やってやる、とは思うものの、やはり無視できないのは魔道具と魔力の問題だ。今のベリルにできることは、たかが知れている。
とはいえ──魔法は心で使うもの。
心意気は十分。魔力が弱まっている原因が記憶の欠落に起因する心の不安定さなら、あとは、忘れてしまったものを思い出すことができればいい。すべてを一息に取り戻すことはできずとも、魔道具さえわかれば活路は開ける。
「お前をもう一度強化して、俺は〈大喰らい〉を相手する」
と、長銃を携えたブラッドリーが言った。
「片っ端から鱗をぶち抜いてりゃ、何かしら出てくるだろ。お前はそっちに集中しな」
「……わかった。なるべく手短に終わらせる」
「ははっ。俺様は別に、暴れられんなら長引こうが問題ねえけどな」
「それで町を破壊されるのは私が困るんだけど……」
ベリルが眉を寄せれば、ブラッドリーは「わかってるつの」と頷いた。そうして、気安い仕草でベリルの肩を叩く。
暴れられることを喜んでいるような魔法使いの言うことだ、信用ならない。そう思う一方で、その手を振り払えない自分もいる。
唇から雫のようにこぼれ落ちたのは、「ありがとう」の一言だった。
ベリルが、あ、と思うのと同時に、ブラッドリーは子どものように目を丸くする。見間違いにも思えるような、一瞬。その表情は、すぐに荒っぽい笑みに変わった。
「礼を言うのはまだ早いぜ」
* * *
〈大喰らい〉のねぐらが北にあると仮定する。
町の北外れは林が広がっており、その手前には建物もほとんどない。せいぜい、空き家がいくつかあるばかりだ。
元を辿れば魔女の家を中心に発展してきた町だから、民家も店もその多くがベリル邸のそばに集まっている。住民が増えるにつれ町の規模が大きくなっていっても、わざわざ北側に居を構える者は多くなかったし、その僅かな居住者たちは、この何十年かのうちに死んだり町を出て行ったりしてすっかりいなくなった。
理由はどうあれ、大捕物をするにはあつらえ向きだろう。ベリルは〈大喰らい〉を誘き出す『餌』になりそうな物をいくつか見繕い、北外れへ向かった。
万が一にも人間を巻き込むことがないよう、皆が寝静まる時間を選んだ。夜の町外れ、街灯などはない。それでも一面の新雪が月光を跳ね返すおかげで、明かりには困らなかった。
空を見上げれば、久しぶりに目にした気がする雲の少ない夜空には、シュガーのような星が無数に散っている。箒に乗って視界を横切っていったブラッドリーは、さながら流れ星といったところだろうか。
ブラッドリーは空に舞い上がる前に、ベリルに二度目の強化魔法をかけていった。しばらく地上に降りてこないつもりだからだ。ブラッドリーはこの後、上から辺りの様子を伺い、〈大喰らい〉が現れたらすぐさま狙撃する手筈になっている。
〈大喰らい〉が何に惹かれてベリル邸の周りをうろついているのかがはっきりとしない以上、すべて空振りに終わる可能性も否定できない。せめてとばかりに、ベリルはとりわけどろどろした思念がこびりついた品々を選んだが、どれもこれも、決定打に欠ける気がしてならなかった。
北の外れ、事前にブラッドリーと示し合わせた地点に辿り着くと、ベリルは呪文を唱えた。『餌』に施していた封印を解くためだ。
呪文を言い終えると同時に禍々しい気配が漏れ出して、ベリルは思わず顔をしかめる。慣れたものとはいえ、あまり気分の良いものでもない。一つや二つではないのだから、尚更だ。
しかし、十を数えても三十を数えても、何もやって来ない。一分──五分──十分──時間だけが過ぎていく。
自分が気配を感じ取れないだけだろうかと空を見上げてみれば、箒に跨ったブラッドリーが首を横に振るのが見えた。
──やっぱり。
「どうする」
ベリルの目線の高さまで降りてきたブラッドリーが言う。落胆しているわけでも不機嫌なわけでもない表情からするに、ブラッドリーにとっても想定の範疇だったに違いない。
ブラッドリーの短い言葉は問いかけのかたちをしていたが、決まりきったことを確かめるような調子があった。ここからどうするか──ベリルがどうするべきなのか、おそらくブラッドリーはわかっているし、ベリル自身もわかっている。
二人が考えているのは、きっと同じことだ。
「『餌』を変える。……たぶん、最初からそうするべきだった」
