似た者同士の選択

「私を撃って」

 ベリルの要望に対して、ブラッドリーは理由も何も尋ねなかった。

「任せな」

 三度目の強化魔法が胸を貫く。
 ベリルは向かってくる〈大喰らい〉を前に、少し笑った。
 手元にあるのは鋏ではなく、よく馴染んだ本来の魔道具だ。ダーツの矢。正直、あまり格好がつかないし、鋏のほうが何かと使い勝手は良かった。使っていた年数の分だけ気に入ってもいたが、駄々をこねてもしかたがない。これはこれで、ベリルの大切なものだ。
 ベリルが呪文を唱えれば、三本のダーツの矢がブラッドリーの長銃ほどの大きさになって〈大喰らい〉へ向かっていく。
 追い討ちをかけるように、ブラッドリーも呪文を唱えた。

「《アドノポテンスム》」

 本来の魔道具に、強化魔法と、慣れと経験。それらの要素が揃えば、鱗の硬さもさほど手強くはない。次々に砕けていく鱗からは、色とりどりの靄が吹き出してくる。
 夕暮れの色、若葉の色、雪の色、星の色──オーロラのような靄が吹き出したところで、ベリルは矛先を変えた。ベリルにはベリルの仕事がある。

「《ヴィアオプティムス》」

 ──これは、はす向かいの家の父親の記憶。
 ──これは、仕立て屋の末娘の記憶。
 ──これは、粉屋の老婦人の記憶。
 ──これは、商家の跡取り息子の記憶。
 ──これは。

「ベリル!」

 ハッとして目を開ければ、〈大喰らい〉の巨体がすぐそばに迫っている。
 鼻先が触れるか触れないかのところで、ベリルは箒に跨った。躱された〈大喰らい〉は長い鼻をひくひくさせ、空へ浮かんだベリルを目で追い、また鳴いた。ひどく悲痛な声で。

「おまえ、あの人が恋しかったんだ」

 〈大喰らい〉はただ一人の面影を探している。……誰だろう、『〈大喰らい〉は懐かない』だなんて言ったのは。

「……止めるか?」と、寄ってきたブラッドリーが短く尋ねる。
「続けて」と、ベリルは〈大喰らい〉から目を逸らさずに答えた。

 銃声と慟哭を聞きながら、ベリルは検分を続ける。
 そうして、いろいろなことを思い出した。
 ──たとえば、この町をともに作った人たちのこと。人々はベリルの名を親しげに呼んだ。時に優しく、時に厳しく。彼らはベリルの親のようで、兄弟のようで、子どものようでもあった。
 ──あるいは、ブラッドリーを町から追い出そうとした日々のこと。ブラッドリーの武勇伝を聞いて過ごした夜のこと。
 フライドチキンにかぶりつく満足げな顔。他愛もない雑談、くだらない賭け、心地よい笑い声。
 初めは敵だったはずなのに、鬱陶しかったはずなのに、ブラッドリーが投獄されたと知って覚えたのは苦しいまでの喪失感だった。ブラッドリーの存在の大きさにそのとき初めて気がついたのだ。どうしようもなく胸が痛くて、途方に暮れた。
 ──それから、ベリルが師事した偉大な魔法使いのこと。
 師匠と出会ったのは雪の降る夜。箒に跨る師匠は、幼い子どもの姿をしていた。
 師匠が石になったのは星の降る夜。最後に見た師匠は、若い女の姿をしていた。
 師事が唯一激昂したのは大吹雪の日。ベリルと父親の約束に横槍を入れた師匠は、青年の姿をしていた。
 師匠は──フラーテルは、自身が気に入ったものには惜しみない情を注ぐ人だった。ベリルに知識を授け、稽古をつけ、〈大喰らい〉を託し、双子やチレッタといった魔法使いたちに引き合わせた。
 ベリルはフラーテルを慕っていた。
 きっと、〈大喰らい〉も同じだったのだ。
 眼下の〈大喰らい〉は今、フラーテルを恋しがって泣いている。
 〈大喰らい〉は決して懐かないわけではなかった。フラーテルもベリルも、ひょっとしたら〈大喰らい〉自身さえも、気がついていなかっただけで。

