部屋に戻ると、ブラッドリーは忽然と姿を消していた。飲みかけのワインもそのままにして。
──いったい何なんだ。
数日振りに静けさを取り戻した自邸で、ベリルはもやもやした気持ちを抱え朝を迎えた。
魔法舎に帰りたくないあまりにとんずらしたのだとしても、さすがに脈絡がなさすぎるし、仮にそういう理由なら、ワインくらい飲み干していくだろう。とはいえ、誰かと争った形跡があるわけでもない。そもそも侵入者がいたのだとすれば、ベリルが気づかないはずもなく──。
庭の雪像が何か見ていないかと確かめてみたが、不審な人影はおろか、立ち去るブラッドリーの姿さえ確認できなかった。
知らぬ間に帰られたからといって、寂しいとか切ないとかそんなしんみりした気持ちにはならないが──本当に、微塵も、ならないのだが──、振り回されっぱなしであることには多少苛々する。何か一言くらいあってもいいだろうとも思う。
おかげで朝食のベーコンは焦がしてしまったし、食後の紅茶は蒸らしすぎて渋くなってしまった。
気を取り直して外に出てみれば、重い雲が立ち込めている。雪はまだちらついていないものの、びゅうびゅうと吹きつける風が木々を揺すり、氷の小鳥たちも所在なさげだ。
吹雪にならなければいいのだが。
ベリルは眉をひそめつつ、町の北端へ向かった。
〈大喰らい〉を仕留めたこの場所からさらに北側には、針葉樹の林が広がっている。
師匠が石になったのが、ちょうどその林だった。木々に紛れ、誰にも見つからないように石を拾い集めたことを覚えている。蘇った〈大喰らい〉がこの辺りをねぐらとしたのには、そういった事情が関係していたのかもしれない。
ベリルは念の為、〈大喰らい〉の石がもう残っていないことを確かめてから、付近一帯にまじないをかけた。風化したはずの執念が、もう二度と蘇ることのないように。ついでに風避けの魔法も施して、暗い空を見上げる。嶮しい谷の底、見える空は狭い。
どこかで、本物の鳥が鳴いた。雪が降りだす前に鳴く鳥の声だ。
やはり、吹雪くのか。天候が悪化する前に町を見回っておこうと、ベリルは箒を手に取った──そのときだ。町の中心のほうから、とてつもない魔力を感じた。
知らない気配ではないが、今、ここにあるはずもない気配。ベリルはぎょっとして、慌てて箒に飛び乗った。
矢のように飛ばして向かえば、自邸の前に集まる魔法使いの一団が目に入る。
「おお、ベリル、戻ったか」
「どこに行っておったんじゃ」
呑気に声を上げたのが、スノウとホワイト。二人の間に、ベリルが感じた魔力の持ち主であるオズが泰然と立っている。その後ろでは、賢者と若い魔法使いたちが身を寄せ合うようにしていた。
「聞いていた話よりも随分早いのでは……?」
「うむ。ミスラとオーエンの説得を諦めたからの」
「中央の魔法使いたちが協力を申し出てくれての。しかし──」
高度を下げるのももどかしく箒を飛び降りたベリルに、スノウとホワイトが近寄ってくる。
「どういうことじゃ? 異変が起こっているようには見えん」
「そなたの魔力も土地の秩序も安定しておる。やはり我ら、少し遅かったかの」
若い好奇心に満ちた視線が刺さるが、ベリルはそちらには一瞥もくれないまま、双子に向けて頷いた。
「そう、ですね……。ひとまず解決しました。ブラッドリーは、報告に行きませんでしたか」
「来とらんぞ。てっきりまだこの町にいるものと思っておったが」
「あやつめ、雲隠れしおったか」
「まったく、手のかかる子じゃ」
可愛らしい二つの声が、「お仕置きじゃ」「お仕置じゃ」と囃すように言う。
ベリルはやや躊躇ってから、「今回は大目に見てやってください」と口を挟んだ。
「あいつがいなければ、まだ解決には至っていなかったでしょうから」
「むむ?」
「記憶も無事戻ったのじゃな?」
「おかげさまで。そういうわけでどうぞあいつに御慈悲を」
ベリルは口早にそう言うと──揶揄われては堪らないので──、まだ一言も発さずに立っているオズを見上げた。
「あなたにまで無駄足を踏ませてしまった」
「……おまえが私を呼んだわけでない」
気にするな、という意味だろうか。
オズと顔を合わせるのは数年振りだが、もともと親しい間柄だったわけでもない。何と言ったものか迷っていると、オズは「アーサーの頼みだった」と続けた。
「そうじゃな」と、ホワイトが頷く。
「中央の魔法使いたちが来てくれることになったのは、アーサーの呼びかけあってこそ」
「もっとも、若い子らはアーサーの呼びかけがなくとも、率先して手を貸してくれたじゃろうがの」