手記の記述との矛盾。欠落する記憶の法則。捻じ曲げられた、記憶の保護魔法。
それらに一連の理由があるのなら、〈大喰らい〉にとって極上の『餌』は、ベリルの中にある。
「きっとこっちは空振らない」
ブラッドリーはただ「そうか」と勝気に笑って、ベリルの頭を豪快に撫でた。「よし、やるぞ」
心当たりがあったなら最初からそうしろ、舐めてんのか、などと悪態の一つや二つ飛んでくるかと思っていただけに、ベリルは拍子抜けした。
「始めるタイミングはお前に任せる」
何も言えないでいるベリルにそう告げたブラッドリーは、ベリルの乱れた前髪を指先で少しだけ整えてから、再び空へ戻っていく。豪快ではあっても、荒々しくはない。どこか優しい手つきでそんなことをされたものだから、返事も文句もお礼も全部、言いそびれた。
なんだか胃のあたりが落ち着かなくて、溜息に混じって「あぁもう……」と言葉がこぼれてくる。
いっそ全て吐き出してしまえと、ベリルは大きく深呼吸した。
──大丈夫、難しいことをするわけじゃない。
ただ、自分がかけた魔法を解くだけだ。捻じ曲がってこんがらがった、中途半端な魔法を。
「《ヴィアオプティムス》」
呼吸を整え、心を落ち着けて──唱えた瞬間、錠が外れるように、記憶を保護する魔法が解ける。
すぐに、それは聞こえた。
まるで誰かの泣き声のようだった。赤ん坊がむずかるように甲高い。それでいて、我が子を亡くした母親の悲痛な泣き声にも似ている。
これは──慟哭だ。
総毛立つ気配を感じるが早いか、林がざわめいて巨体が飛び出してきた。雪像が見ていたとおりの生き物が、ベリル目掛けてやって来る。
「《アドノポテンスム》」
夜を切り裂く鋭い光が閃いた。「クソ、硬えな!」
ブラッドリーの銃声と悪態を掻き消さんばかりに、一際大きな慟哭の声が巨体から発せられる。おそらくはこれが、〈大喰らい〉の鳴き声なのだろう。あるいは本当に、泣いているのかもしれない。
〈大喰らい〉の鱗は相当強固なようで、撃たれたからといって何が吹き出すでもなく、ただ美しく輝いていた。
ブラッドリーは二度、三度と攻撃を重ねる。そのたびに痛ましい鳴き声があがる。容易く跳ね返しているように見えても、まったく効いていないわけではないらしい。
何度目かの攻撃が弾かれたとき、ベリルは一際目を引いた鱗に鋏の刃を向けた。そこが一番脆そう──というわけではなく、いうならただの直感、目についたからだ。ブラッドリーの瞳にも似たその色が。
視界の端に、ブラッドリーが頷くのが見える。
「《アドノポテンスム》」
「《ヴィアオプティムス》」
雪像の記憶で見たとおり、〈大喰らい〉の動きは決して素早くはない。同時に同じ鱗を狙うことは難しくなかった。パキパキと、氷がひび割れるのにも似た音がする。
〈大喰らい〉が煩わしげに尾を振ると、その勢いで突風が起こった。その上、長い尾の先が積もった雪を叩くから、雪の塊が礫のように飛んでくる。
「ベリル、お前は少し距離取ってろ! 《アドノポテンスム》」
今度こそ、ブラッドリーの攻撃が鱗を貫いた。しかも二枚抜きだ。声をかけようとしたベリルは、中途半端に口を開いたまま、〈大喰らい〉に釘づけになった。
はっきりと氷の砕ける音がして、中から柔らかな朝焼け色の靄が吹き出してくる。それは細氷のようにきらきらと輝く。こんなときでなければ見惚れてしまいそうな、儚く繊細な美しさがあった。
言葉にならない感情が胸をつく。しかしそれは、目の前の光景の美しさゆえではない。
これもまた直感で、そして、確信だった。
強く心惹かれるのも、不思議と涙が出そうになるのも、美しいものを目にした感動などでは決してない。
「《ヴィアオプティムス》」
靄は、伸ばしたベリルの手に吸い寄せられるように消えていく。雪が温かな手のひらの上で溶けていくように、水が渇いた大地に染み込んでいくように、じわりと溶けて馴染んでいく。
──思い出した。
すべてには程遠い。心に空いた穴は、まだ穴のままだ。それでもはっきりとわかる。
大切なことを一つ、思い出した。
だから、やれる。活路は開けた。
「ブラッドリー!」
ブラッドリーが弾かれたように顔を向ける。目が合うと、ブラッドリーは上機嫌に笑った。
よく見慣れた──ベリルが一番好きだった笑い方で。
210723