プロローグ

 しんと冷えた雪の匂いが肺を満たし、冴えた風が頬を撫でる。
 ここは、北の国だ。
 くしゃみの拍子に閉じてしまった目を再び開けるよりも早く、ブラッドリーはそう理解した。魔法舎へ戻るのが億劫な距離ではあるが、南の国の蒸し暑い田舎町や西の国のさびれた町に飛ばされるよりは幾分マシなのかもしれない。土地全体の気配がどこか妙であることにさえ目を瞑っていれば、慣れ親しんだ冷たい風が心地良いくらいだ。
 そんなことを考えながら周囲に目を向け、ブラッドリーは眉をひそめた。
 谷底の狭い土地に、三角屋根のこじんまりした家々が身を寄せ合うようにしているこの町並み。よく知っている。時の洞窟とも程近い、腐れ縁の魔女が庇護する町だ。
 最後にブラッドリーが訪れたのは囚人になるよりも前のことだが、街並みは当時とあまり変わらない。
 しかし、引っ掛かることがいくつもあった。
 まず、軒先や街灯に吊るされたステンドグラスの装飾。ブラッドリーが辺りを見渡して真っ先に目についたそれらは、おそらくスノウとホワイトによって作られた品だろう。ブラッドリーがこの町に出入りしていた頃には、飾られていなかったものだ。
 それから、この町全体の妙な気配。混沌としているとまでは言わないが、でたらめな気配がする。土地の秩序が乱れ始めているのは間違いない。
 そして三つ目、最大の違和感。この町に住むはずの魔女の気配が、感じられない。
 この町の魔女──ベリルは決して闘争心の強いタイプではないが、かといって強者にへつらうこともしない女だ。自分の縄張りが他に侵されること嫌い、手を出そうとする魔法使いがいれば容赦なく返り討ちにする。北の魔女らしい鼻っ柱の強さと、それに見合う実力を持ち合わせていた。
 そんな魔女がスノウとホワイトの恩恵に与ろうとするなど、ミスラが率先して奉仕活動を始めるくらい有り得ない。その上、町のどこからもベリル本人の気配がしないのは明らかな異常だ。留守にしているのだろうか、いや、ただそれだけで、これほどまでに痕跡を感じられないはずはない。
 ベリルは少なくとも数百年、この町を庇護していたたった一人の魔女だ。ベリルが町のあちこちに相当手を入れていたことも、ブラッドリーは知っている。
 道に、街灯に、家々に──注意深く探れば懐かしい魔力の気配をうっすらと感じられたが、ベリルの魔力の強さと注ぎ込んだ時間を踏まえれば、違和感はさらに募る。見合わないのだ。今もベリルがこの町にいるならば、この町に宿る気配はこんなものであるはずがない。
 それが意味するところはつまり──ベリルがもう随分前にこの町を捨てたか、あるいは。
 浮かび上がる可能性を冷静に受け止めつつ、ブラッドリーは静かな町を歩き始めた。
 辺りには雪を踏みしめる音が鈍く響く。家々の煙突からは煙が立ち昇っているが、表には誰もいない。こんなに活気のない町だっただろうか。
 真っ直ぐにベリルの家を目指しながら、ブラッドリーは思い浮かべた可能性を吟味する。
 ブラッドリーの知るベリルは、数百年 目をかけた町をあっさり捨てるような女ではない。そして、簡単に石になるような魔女でもない。
 町の真ん中にあるベリルの家の前まで来てようやく、ベリルの気配がした。しかし、暖炉の残り火のごとく頼りない。
 家の前に衛兵のように佇む雪像にも小さなステンドグラスが嵌め込まれているのを見てとり、ブラッドリーは思わず舌打ちをした。本当に、あの女らしくもないことだ。
 そのとき、まるでその舌打ちを聞き取ったかのように扉が開いた。中から女が一人、眉間にくっきりとしわを刻んで現れる。
 ベリルだ。
 心なしか顔色が悪いベリルに、ブラッドリーは「よう」と片手をあげた。

「少し会わねえ間に、おまえ、随分腑抜けたじゃねえか」

 ベリルは何も言わず、じっとブラッドリーを睨みあげている。

「何か言えよ」
「……不躾な余所者と談笑していられるほど暇じゃない」
「あ?」
「どうしてもお喋りをしたいならまず名乗って。それから、ここへ来た目的を正直に言いなさい」
「ハッ。今更そんなもん聞いてどうすんだ」
「……『今更』?」

 繰り返したベリルの表情が一瞬のうちに揺れ動いた。困惑、動揺、それから恐怖。らしくない、ともう一度舌打ちをしたブラッドリーに、ベリルは表情を消して言い放った。

「『今更』って、随分傲慢な。初対面のくせに」
「は?」

 ベリルの冷ややかな目を、ブラッドリーは呆気に取られて見つめ返した。

「何言ってやがる」
「事実を言ったまで」

 冗談や嘘を言っているようには見えないが、その言葉が正しくないことをブラッドリーは誰よりよく知っている。追い払われたことも押し入ったこともあるし、口論したことも賭けをしたことも飲み明かしたこともある。文字通り、数百年の腐れ縁だ。

「あんたは自分のことを高名な魔法使いだと思ってるんだろうだけど、そういうの自意識過剰っていうの。ところで、ここに来るまでにステンドグラスをいくつか見なかった? それとも、その意味がわからなかった? スノウ様とホワイト様を敵に回したくなければ早く出て行って頂戴」

 矢継ぎ早に言い終えたベリルは、仁王立ちのままブラッドリーを睨んでいる。
 どう考えてもおかしい。異常なことばかりだ。
 ブラッドリーが一歩距離を詰めると、ベリルは「近づくな」とだけ言った。

「おい、おまえ、本気でおかしいぞ」
「おかしくない」
「おかしいところしかねえよ。俺を知らねえ、近づくなっつうんなら、どうして構えない? 魔道具はどうした。なぁ」

 ベリルの顔が歪む。しかし、それだけだ。

「お望み通り名乗ってやる。俺様はブラッドリー、史上最強の盗賊団の首領だ。ほら、これで満足だろ。茶番はやめろ」
「……知らない。聞いたこともない」
「やめろっつってんだろ。北の国に長年住んでて俺の名前を聞いたことがないなんざ、冗談にしても無理がありすぎんだよ。俺が最初にここに来たとき、おまえはちゃんと知ってただろうが」
「知らないものは、知らない」

 ベリルの声が微かに震えた。

「……もしかして拗ねてんのか?」
「拗ねる?」
「俺が全然会いに来ねえから、腹いせに忘れたふりしてやろうって魂胆なら──」
「私は何も忘れてなんかない……!」

 叫ぶように言ったベリルの顔にはいよいよ血の気がない。
 ブラッドリーは思わずベリルの腕を掴んだ。ベリルはすぐさま振り払おうと抵抗するが、一向に魔法を使わない。この期に及んで、魔道具を構える素振りすらない。

「ベリル」

 低く、名前を呼ぶ。ベリルが魔法にかけられたかのように動かなくなる。

「どうして私の名前……」
「……マジで覚えてねえのかよ」

 ゆっくりとブラッドリーを見上げた瞳は、死の淵に立たされた魔法使いたちによく似た色をしていた。

201220 / 210516
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