夜が明けようとしていた。
しんと冷えた雪の匂いが肺を満たし、冴えた風はゆるやかに頬を撫でていく。北の国らしい、涼やかな朝が来る。
ブラッドリーは夜の名残を横目に、ベリルに手渡されたマナ石を手のひらの上で転がした。ベリルにとって、これはただのマナ石ではない。質の良し悪しにかかわらず、そう簡単に手放せるものではないはずの石だ。
しかし、当のベリルが良いと言うのなら。
ありがとうなどと殊勝な言葉まで並べるくらいだ、それを固辞するほど野暮でもない。〈大喰らい〉のマナ石を口に含んだブラッドリーに、ベリルは小さく頷いた。
あの巨体がこんな小さな石になったのかと思うと、いささか感慨深い気持ちになる。死を見慣れているブラッドリーでもそうなのだから、〈大喰らい〉と所縁のあったベリルは尚更だろう。
ベリルはおもむろにマナ石の傍らに膝をつき、少しの間じっとその石の煌めきを見つめていた。マナ石に生前の面影など残りはしないが、ともすればベリルなら、見出せるのかもしれない。ついそう思ってしまうほどの眼差しをそそいで、刹那、ベリルは目を伏せた。
それから、思い出したように手を伸ばす。一つひとつ丁寧に取り上げては、どこからか取り出したガラス瓶の中に入れていった。どんなに小さな一欠片も残さない。からん、からん、ガラスと石のぶつかる音だけが響いた。
石を拾い上げる細い指の爪先には、見慣れない──ある意味では馴染み深い──鮮やかな色が乗っている。昔は、何も塗られていなかった。少なくとも、ブラッドリーがこの町出入りしている頃には。ベリルは洒落っ気がないというのか、気まぐれに押し付けた装飾品もほとんど身につけずにしまい込むような女だったから、爪だって言わずもがなだ。
もちろん粧しこむのもそうしないのもベリルの自由であって、ブラッドリーがそれについてとやかく言う筋合いはない。……ないのだが、それでも妙に気になるのは、おそらくその色や今回の一件のせいだった。
「それで? 答え合わせはできたかよ」
石を拾い終えるのを待って声をかけると、立ち上がったベリルは変な顔をした。笑っているんだかしかめ面なんだかわからない妙な顔だ。
「できたし、自分が馬鹿だったってことがよくわかった」
「へえ?」
「私、自分で思ってる以上にたくさん喰われてた。そのことに気がついたのも、そもそも『この思い出は私にとって大切なものだったんだ』って理解したのも、〈大喰らい〉から取り返したときだった。これだけでもう自分の間抜けさに眩暈がするのに──」
「まだあんのか」
「ある。最悪なことにね」
恥ずかしいのか、それとも間抜けな自分自身によほど腹を立てているのか、ベリルは口早に言った。髪の隙間から覗く耳が赤く染まっているのが物珍しい。
「自分にとって何が大切なのか見誤ったのはこれが初めてじゃない。失くしてから気づくなんて大馬鹿だって、ブラッドリーが投獄されたとき思い知ったのに……」
ベリルは自嘲気味に笑う。声色こそしおらしかったが、ブラッドリーを見上げた視線は打って変わって強気だ。
「ねえ、ブラッドリー。あんたが捕まったあと、私がどんな気持ちだったかわかる? わからないでしょう、わからなくていいけど、物凄くショックだった。ブラッドリーが捕まったことも、会えないことも、そのことに自分がショックを受けてることも。それでやっと、私にとってのブラッドリー・ベインの存在の大きさを見誤ってたことに気づいた。ブラッドリーが来ることを楽しみにしていたんだって、気づいた。私はいつも、あんたが来る夜を待ってたんだ。
だってこの町には娯楽らしい娯楽もないし対等な話し相手もいなくて、昼も夜も時間を持て余してしまうけど、ブラッドリーといるときだけは退屈だなんて思う暇もないから」
堰を切ったように話し始めたベリルは、次第に表情まで強気に変えていった。しおらしくしているよりもずっと、ベリルらしい。数日前、青白い顔に冷ややかな目でブラッドリーに向き合っていた女と同一人物とは思えないほど、今のベリルは生気に満ちている。
