雪の子ども

「なぜ、こんなところに、こんなものを置いている」

 突然やってきたオズの第一声はそれだった。その声は地を這うように低い。
 こんなもの──すなわち壁に立てかけられた絵画からは、そこに描かれた女の啜り泣きが響いている。明らかに普通ではない絵画に投げかけられたオズの視線は冷たく、眼差しだけで絵画にこもった情念を消滅させられそうなほどだ。
 対して、オズの後ろに隠れている幼い子どもが絵画に向ける視線は、好奇心を隠しきれていない。表情こそ怯えたように強張っているものの、瞳はいかにもその年頃の子どもらしく輝いている。
 ベリルは二人分の視線を見比べ、それから、今朝の己が適当に立てかけた絵画を見やった。

「自分の家のどこに何を置こうと私の自由でしょう。……まぁ、子連れの客が来ることが予めわかっていたら、さすがにこんなところには置かなかったけど」

 それは随分昔に、いわゆる『呪われた絵画』としてベリルの元へやってきた。製作者、モデルともにどこの誰だかはっきりしない。ただ、深夜に啜り泣くだとか、絵画のそばを通ったものに怨嗟を吐くだとか、そういう曰くのある絵だという。
 死者の執念がこびりついていることは一目でわかった。それも、かなりの強さだ。ひょっとすると魂か何かが引っかかっているのかもしれない。絵のモデルとなった女のものか、手掛けた画家のものかまでは判断しかねたが、そのまま引き取って──あとでゆっくり向き合おうと地下室に押し込み──今日に至る。
 ふと思い出したので引っ張り出してきて、少し刺激を与えてみたところ、描かれた女が泣き止まなくなった。朝からずっと泣き通しである。
 ベリルにしてみれば泣く絵画など今更珍しくもないし、気を遣うような同居人もいない。少し放っておこうと考えていたら、招いてもいない客が来たのだ。
 ──オズに双子に、強い魔力を持つ子ども。
 いったいなんなのだろう。妙な取り合わせだ。
 ベリルは無意識に眉を寄せた。師匠が生きていた頃から何かと世話になっているスノウとホワイトはともかく、オズとの関わりはこれまでまったくない。ベリルがまだ一人前にもならない頃に一度、招かれた双子の居城で顔を合わせたことがあるはずだが、それきりだ。そのときのことをオズが覚えているかも定かではない。子どもに至っては、存在すら知らなかった。
「もしかしてベリルちゃん、怒ってる?」とスノウがベリルの顔を覗き込む。

「怒ってません。ただ、勝手に入ってきた上に開口一番に文句をつけられて上機嫌でいられる人なんかいます?」
「怒ってるじゃん……」
「それでも攻撃しないベリルちゃん、偉い。よしよし」
「茶化さないでください。発端はどうせお二人なんでしょう。ご用件は?」

 立ち話をさせるわけにもいくまいと、ベリルは手で四人にソファを勧めた。暖炉に薪をくべながら、食器棚を思い浮かべ、ティーカップが足りるだろうかと考える。
 そうしている間にも絵画の女は啜り泣いていて、オズの表情と裏腹に、子どもの表情には好奇心が色濃くなっていた。

「ぼうや、触ってはいけないよ」

 ベリルが子どもにそう呼びかけたのと同時に、

「《ヴォクスノク》」

 オズが低く呟いた。
 その瞬間、ずっと啜り泣いていた女は「ぎゃっ」と短い呻き声を上げた。それを最後にして、うんともすんとも言わない。どうやらオズが、絵画にこびりついていたものを力業で消滅させてしまったらしい。
 ベリルの見立て通り誰かの霊魂がくっついていたとすれば、その魂も、綺麗さっぱり消えてしまったわけだ。

「勝手に消してしまってよかったのかの」
「ベリルにも考えがあったろうに」
「……いいですよ。その子に障りがあってはいけないし」
「ほほ、ベリルらしい」
「そんなベリルを見込んだからこそ、我らはここに来たわけなのじゃが」

 スノウとホワイトがにこりと笑う。愛らしい笑みなのについ、背筋が伸びた。


* * *


 オズにひっついていた子どもは、名をアーサーという。
 アーサーの身の上について、スノウとホワイトは、オズの養い子だという以上のことを語らなかった。しかし、二人の語り口には含みがある。何か言葉にしにくい事情があるのだろうと、ベリルは思った。孤児か、あるいは──いずれにしても、本人、それも幼い子どもの前でする話ではない。
 黙って話を聞いていたベリルに、アーサーは見ての通りまだ幼く、育ち盛りわんぱく盛りであるから、今後は是非ともベリルの手を借りたいのだと双子は続けた。
 双子が話をしている間、オズはといえば、会話に混じることなくホットミルクを飲むアーサーを見守っている。その眼差しは、幼い子どもが火傷をしないか、溢しはしないかと気にかける親そのものだ。噂に聞くオズの印象とはまるで違う様子に、ベリルは少なからず戸惑いを覚えた。

