百年、これまでの人生すべてが懸かってる」

 かつん、とベリルの踵が音を立てた。

「だから私は納得できない。貰いすぎて、借りを返されたっていうより施しを受けたみたい。そういうの、嫌だ」
「……ならば、貸しにしておく」
「それなら早めに返したいな……。どういうかたちで返してほしい?」
「どう、とは」
「何かしてほしいこと、ないの」
「私がおまえに望むことなど……」

 いっそ町の結界にかけた強化魔法を解いてやれば、こんなまどろっこしいことをせずとも済むのではないか──一瞬そう考えたが、すぐに思い直した。ベリルもそれを言い出さないということは、不満があれど利用できるものは利用してやろうという腹なのだろう。
 そうでなくとも、オズが結界を強化するところはアーサーに間近で見られている。まるで自分のことのように喜んだあの子の顔を思い出してしまえば、なかったことにはできない。
 ベリルは腕を組みドアに背を預けたまま、オズの言葉を待っている。

「……おまえに望むことなど、ひとつしかない」
「うん」
「アーサーを傷つけるな」

「そう言うかなと思った」と、ベリルは微かに眉を下げて笑った。「そうなると、すぐに返すのは難しいね」

「私はすぐに返せとは言っていない」
「私は早く返したかった。……まぁいいよ、約束はできないけど努力はする。アーサーが私を嫌いになるまでは。……それで等価になるかな」
「……曖昧な返事だな」
「そりゃ……体はともかく、心のほうは難しいもの。私があの子のためを思ってすることが、必ずしもあの子の喜びになるとも限らないし……。傷つけたくなくても、傷つけてしまうかもしれない」
「…………」
「それじゃ、そろそろお暇する。部屋に入れてくれてありがとう」

 どうやら言いたいことを言って気が済んだようで、ベリルは姿勢を正してドアノブに手をかけた。部屋に入ったとはいえドアの前から一歩も動かなかったのに、最後に礼を言うのがベリルらしい。
 ──おそらくは、ベリルがそういう魔女だったから。
 オズは短く息を吐くと、すでに背を向けているベリルを呼び止めた。

「ベリル」

 まさか引き止められるとは思いもしなかったのだろう。振り向いたベリルは、オズにもわかるほど怪訝な顔をしている。

「何?」
「アーサーは……おまえが思うより、おまえを慕っている」
「え?」
「あの子がおまえを嫌う日は、なかなか来ないだろう」

「……覚えておく」と頷いて、ベリルは部屋を出て行った。
 ドアがほとんど音を立てずに閉まり、部屋にいつもの静けさが戻ると、暖炉の火が爆ぜる音が耳につくようになる。
 しかしややあって、再び来客があった。
 丁寧だがベリルのそれよりも元気の良い、弾むようなノックが響く。

「オズ様、いらっしゃいますか?」

 ノックと同じ、弾んだ少年の声。オズはもう一度、部屋のドアを開いた。


220321
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