谷底の町の人間

『人間がこの谷で生きていくには、魔法使いの助けが必要不可欠なんだ。父さんの言いたいことがわかるね、ベリル。
 ……大丈夫。おまえが皆の役に立てば、皆は必ずおまえがいい子だとわかってくれる。愛してくれる。きっとここがおまえの安息の地になるよ。だから、約束しておくれ──』


 ベリルは鉛でも飲み込んだかのような気分で目を覚ました。空はまだ薄暗い。ベリルは何にともなく悪態をついて、ベッドを抜け出した。
 昨夜は結局、〈大喰らい〉の捜索に取り掛かるのは翌日からということで話がまとまった。急がねばならないのは確かだが、焦ってどうにかなるものでもない。〈大喰らい〉らしき魔法生物の目撃情報がベリルの元に届いているわけでもなく、手掛かりはゼロ。周辺の探索にしろ住民への聞き込みにしろ、効率を考えるととにかく朝を待つほかなかった。
 話がまとまった後、ブラッドリーは空き部屋の一室で夜を過ごした。ベリルがその部屋を勧めたのではなく、ブラッドリー自らその部屋に入っていった格好である。なぜ間取りを知っているのか、なぜそうも遠慮がないのか。もはや尋ねることも億劫になってしまった。
 よく知らない魔法使いと同じ屋根の下で眠るなど、本来なら寝首を掻かれる心配をするべきところだ。やむを得ないとはいえ、我ながら腑抜けすぎやしないかと恥ずかしくなる。
 手早く身支度を整え、なんともいえない落ち着かなさをぶつけるように部屋を掃除したあと、朝食の用意に向かう。
 フライパンにオアシスピッグの切り落としを放り入れながら、ふと、あの男の分も用意しなければならないと思い至った。
 朝食はベーコンと卵スープにするつもりだった。あの男は、ベーコンは好きだろうか。……たぶん好きだろう。なんとなく、そんな顔をしている気がする。
 ベリルは指揮者のように指を振り、呼び寄せた鍋にスープの具材を放り込む。指を振る動作一つで調味料や野菜がキッチンを飛び交う光景は、自分がまだ魔女であることを実感させてくれた。
 魔女でない自分など想像できないし、したくもない。
 ベリルが父親と約束を交わしたのは、この谷に人々が集まり始めてからのことだった。父親の「約束しておくれ」という言葉にどう答えたのか、あいにくと覚えていないが、約束したことだけは確かな事実である。当時のベリルはまだ、約束をすることの重さを正しく理解していなかった。
 今のベリルにとって、その約束は呪いにも等しい。自己を脅かす呪い、ベリルをこの町に縛りつける呪いだ。

「お、ベーコンか。カリカリにしてくれよ」

 起きてきたブラッドリーが、欠伸を噛み殺しながら言う。「それと、大盛りで」

「注文は受け付けてない。うちは食堂じゃないんでね」
「ケチくせえな」
「タダ飯食べようとしてるやつの台詞?」
「タダ飯っつーか、報酬の前払いみてえなもんだろ」

 ものは言いようだ。ベリルがじろりと睨みあげると、ブラッドリーはおどけたように肩をすくめてみせた。
 ……何が前払いだ。食い逃げされたらどうしてくれよう。
 スノウとホワイトに言いつける算段を立てていたら、危うくベーコンを焦がしかけた。ミスラなら真っ黒焦げの消し炭ベーコンでも平気で食べるが、ブラッドリーは違うだろう。
 焦げかけベーコンは自分の皿に載せ、ブラッドリーの皿には見た目の良いベーコンを載せる。そのあと続けてコーヒーを淹れるために指を振ると、ブラッドリーがぼそりと言った。

「魔法を使わずに料理するのはやめたんだな」
「は?」
「昔、魔法を使うと母親に教わった味にならねえとか言ってたろ」
「ふうん。私、そんなこと言ったんだ」
「ああ」

 ブラッドリーはまだ何か言いたげに見えたが、言葉にはしなかった。……昨夜と同じだ。昨夜、人間たちがベリルの家を訪れたときと。


* * *


 それはちょうど、〈大喰らい〉の話が一段落したときのことだった。
 庭から人間の気配がして、ベリルは眉をひそめた。ノックもせずに、ただそこにいる複数の人間の気配。一度気づいてしまえば、動きを待つのもまどろっこしい。ベリルが玄関へ向かうと、その後ろをゆっくりブラッドリーがついてくる。

「どうしてついてくるの」
「どこに行こうが俺様の勝手だろ」
「……囚人のくせに」
「あ? 今関係ねえだろ」

 肩をすくめたところで玄関ホールに辿り着く。ベリルは勢いよく扉を開け放って、「何の用?」と辺りを見渡した。
 町長と長老と、住人の中でも特に体格がいい男が三人。彼らの表情はそれぞれで、怯えている者もいれば訝しむ目をしている者もいる。中でも町長と長老の顔は青褪めていて、哀れなくらいだった。大方ベリルに用があるのは町長と長老だけで、その二人が用心のつもりで若い男たちを集めてきたのだろう。
 彼らはベリルの背後にいるブラッドリーに気がつくと、いっそう怯えと警戒の色を濃くした。人間には魔法使いの気配がわからないはずだが、ベリルと連んでいるからには魔法使いに違いないと思ったのかもしれない。あるいは、顔の傷に慄いたのだろうか。