「それにしても、どうして私に」
「ベリルはこの町で、たくさんの子どもたちの成長を見守って来たじゃろう」
「今はともかく、昔は人間たちとの関わりももっと密接じゃったろう。子どもの扱いにも慣れておるのではないかの」
「見守ることと育てることは違いますよ。親になったことのない私より、チレッタのほうがいい助言をくれるんじゃないですか」
「チレッタには、頼めぬ」

 ホワイトがどこか憐れむような目をして言った。子どもを諭すのにも似たその声音に、ベリルは今更のように思い出す。
 ──そうだ、チレッタはもう。

「まぁ、仮にチレッタが頼めるような状態だったとしても……ほら、オズとの相性とかね?」
「南の国はさすがに遠いしね?」
「……はあ」
「それに万が一、ミスラやほかの魔法使いにアーサーの存在が伝わると、ちとまずい。面倒なことになりかねん」
「その点、ベリルなら安心じゃ」

 確かにベリルはこれまでオズの命を狙ったことがないし、これからも狙うつもりがない。アーサーを人質にとろうだとか、石にして食べてしまおうだとか、そういう気を起こす心配もない。たとえベリルが変な気を起こしたところで、オズがベリルを石にするのはミスラを石にするよりもはるかに容易いことだろう。

「お二人の考えはわかりましたけど……」

 ベリルは言葉を濁して、オズとアーサーを見やった。
 アーサーはちょうど、ベリルが出してやったスイートポテトを口に運んでいるところだった。「ゆっくり食べなさい」と諭すオズの声は穏やかで、ベリルはまた戸惑う。
 昔、たった一度だけ見たオズは、もっと──。
 眺めていると目が合って、ベリルは思わず息をつめた。

「……あくまでもスノウ様とホワイト様の考えであって、あなたの考えではないんでしょう」
「……ああ。双子がどうしてもと言うので、来た」
「こら、オズちゃん」
「我らが無理強いしたみたいな言い方しないの」
「事実だろう」

 オズは吐き捨てるように言って溜息をつく。双子がぶうぶう言うのを眺めながら、ベリルは肩を竦めた。
 大人たちをよそに、アーサーはスイートポテトを綺麗に平らげてにこにこしている。
 白い肌、銀の髪に青い瞳。まるで雪から生まれたような子どもだ。
 アーサーはベリルの視線に気づくと、誰に促されるでもなく、「とてもおいしかったです!」と口にした。舌足らずさにあまり似合わない、礼儀正しい口調だった。

「それはよかった」
「ひさしぶりに食べました」
「スイートポテトを?」
「はい! オズ様のお城では、おやつは、パンケーキなのです」
「ふうん。アーサーは、パンケーキが好き?」
「すきです。オズ様のパンケーキが、いちばんすきです!」
「……オズが作るの」
「はい! オズ様は、はちみつで絵を描いてくださったり──」
「アーサー」

 遮るようにオズがアーサーを呼び、ベリルはゆっくり瞬きをした。ブラッドリーやチレッタから聞いていた人物像とは、やはり随分かけ離れている。
 オズは眉間にしわを寄せ、ベリルを見下ろした。
 無言であっても威圧感があるが、先ほど見た光景やアーサーに聞いた話のせいか、さほど恐ろしさを感じない。
「……そんな顔をしなくても」とベリルはオズを見上げた。

「私はこれであなたの弱みを握ったなんて思わないし、吹聴するつもりもない」
「それについては我らも保証しよう、オズ。ここへ来る前にも話したが、ベリルはそういったことに興味がない子じゃ」

 ホワイトが柔らかく付け加える。ややあって、オズは「そうか」とだけ言った。
 話を途中で遮られたアーサーは、とうに別のものへ興味が移っていたようで、古い木棚をじっと眺めている。何か、子どもの興味を惹くようなものがあっただろうか。ベリルが首を傾げたとき、ぱっとアーサーが振り返った。

「ベリル様! あの鳥は、なんというなまえの鳥ですか?」

 あまりに自然にそう呼ぶので、ベリルは面食らった。
 大人たちの会話からベリルの名前を覚えたのだろうが、それにしても──ベリル様なんて。そんなふうに呼ばれるのは、いったい何百年振りかわからない。

「ベリル様?」
「あ、……あぁ、うん、どれ?」
「あの、とうめいな鳥です! はじめて見ました! どうしてとうめいなのですか?」

 アーサーが指さした先には、ベリルが先日手遊びに作った氷の小鳥が止まっていた。氷の体では必要ないはずの、羽繕いのような仕草をしている。

「あれは……強いていえばヒバリなんだけど、生きた鳥じゃない。私が氷を削って作った鳥でね。体が透明に見えるのは、純度の高い氷でできているから」
「こおり……? でも、ほんものみたいに動いています」
「そういう魔法をかけてある」
「このお部屋はあたたかいのに、とけないのはどうしてですか?」
「それも魔法。熱が伝わりにくいようにしてあって……丸一日抱きしめていても解けない」