若い子ら、を強調したスノウがベリルの背に小さな手を添え、もう一方の手で、若い魔法使いたちを示した。
その中から大人びた少年が進み出る。少年は銀の髪を揺らし、青い瞳を細めて、人懐こく笑った。
「お久しぶりです、ベリル様! 以前お世話になったアーサーです。ベリル様の窮地と聞き、居ても立っても居られず──」
「アーサー……あのやんちゃで好奇心旺盛なちっちゃなアーサー?」
「そのように言われると恥ずかしいのですが……そのアーサーです。覚えていてくださったのですね」
はにかんだ顔には、以前、双子とオズが連れてきた小さな子どもの面影がある。
最後に会ったのは、四年ほど前だろうか。魔法使いの寿命からすればほんのわずかな時間だというのに、胸いっぱいに懐かしさが込み上げてくる。
「覚えてるよ、もちろん。……大きくなった。もう私より背が高い」
「本当ですね。幼い私には、ベリル様がとても大きく見えていたものですが……」
「ふふ。子どもの成長は目覚ましいね」
ベリルは笑いながら、横目で近隣の家の窓を見遣った。こちらを伺うように、訝しげな住民の顔が覗いている。
アーサーの陰にいた賢者も、その視線に気がついたらしかった。表情にちらりと影が差す。
双子が含みのある笑みを浮かべ、ベリルを見上げた。
「……良ければ上がっていきますか。せっかく来ていただいたんです、お茶くらい──」
「魔女様!」
聞こえてきた自分を呼ぶ声に、ベリルは思わず顔をしかめた。
顔を向ければ予想通り、町長が駆けてくる。あとから、今年18になる町長の息子もやって来た。
「その方々は、いったい……?」
「賢者の魔法使い御一行だ。……くれぐれも失礼のないように」
オズの機嫌を損ねようものなら、この町は一瞬で滅びると言って過言ではない。そうなったとき、ベリルにできることは何もないだろう。
しかし、そんな緊張感を覚えているのはおそらくベリルだけで、町長は一行に不躾な視線を送っている。家々の窓からの視線もなくならない。
「賢者様御一行……。では……賢者様は、我々の願いを聞いてくださったと……?」
「願い?」賢者は困惑の声を上げた。「えっと、すみません……なんのことでしょう?」
それに答えたのは町長の息子だった。
「この町の魔女の討伐です!」
「えっ!? それって……」
「俺たちは、あの顔に傷のある魔法使い様に頼んだんです。私利私欲のためにこの町を陥れた魔女を、斃してほしいと!」
ベリルはさほど驚かなかった。いつかこんな日が来るような気がしていたし、その日が今日だったことは、何も不思議なことではない。今回の異変は、それだけの出来事だったのだ。
しかし、胸にはじわじわと重いものが広がっていく。こぼしたコーヒーがテーブルクロスにシミを作るように、黒く、暗く、心が塗りつぶされていく。
「どういうことだ……?」
「聞いていた話と違いませんか?」
若い赤毛の魔法使いと幼い金髪の魔法使いが困惑をあらわにし、アーサーが悲しげな顔をした。オズと双子は、じっと成り行きを見守っている。
町長の息子は、本当に賢者の魔法使いがやって来たことで気が大きくなっているのだろう。ベリルを指差して、なおも饒舌に語る。
「あのとき魔法使い様は何も言ってくださいませんでした。でも、賢者様は魔法使いを引き連れて来てくださった。それが答えなんですよね? 俺たちは今日、魔女の支配から自由になれる──」
「ま、待ってください! 私たちは町の異変を解決するために来ただけです! ベリルさんを倒すなんてそんなこと……」
「『そんなこと』? そこにいる魔女が元凶なのに!」青年は声を張り上げた。すっかり興奮している。
「ビクター、少し落ち着きなさい……」
町長が宥めるように言っても、青年はぎらぎらした目でベリルを睨みつけた。
「魔女は、俺たちへの支配を強めるためにあんなことをしたんだ。でも、賢者の魔法使い様がいらして、悪事は暴かれた。賢者様、お願いします。魔女に罰を──」
「ビクター」
ベリルが名前を呼ぶと、青年はぴたりと動きを止めた。ベリルは続けて町長の名前を呼ぶ。町長は同じように体を強張らせて、しかし、助けを請うように賢者を見た。
賢者はその視線をしかと受け止めて、真剣な顔でベリルを見上げた。ベリルが目を向けても、決して逸らさない。二人の人間にも一人の魔女にも、同じだけ真っ直ぐ向き合おうとしている者の顔だった。
「ベリルや。ここは冷静になるのじゃぞ」
「かっとなってはいかんぞ」
「とても冷静ですよ」
スノウとホワイトに短く答え、ベリルは町長親子に向き直る。
