中央の騎士と谷底の魔女

 ほのかに甘い花の香りと、かすかに瑞々しさの残る草の香りとが歩いてきたような気がして、カインは足を止めた。
 香りが歩いてくるというのも妙な表現だろうが、今日はさして風も吹いていない。その上で人の気配とひそやかな足音がしたから、香りを運んで来たのは人だろうと当たりをつけてのことである。
 問題はそれが誰かということだが、カインが誰何するよりも早く、背後から落ち着いた女の声がした。

「ああ、カイン。こんにちは」

 近頃魔法舎に出入りするようになった魔女の声だ。双子曰く、ブラッドリーや双子と旧知で、長く人間と共に暮らしてきた北の魔女。
 振り返っても、カインの目にその姿は映らない。ただ、掃除の行き届いた長い廊下が続くだけだ。
 見えていないことを気取られぬよう、カインは目を細めてにこやかに応じた。

「こんにちは、ベリル。散歩か?」
「……まぁ、そんなところ」

 返答は素っ気なかったが、悪意や敵意は感じられない。そもそも向こうから挨拶をしてきたのだし、それでいて悪態をつくわけでもないのだから、ともに暮らし始めた頃の北の魔法使いたちよりよほど友好的だ。
 カインはふと、アーサーの話を思い出した。なんでもアーサーは、北の国で暮らしていた頃、わずかながらベリルと親交があったらしい。「ベリル様はお優しくて、親しみやすい方だよ」と断言したアーサーの笑顔は、なんの含みもない純粋なものだった。

「ベリル様が編んでくださった手袋は、私のお気に入りだった。内側が陽だまりの中のように温かいのに、外側はむしろひんやりしていて……雪遊びにはうってつけだったんだ。私がオズ様の背丈ほどの大きな雪だるまを作りたいというと、ベリル様も一緒に雪玉を作ってくださって──」

 それだけ聞けば、確かに好感が持てる。しかし、警戒心をすっかり手放してしまうにはまだまだ情報が足りなかった。アーサーの言葉を疑うわけではないが、まるきり鵜呑みにすることもできない。
 カインは騎士だ。賢者のことも主君のことも仲間のことも守り抜く、それが自分の役目だと知っている。

「今日は朝から良い天気だもんな」

 と笑いかけつつ、カインはなんとか自然な流れでベリルに触れられないか思案した。
 ベリルは賢者の魔法使いではない。何百年もの間ひとつの町を守り続け、無意味に人間を害することはなく、無闇矢鱈に暴れることもない、「北では貴重な優等生ちゃん」だとして双子から紹介を受けたが、この魔法舎においてベリルは完全なる部外者だ。〈大いなる厄災〉が齎した奇妙な傷のことも、今のところは伏せられている。
 つまりベリルはカインの目のことを知らないし、悟られるわけにもいかない。
 突然ハイタッチを求めては訝しがられるだろう。初対面でもないのに握手を求めるのも不自然だ。気軽に肩でも叩ければいいのだが──注意深くベリルの気配を探ってみても、身動ぎ一つ感じられない。
 カインがベリルとの距離感を測りかねているように、ベリルもまた、そうなのだろう。彫像のようにじっと佇んで、カインの出方を伺っているように思えた。

「それにしても、一人でか? 誰か誘えば良かったのに」
「さっきまで子どもたちと一緒だった」
「子どもたちっていうと……」
「ルチルとミチルと中央のおちびさん……ええと、リケ」
「ルチルは大人じゃないか」
「私から見れば大差ないよ。カインも」
「俺も?」
「赤ん坊みたいなもの」

 ベリルがふっと笑ったのが空気でわかった。意外なようにも思ったが、アーサーの言葉が脳裏をよぎる。曰く──ベリル様はお優しくて、親しみやすい。

「三人は私に森を案内してくれて、今もまだ森にいる。昼食までには戻るそうだから、心配しなくていいと思うよ」
「心配……はそれほどしていないが、そうか、森か」
「うん?」
「どうりであんたから花の匂いがするわけだと思ってさ」
「ああ……うん。そうね」