 ベリルが指を鳴らせば、小鳥は羽繕いを止め、氷とは思えない滑らかな動きで羽ばたいた。
「飛んだ!」とアーサーが歓声をあげる。きらきら輝く青い目を横目に、ベリルは小鳥を自分の手のひらに降り立たせると、アーサーの目の前に差し出した。

「触ってみる?」
「はいっ。……かちかちだ!」
「氷だからね」

 ほら、とベリルが手を振れば、氷のヒバリはベリルの手からアーサーの小さな手に飛び移る。本物さながらに小首を傾げる鳥を、アーサーは穴が空きそうなほど見つめた。

「犬や、うさぎや、くまでもできるのでしょうか?」
「熊は作ったことがないけど、犬や猫はよく作る。兎もたまに。町のどこかにいるんじゃないかな」
「見てみたいです!」
「え」

 アーサーのきらきら輝く丸い目に見つめられて、ベリルは思わず身動ぎした。不快感とも違うなんとも言い難い居心地の悪さに、背中のあたりがむずむずする。
 「さがしにいきましょう!」と声を弾ませたアーサーは、「オズ様も!」とオズに駆け寄ってその手を引く。オズは仏頂面でおいそれと声をかけられるような雰囲気を纏ってはいなかったが、そこは幼さが為せる技なのだろうか。オズは溜息まじりに応じた。

「駄目だ」
「なぜですか!」
「おまえは雪の日に外へ出て、風邪をひいたばかりだろう」
「もうなおりました!」
「遊び回るにはまだ早い」

 人間の親子のような会話を、双子が微笑ましそうに見守っている。
 かと思えば、ホワイトがそっと近寄ってきて、ベリルの顔を覗き込んだ。

「ベリルや。可哀想なアーサーが城の中でも退屈せぬよう、そなたの氷像をいくつか分けて貰えんかのう」
「……それが今日の目的でした?」
「正確には、『目的の一つ』じゃな。アーサーは雪の日に兎を追いかけて、風邪をひいての。熱を出して寝込んでも兎を恋しがるので、代わりの兎を用意できる当てがあると、オズに勧めたのじゃ」
「それくらいのこと、あなた方から『氷の兎が欲しい』と声をかけてもらえばそれで十分でしたけど」
「今後も手を借りたいのじゃ。顔合わせは、お互いのために必要じゃろう?」

 にこりと微笑まれ、昔のことを思い出した。ベリルが師匠に出会って間もない頃、初めて双子の居城に連れて行かれた日も、大人たちはそれを『顔合わせ』と称していた。
 これから北で生きていくのならば、双子にはきちんと挨拶をして、魔力の気配を覚えてもらったほうがいい。強者におもねることとは違うけれども、そうしたほうが何かと都合が良いのだと、師匠が話していたように思う。
 こと今回についていえば、ベリルの魔力が宿ったものをアーサーに与えようというのだから、オズを納得させるための『顔合わせ』だろう。いくら双子のすすめでも、オズにとってベリルは得体の知れない魔女で、氷に呪詛を混ぜない保証もない。ベリルがどんなに精巧な兎を作ってみせようが、オズがベリルに不快感を示せば一瞬で粉々にされるのは目に見えている。

「でも、あの人は私の手を借りたいとは思っていないんでしょう?」とベリルは肩をすくめた。
「それが案外、そうでもないかもしれん」いつの間にか隣に佇んでいたスノウが言う。

「……それなら──アーサー。その鳥、オズ様がいいと言ったら連れて帰ってもいいよ」
「ほんとうですか! オズ様、いいですよねっ?」

 町の散策を突っぱねられて悄気ていたアーサーが俄然顔を輝かせる。オズは眉をぴくりと動かした程度で、ほとんど表情を変えなかった。アーサーと氷の小鳥、ベリルとを順に見やる。
 さて、なんと答えるだろう。
 成り行きを見守るベリルから視線を外したオズは、静かに言った。

「……いいだろう。好きにしなさい」
「やった! ありがとうございます!」
「アーサーちゃん、よかったのう!」
「アーサーちゃん、ベリルちゃんが兎も作ってくれるって!」
「熊も作ってもらっちゃう?」
「ドラゴンも作ってもらっちゃう?」

 勝手に話を進める双子にオズは何も言わない。嬉しそうなアーサーの丸い頭をそっと撫でている。
 オズが何も言わないなら、つまりそういうことなのだろう──ベリルは少しばかり変わりそうな『これから』のことを考えつつ、ひとまず、「ドラゴンはちょっと」と声をあげた。

211010
- ナノ -