「あぁ、魔女様!」

 青い顔に不恰好な笑みを貼りつけて、最初に長老が口を開いた。

「我々の訪問を見抜いておられたのですね、さすがは我らが魔女様で……」
「世辞はいい。用件は」
「は、いえ、その……昼間お姿が見えないようでしたので……」
「あぁそう。それなら、用はもう済んだでしょう。私がいるのを確かめたんだから……いや、おまえたちにとっては、私がいないほうがよかったのかな」
「そ、そんなことは……!」
「虐めてやんなよ、ベリル」

 明らかに揶揄う口調でブラッドリーが口を挟むと、訪問者たちは一様にびくりと身を震わせた。意地の悪いことをしているのは、いったいどちらだろう。
 今度は町長が、青い顔をさらに青くして口を開く。

「ま、魔女様? そちらの方は……」
「視察に来ている賢者の魔法使い。数日滞在することになる。皆にもそう伝えておいて」
「か、かしこまりました」
「まだ何か」
「え? その、ええと……」
「また今日も被害者が?」
「いえっ、今日は誰も」
「そう、よかった」

「用が済んだなら早くお帰り」とベリルが手を振ると、五人はそそくさと帰っていった。
 扉を閉ざしたあとで、ブラッドリーは言った。

「あいつら、今回の件でおまえのことを忘れたクチか」
「いや、この町の人間は全員私のことを覚えてる」
「はあ? そりゃおかしいだろ。誰もおまえを名前で呼ばねえし、ビビって警戒心剥き出しにして……俺が知ってる連中と違いすぎる」
「どの時代の話をしてるの? この町の人間は、もう何世代前からああいう感じだけど」

 彼らはベリルの名前なんぞ知らないし、知る必要があるとも思っていない。この町に魔女は一人しかいないから、名前を知らずとも事足りる。
 そう言えば、ブラッドリーは口をつぐんだ。何か言いたげな顔のまま。


* * *


「それで、どうする」とブラッドリーが切り出したのは、朝食を食べ終えたあとだ。ちょうど後片付けも済んだ頃。ブラッドリーが言い出さなければ、ベリルのほうから言うつもりだった。

「聞き込み、あんたに頼んでも?」
「……やっぱりおまえ、今の人間どもとうまくいってねえのか」
「うまくいってないというか……いや、うん、うまくいってないのかな」

 魔法使いの助けがなければ人間が生きていけない土地だった──そんなことは、今の時代を生きる人間たちには関係がない。
 ベリルが六百年を費やした甲斐あって、谷底の町は随分住みやすい町になった。スノウやホワイトと縁があることが知られているのか、恐ろしい魔法使いが襲ってくることも滅多にない。町の至る所に敷かれた結界や魔法陣のおかげで、魔物の脅威も吹雪や寒波の過酷さもさほど気にせずに暮らしていける。
 この町の人間たち──今を生きている世代にとって、それらは北の国に雪が降るのと同じくらい当たり前のことだ。
 
「時代の移り変わりとともに、魔女を崇めるこの町の風習に疑問を抱く世代が増えてね。『本当は人間だけで生きていけるのに、魔女は権力をほしいままにして人間を虐げている』とかなんとか」

 はじめに言い出したのは確か、西から亡命してきた一家の子孫だったか。年を追うごとにその風潮は高まっていき、今まさにピークを迎えている。
「馬鹿馬鹿しい」と、ブラッドリーが吐き捨てる。
 ベリルは自嘲の笑いを浮かべた。

「少し前に酷い大寒波の年があったでしょう。あの年は、この町からも凍死者が出てしまった。それで、募らせていた私への不信感が爆発寸前まで膨らんで……そこに今回の異変が起こったものだから、彼らはもう私を信用しない」
「だからわざわざ魔法舎にまで来て依頼したってことか?」
「そう。今回の件も、私が黒幕と思ってる子たちが少なからずいるようだし」
「は? なんだそりゃ」
「実を言うと、忘れてないのは私も同じ。この町の全員を覚えている。つまり彼らには、私だけが『無事』でいるように見えてるわけ。それでいて異変はいつまでも解決されないとくれば、私を疑う気持ちもわかるでしょう?」

 若い世代を中心に、住人のおよそ半数近くが、ベリルが人間を支配するために呪いをかけたのだと思っている。
 残りの半数は、まだいくらか『魔女様』への依存心や恐怖心が残っている年配の人間たちだ。その中にもすべては魔女が衰えたために起こったことだと思っている者と、魔女をぞんざいに扱ったことへの報復だと思っている者とがいて、このまま魔女が衰弱死したらどうしようと怯えたり、ベリルと関わることそのものを恐れたり、日々恐怖して過ごしている。可哀想な連中だ。

「おまえはそれでいいのかよ」
「ええ。恐怖心や警戒心が私に向いてるおかげで、こんな状況になってもまだ人間同士の諍いは起こっていない。家族のことを忘れていてもおとなしく同じ屋根の下で過ごしてくれてるんだから、むしろ助かってるといってもいいかもね」

 ベリルが嗤うと、ブラッドリーは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「言いたいことがあるなら言えば?」
「ねえよ」
「……あっそ」

 ブラッドリーが不機嫌なことはわかっても、その理由まではわからない。考えるつもりもなかったので、ベリルはただ肩を竦めた。

「それで? 賢者の魔法使い様は聞き込みを引き受けてくださる?」

 舌打ちののち、ブラッドリーは答えた。

「しかたねえから貸しにしといてやる」


210723
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