 ベリルはどこか曖昧にそう言うと、それきり何も言わなくなった。
 普段は陽気で気さくなカインも、今日ばかりは言葉に詰まる。オズの口下手が移ったかのようだ。
 ベリルのことをあまりにも知らなすぎて、距離感がわからない。精神的にも、物理的にも。
 最初に顔を合わせた日は軽く自己紹介をしたくらいで、まともに会話をしたのは今日が初めてである。話し声を聞くことはあっても触れ合うことなどないから、顔も一度しか見ていない。その一度だって、カインに向けられた表情は氷のように硬かった。
 いくら「優等生」といえど、長く北の国で生き抜き、ブラッドリーと懇意にしているというからには、それ相応の猛者のはずだ。乱暴で恐ろしい一面を隠し持っているかもしれないし、それが何をきっかけにして表に現れるかわからない以上、普段大雑把なカインも慎重にならざるを得ない。いくら双子やオズが彼女を危険視していないとしても、裏ではブラッドリーと組んで悪巧みをしている可能性だってゼロではないだろう。
 今日は賢者もアーサーも魔法舎にいる。事が起こってからでは遅いのだ。
 やはりどうにかして表情を見ながら話をしたいところだが──迂闊に触れるのも躊躇われる。というか、ベリルの肩の位置がわからない。
 初めて握手したとき、思っていたより上背があって驚いた覚えがあるから、カナリアや自分の母親よりも背が高い。それはわかるが、それだけだ。うっかり見当違いのところに触れてしまっては、訝しがられるどころか機嫌を損ねてしまいかねない……。

「ところで」

 と口を開くと、思いがけず声が重なった。
 まったく同じことを口にしたベリルが、気まずげに咳払いをする。

「お先にどうぞ」
「いや、俺のは大したことじゃない。ベリルの話を聞かせてくれ」

 一瞬、間があった。どんな表情を浮かべているのかは窺い知れないが、なんとなく戸惑った気配が伝わってくる。
 カインは笑って、「立ち話もなんだし、談話室にでも行くか?」と続けた。

「……談話室にはほかの魔法使いがいるんじゃない?」
「ほかの魔法使いがいたら、まずいのか?」
「まずいというか……私が少し、疲れる」

 最後のほうは、ほとんど溜息を吐くかのようだった。

「一つの部屋に何人もいると、なんだか落ち着かない。慣れてないし、知らない魔法使いばかりだし」

 思いがけない言葉に、カインはわずかに目を瞬かせた。まるで東の魔法使いが言いそうなことだ。
 しかし、「だから、話はここで」と続いた声はきっぱりとして、有無を言わせない響きがある。

「二つほど、言いたいことがある」
「なんだ?」
「まず、私はここにいる者に危害を加えるつもりはない」

 カインはまた、言葉に詰まった。

「スノウ様にホワイト様、オズもフィガロもいるようなところで暴れようとは思わない。誰かさんたちと違って、オズの首も狙っていないしね」

 構わず続けるベリルの気配が数歩分、近くなった。初めに感じた花の香りも、僅かに濃くなったような気がする。

「ただし、攻撃されたときは反撃する。だから約束はしてやれないけど、少なくとも自分から仕掛けるつもりはないから、そのことは覚えておいて」
「わ、わかった」
「その上で、二つめ。どちらかといえば、こちらが本題。おまえ、目が悪いの?」

 咄嗟に、何か言わなければと思った。しかし、何を言えばいいのか。
 否定するべきか、それとも潔く肯定するべきか。カインは返答に窮して曖昧に笑った。

「いや……視力は悪くないが、どうしてそう思ったんだ?」
「あぁ、そうね、悪いっていうのとも少し違うのかな。『目が合わない』ことは、視力とは関係なさそうだものね」

 こつ、とベリルの踵が鳴る。

「上手いこと誤魔化していても、わかるよ。私はずっとカインの目を見てるのに、一度も目が合わないから。カインは私の口元のあたりばかり見てる。目を合わせて話せない奴はよくいるけど……おまえはそういうタイプに思えないし」