「あまり賢者を困らせてやるな。……それがおまえたちの──皆の総意ということで間違いないんだね」
「…………はい」
息子のほうが頷いて、町長はわずかに視線を泳がせる。嘘のつけない男を見て、ベリルは笑った。
しかしたとえ総意ではないのだとしても、覆せる者はいないのだろう。
両親の祈りも願いも、どうやらここまでらしい。成就したように見えていたけれど、今ここで、破綻する。
知らず識らず零れた笑いは、溜息に変わった。冷えた両手で顔を覆う。
──これは、落胆だろうか。それとも。
「……おまえたちが話し合って出した結論なら、私は何も言わない」
「ベリル様!?」
驚いたようにアーサーが飛び出してきて、ベリルの手を握る。
「討伐なんてそのようなこと、賢者様はなさいません……!」
「大丈夫だよ、私も大人しく斃されてやる気はさらさらないし」
ベリルは囁くように答えてから、人間たちの顔を見て、町を見回した。
いつの間にか雪が降り出している。吹雪になるのも時間の問題だろうが、今ベリルが凍える前に家にお入りと言っても、彼らは聞かなそうだ。どうしたものかなとぼんやり考えていると、この場にいないはずの男の声が耳に届いた。
「《アルシム》」
「げっ。じじいどもとオズも一緒かよ」
見れば、ミスラが空間を繋げたときにできる扉が、賢者の傍らにある。開いたその向こうから、ブラッドリーが顔を覗かせていた。
「……何してんの」
「忘れ物取りに来たんだよ」
皆が驚く中、ブラッドリーは大股で悠然と扉を潜り抜けてくる。
その後らからのそりと姿を見せたミスラは、「俺は、媒介を貰いにきました。勝手に選ぶので、お構いなく」と宣った。
「ちょっと、空気読みなよ二人とも〜」
「今そんな雰囲気じゃないでしょ〜」
「知りませんよ、そんなこと」
「今来たばっかで空気も雰囲気もあるか」
わざとらしい声を上げるスノウとホワイトも、先程までの雰囲気にはとてもそぐわない。どうやら二人はここぞとばかりに空気を壊すことにしたらしく、「ごめんね、おじさんたち」「ごめんね、大事な話の途中だったのにね」と町長親子に話しかける始末である。
ミスラはさっさとベリル邸に入っていき、ブラッドリーは舌打ちをしながら、真っ直ぐベリルの傍らへやって来た。
「……なんで王子と手なんか繋いでんだ?」
「いや……」
「まぁいいけどよ。行くぞ」
「は? どこに……あぁ、忘れ物を取りに? ミスラみたく、勝手に入ればいいんじゃない」
「違えよ馬鹿。察しろ」
言い終わるが早いか、肩に腕を回され、ぐいと体を引き寄せられる。親しげに、あるいは悪巧みをするように。
吐息が耳をくすぐる距離で、ブラッドリーが言う。
「なぁ、ベリル。今俺とこの町を出たら、おまえは魔力を失うか?」
それは昨晩の話の続きだった。
きっと昨晩尋ねられていたら、ベリルは答えをはぐらかしただろう。昨晩以前に訊かれても、そうしていたはずだ。
目を丸くしているアーサーを見ながら、ベリルは小さく答えた。
「……いや。少なくとも、すぐに失うことはないよ」
「将来的には?」
「正直わからないけど──今は、『失わない』に賭けようと思ってる」
「大勝負ってわけだ」
「そうだね」
「乗った」
ブラッドリーはさらにベリルを引き寄せる。その強さにベリルが潰れた声を上げるのも構わず──むしろ笑って──高らかに告げた。
「人間ども、ベリルは貰っていくぜ!」
町長親子も若い魔法使いたちも一様に困惑している中で、ブラッドリーだけが愉快そうにしている。
「どんなお宝も、価値がわかるやつが持たなけりゃガラクタ同然になっちまう。てめえらがここでベリルを腐らせてるみたいにな。でもそれも今日で終わりだ。あとで後悔したって遅えぞ」
ブラッドリーは意気揚々と歩き出した。初めは引き摺られるように踏み出したベリルも、三歩目にはしっかりと地面を踏みしめる。
足元の雪が靴の裏で鈍く鳴るごとに、あの暗い靄が広がっていくような心地も、不思議とどこかへ消えていった。
「……まぁ、まだあんたのものではないんだけどね、私」
「へぇ。まだ、な」
大きな扉をくぐり抜ける直前、何か勘違いしていそうな双子が、きゃっきゃと高い声を上げて囃し立てた。
「こっちはなんかいい感じにまとめておくね!」
「魔法舎に戻ったらパーティしようね!」
「なんのパーティですか?」少年が尋ねる。
「それはもちろん」と愛らしい声が重なった。
「ベリルの歓迎パーティじゃ!」
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