「おまえも失くしてから気づいたのかな」

 お互い馬鹿だったね。ベリルが苦笑すると、ブラッドリーが振り返った。
 悲痛な叫びは再び耳をつんざく。〈大喰らい〉は長い尾を鞭のように振り回し、今にもベリルに飛びかからんばかりの勢いだ。しかし、どれだけ強く大地を蹴ったところで、その巨体がベリルまで届くことはない。
 鱗を砕かれ、色を失いつつある体は、まるで亡霊のように薄ぼんやりしている。まだ鱗から吹き出した色とりどりの靄が立ち込めているのに、〈大喰らい〉はそちらを見向きもしなかった。そこに求めるものがないことを察しているからだろう。
 ベリルは指先でくるくると魔道具を弄んだ。
 師匠フラーテルのことを思い出すと、必然、〈大喰らい〉のことも思い出すことになる。一度思い出してしまえば、慟哭はベリルの胸を深く抉る。
 好きな人の大切なものなら、できるかぎり大切にしたい。それを差し引いても、両親よりも師匠よりもはるかに長く共に生きてきて、情が湧かないはずがないのだ。
 そっと呪文を呟くと、ベリルを周囲をオーロラのような靄が取り巻いた。一度はベリルの中に還ったものだ。ベリルはそこから、特定の思い出だけを正確に選り分けていく。
 〈大喰らい〉はまだ鼻をひくつかせていたが、先程までの勢いが嘘のように大人しくなっていた。その視線はベリルの手元に注がれている。まるで、ベリルがしようとしていることを理解しているかのように。
 ブラッドリーも銃撃の手を止め、様子を見守っている。この先のことは任せてくれるつもりなのだろう──それが分かって、ベリルはかすかに頬をゆるめた。
 余所見をしていても、ベリルの手元は狂わない。選り分けたものをさらに細かく分割し、いくつかを残して左手に集めると、ベリルは〈大喰らい〉に近づいた。だいぶ色が抜けた〈大喰らい〉だが、まばらになった鱗と腹のあたりは依然として淡く色づいている。
 右手を伸ばしてゆっくり耳の付け根を撫でてやれば、小さな耳がぴくぴく揺れる。目を細めるのも、かつてと変わらない。少しの間、懐かしい気持ちで眺めていたが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。

「ごめんね、おまえを満たしてやれなくて、守ってもやれなくて」

 〈大喰らい〉はじっとしていた。ベリルの言葉に耳を澄ませているようにも見える。
 その鼻先をくすぐって、ベリルは「かわりに」と続けた。

「これを譲る。私もあの人が大切だから全部はやれないけど、これと引き換えに、他のすべてを返して頂戴ね」

 差し出した左手に〈大喰らい〉は迷わず口を寄せた。師匠フラーテルにまつわる思い出が、音もなく吸い込まれていく。
 すべてが〈大喰らい〉の腹に収まったのを見届けて、ベリルは深呼吸した。何もかも心得たかのごとく、〈大喰らい〉はベリルの手のひらに鼻先を押しつける。

「──ごめん、さよなら。《ヴィアオプティムス》」

 ベリルの魔道具が槍のように体を貫いても、〈大喰らい〉は鳴き声ひとつあげなかった。
 血が流れないかわりに、靄が吹き出してくる。ベリルは先程自ら〈大喰らい〉に食べさせたものだけを腹に残し、そのほかの靄をすべて綺麗に引っぱり出した。おそらく、時間にして一秒にも満たない。
 〈大喰らい〉の体は石になって、砕け散った。ぴしぴし、がしゃん。初めて聞くわけでもないたったそれだけの硬い音が、やけに耳に残る。
 雪の上に散らばったマナ石を見ながら、ベリルは知らず識らず詰めていた息を吐き出した。
 ──二度と戻らない。
 ふっとそんなことが頭に浮かんで、ベリルは自分自身に顔をしかめた。
 感傷など捨て置いていい。今は他にやるべきことがある。
 ベリルは常の声音で呪文を唱えた。〈大喰らい〉から取り出したものが一つ残らず、あるべきところに帰れるように。



 すべて終わって、ベリルは大きく伸びをした。
 ──きっとこれが最善だった。何もかも元通りとは、言えないかもしれないけれど。
 心に空いたこの穴が、完全塞がる日はやってこない。そこにあったはずの思い出は永遠に失われた。その空隙にフラーテルがいたことだけを憶えている。
 今は、それで十分だと思えた。少なくとも譲れないものはすべて取り戻したし、二度死なねばならなかった〈大喰らい〉への手向けに相応しいものなど、他になかっただろうから。
 伸びをした勢いのままぐるりと宙返りをして、箒から飛び降りる。やや遅れて隣に降り立ったブラッドリーが、ベリルの背を叩いた。

「お疲れさん」
「ブラッドリーも」

 散らばっていた石を拾い上げると、硬い質感と相俟ってほとんど氷のようだった。大きな欠片をひとつ口に含み、もうひとつをブラッドリーに差し出す。
「良いのか?」と受け取ったブラッドリーに、ベリルは「良いから渡してる」と笑った。

「ありがとう、ブラッドリー」


210723
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