 本題と言っただけあって、ベリルは先ほどまでよりも明らかに饒舌だった。

「初めて話した日は目が合った。私の記憶が確かなら、握手を交わしたあとに。あのとき、想定したよりも高い位置に目線があって驚いたって顔をしてた。つまり、握手をする前は私のことが見えていなかった。違う?」
「確かに驚いた顔はしたかもしれないが、あれは、あんたが握手に応じてくれたことに驚いたんだ。ほら、北の魔法使いは馴れ合いが好きじゃないだろ?」
「じゃあ、今日の私は傷だらけでボロボロなのに、それについて何も言わず顔色も変えないのはなぜ?」
「……嘘をつくなよ。さっきまでルチルたちと森にいたって言ったじゃないか」
「やっぱり、見えてないね」

 失言に気づいたと同時に頬をつままれ、カインは目を見張った。
 怪訝な顔がすぐそこにある。日焼けを知らなそうな肌には擦り傷の一つさえなく、着ている服には汚れもほつれも見当たらない。艶やかな髪の上には、綺麗に編まれた花かんむりが載っている。香りの正体はこれだったのかと今更思って、己がもっと早い時点から失言を重ねていたことを悟った。

「やっと目が合った。ということは、必要なのは『握手』ではなくて『触れること』そのもの?」
「……そのとおりだ」

 降参、というように両手を挙げて見せる。すると、ベリルはすんなりカインの頬から手を離した。そのまま指先でカインの長く伸ばしたほうの前髪を持ち上げ、左右で色の異なる両目をしかと見る。
 身構えたカインをよそに、ベリルの表情はほとんど変わらなかった。じっと見つめられたのも束の間で、白い手はすぐに離れていく。ベリルが漏らした感想も、「不便な目ね」というあっさりしたものだ。さらりと落ちた前髪を指先で簡単に整えてくれるのは、アーサーが言ったような優しさなのかもしれない。

「それは生まれつき? 生活に支障は?」
「こうなったのは最近だ。魔法舎ではみんなの協力のおかげで、困ることは少ないが……」
「外では大変でしょう。気をつけなよ」
「ああ。…………それだけ?」
「それだけって?」
「いや、何か……ほかにないのか?」
「ない」

 ベリルがあまりにきっぱりと言い切るので、カインは思わず吹き出した。ベリルは怪訝そうに、片眉を上げる。

「何か不満が?」
「いやいや、不満なんてないさ。ところでさっきからずっと気になっていたんだが、その花かんむりは?」
「これはルチルが……昼食のときまでこのままでと言うから」
「はは。いいな、よく似合ってるよ」
「ルチルのセンスが良いんでしょう」

 そう答えたベリルの表情は柔らかい。カインが初めて見る顔だ。
 が、廊下の奥を見た途端に「げっ」という表情になった。案外、表情が豊からしい。

「言いたいことがあるなら言えば」
「似合ってる似合ってる」

 ベリルの視線の先からブラッドリーの声がする。いかにも揶揄うような声音に、ベリルはげんなりした顔で溜息をついた。

「本音は?」
「悪くねえが、らしくねえな。俺がやったもんもつけろよ。おまえの髪の色には、あっちのほうが合う」
「もしかして、あの髪飾りのこと言ってる? あれ、盗品じゃん」
「細けえことは気にすんなって。中央の騎士さんの前だからって、良い子ちゃんぶらなくていいんだぜ」
「あんたはもう少し、良い子ぶってたほうがいいんじゃないの」

 カインはしばし、ぽかんとして二人を見守っていた。
 ブラッドリーの姿はまだ見えないが、おそらく楽しげに笑っているのだと思う。花かんむりを庇う仕草で手を翳したベリルも、どこか楽しんでいるように見える。
 ベリルは、賢者の魔法使いではない。完全な部外者で、孤高の北の魔女だ。
 それでも、今日のベリルを見ていると、双子やアーサーの言っていたことがわかるような気がしてくる。

 賢者の魔法使いではなくとも、これからきっと上手くやっていける。そんな予感がした。


200822 ぷらいべったー公開
200831 修正
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