ブラッドリーはふと、ベリルの口から自分の名前が飛び出してくるのが妙に可笑しくなった。この数日の分を取り戻そうとしているのかと思うほど……などと言えば、ベリルは否定するのだろうが。
少しのむず痒さはあるが、決して不快なものではない。
「なんで笑うの」
「悪い悪い。俺様のことめちゃくちゃ好きなんじゃねえかと思ってよ」
「うん、それはそう」
「だよな……いや待て、なんて?」
想定外の言葉が聞こえた気がする。
ブラッドリーが怪訝な顔で聞き返すと、今度はベリルが可笑しそうに笑った。
「うんって言った。何か問題が?」
「ねえけど……」
「じゃあいいじゃん」
ベリルはけろりとして、そう宣った。
「まぁ、あんたも言ってたとおり好きにも色々あるから。あんたが今考えた『好き』とは違うかもしれないし、私もまだどういう『好き』か測りかねてる。でもね、ブラッドリーを好きだってことは断言できる。たぶん、自覚するずっと前から好きだった。今も好き。生きていて、話すことができて、触れられる人たちの中で、ブラッドリーのことが一番好きなんだと思う。思い出せて良かった」
それはいっそ熱烈なほどの告白だった。ベリルがこんなことを言うなんて想像もしなかったが──まぁ、悪くない。
照れるでもなく甘えるでもなく、ただ堂々と言い切ったベリルは、良い顔をしていた。憑き物が落ちたようなすっきりした顔に、晴れやかな笑み。顔色も良い。いかにも気の強そうな光を宿した目は、柔らかく細められている。
──この顔が見たかった。
ブラッドリーは不意に、初めてベリルの表情が崩れた日のことを思い出した。感情を隠した冷ややかな顔が、挑発や軽蔑ではない自然な笑みに綻んだ瞬間を。
当時、いつものつんとした顔を一度でいいから崩してみたいと思ったのは、たぶん出来心と闘争心からだった。ところがいざその瞬間を見てしまったら、何度だって崩してやりたくなった。
結局のところ、それは今も似たようなものなのだろう。恩赦がほしいのも本心だったが、困惑や不安に沈んだベリルらしからぬ表情を変えたかったというのもまた本心だ。
本当は一番に、この顔を見たかった。
「好き好き好きってやけに素直だな? さすがの俺様も照れちまうぜ」
「思ってもないことを。……私はただ、言えるときに言っておきたかっただけ。そう何度も言うつもりはない」
「いつでも言えばいいだろ。全部聞いてやる」
「そのうち牢屋に戻るやつが何言ってんの」
ベリルはブラッドリーの反論を聞く前に、マナ石の入ったガラス瓶を大事そうに抱えて呪文を唱えた。ベリルの今の魔道具らしいダーツの矢が踊り、瓶が守護の魔法に包まれていく。
「なあ、ベリル」
「何?」
「それ、俺が置いてったやつだろ」
「……何も言わないから気づいてないんだと思ってた」
ブラッドリーが捕まったあと、いつの間にか。
そう呟いたベリルは、そこで初めて気恥ずかしげな様子を見せた。耳だけでなく、顔までぽっと赤く染まる。──思わず手が伸びた。
「可愛いとこあんじゃねえか」
「うるさいな……あんたの顔でダーツしてやろうか。目玉に命中させてやる」
悪態をついた顔はまだ赤い。ブラッドリーが笑うと、笑われたベリルはばつが悪そうにブラッドリーの手を押しのける。柔らかい髪がするりとすり抜けていったかと思えば、ベリルは軽やかに箒に飛び乗ってこちらを見下ろしていた。
「朝食、何がいい?」
誤魔化すの下手くそか、とは思うが。
ここは敢えて、誤魔化されてやろう。
白んだ空に逃げたベリルを追うように、ブラッドリーも箒に跨って隣に並ぶ。
「フライドチキン」
「言うと思った……」
「わかってんなら聞くなよ」
耳に馴染む笑い声が風に乗って流れていく。
このまま陽が昇って人間たちが目覚め始めても、ベリルがそうやって笑っていればいい。ブラッドリーはそんなことを考えながら白い町を見下ろし──ベリルを呼んだ。
氷の大鷲が翼を広げ、今にも飛び立とうとしていたから。
210723 end...?