〈大喰らい〉

 目当てのワインを見つけたらしいブラッドリーはすっかり上機嫌だった。ベリルが作ったクリームシチューを綺麗に平らげたあと、ソファで寛ぎグラスを傾けるその姿はまったく囚人らしくない。当然のような顔をして「明日はフライドチキンがいい」とリクエストまでする。こちらを侮っているからこその余裕なのだろうか。
 ベリルはずっとブラッドリーの言動を注視していたが、どうも不思議だ。──侮っているというよりもむしろ、気が緩んでいるかのような。

「ベリルも飲めよ」

 鷹揚にグラスを差し出されて、ついにベリルは毒気を抜かれた。
 ──わからない。私は本当に、この男を好いていた? 忘れるくらいに?
 
「……あんたは私の何をどこまで知ってるわけ?」

 フィガロの真似をするわけではないが、情報を整理しておくに越したことはない。ベリルが低い声で尋ねると、ブラッドリーはにやりと意味ありげな笑みを浮かべた。
 
「背中のほくろの位置まで知ってるって言ったらどうする」
「二度とそんな冗談が言えないようにその口縫いつけてやる」
「へえ、魔道具もまだ思い出せねえのに?」
「針と糸があれば、縫うくらい訳無いからね」

 幸い、裁縫箱の在処ならよく覚えている。
 ベリルは半分本気だったが、ブラッドリーは喉を鳴らして笑った。

「やめとけ、指先が血塗れになっちまうぜ」

 その前におまえの顔が血塗れになるだろう。ベリルはそう言いかけて、しかし結局口をつぐんだ。揶揄うように細められた瞳の色が目についたからだ。
 間違いない──こいつ、私の爪の色を見て言っている。
 この爪の色にどんな意図があるのかをベリルは知らないのに、まさか、ブラッドリーは知っているとでもいうのだろうか。
 眉を寄せたベリルとは対照的に、ブラッドリーは機嫌良さそうにナッツをつまんでいる。

「……ねえ、本当に冗談でしょう?」
「記憶が元通りになりゃわかるさ。答え合わせはてめえでしな」
「……そのとおりなんだけど腹立つな……ほかには何を知ってるの」
「何って……期待してるほど知らねえぞ。歳は俺と同じくらい、生まれは中央の国の東寄り──」

 好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと。ブラッドリーは指折り数えながら挙げていく。どれも正しく、当てずっぽうを言っているようでもない。知らないというわりには、次から次へとよどみなく出てくる。ベリルは思わず顔を覆った。

「私、本当にそんなに話したわけ? 有り得ない」
「全部を直接聞いたわけじゃねえよ。見てりゃわかることもあんだろ」
「何それ。私のこと好きみたい」

 嫌味のつもりで言えば、ブラッドリーは反発するでもなくまじまじとベリルの顔を眺め、口の端を吊り上げた。

「そうかもな?」
「……は?」
「なにキレてんだよ、照れるところだろうが」
「そんな冗談いちいち真に受けて照れてられるか」

 やはり口を縫いつけてやるべきか。
 つい裁縫箱に手を伸ばしかけ、爪の色が目について思い直した。指先が汚れることを気にしたから──ではない。
 これでブラッドリーの協力を得られなくなれば、いよいよ本当に賢者一行に命運を託す羽目になる。ブラッドリーに借りを作るというのもあまり気の進む話ではないが、借りを作る相手はできる限り少ないほうがいい。
 ベリルが溜息をつくと、ブラッドリーは笑ってグラスをあおった。

「次はおまえが話す番だぜ」
「何を」
「『心当たり』についてに決まってんだろ。……俺様もなんとなく見当はついてるけどな」



 谷底の町が位置する谷は、かつては『忘却の谷』と呼ばれていた。この谷のそばを通ると、そのとき抱えている一番強い想いやそれにまつわる記憶を失うという噂があったからだ。
 とはいえ、忘れてしまったものの証明は困難であること、一定以上の魔力を持つ魔法使いにはほとんど影響がなかったことから、北の魔法使いの間では長く笑い話として語られてきた。
 呪いの気配があるわけでもない。所詮、噂は噂。ただの谷に恐れを抱くなど、弱者の証である。
 しかし、あるとき、ひとりの魔法使いによって噂の真相が明らかになった。『忘却の谷』には、人の思念を主食とする魔物が住み着いていたのである。

「種の名前はわからない。師匠が偶然見つけたときには凄く腹を空かせていて、何を食べさせても満足しなかったから〈大喰らい〉と名付けたんだとか」
「それ、名付けたって言えんのか?」
「〈悪食〉とも呼んでいたみたいだけど……とにかくこの生物のためにわざわざこの谷に住まいを移したくらい、気に入って可愛がっていたみたい」
「センスも趣味も悪ぃのな」

 呆れたように呟いたブラッドリーを横目に、ベリルは古びた本を手元に呼び寄せた。
 師匠のことを覚えていないベリルは、師匠が可愛がっていたという〈大喰らい〉のこともほとんど記憶にない。今多少なりともこの話をできるのは、過去のベリルが書き記していたからだ。万が一、自分の魔力が衰えたりしくじったりしてしまったときのために。
 記されていた内容によると、〈大喰らい〉には悪意があるわけではない。ただ空腹を満たすためだけに、近くの人間や魔法使いが抱える強い想いを吸い出している。すなわち『餌』を誰かが用意してやれば、周囲の人間や魔法使いへの影響を抑えることができるのだ。

「師匠が世話をするようになってから、被害はほとんど出なくなった。私が世話を引き継いで少しした頃には、例の噂も絶えたらしい」
「……だが、〈大喰らい〉はずっと生きていて、ベリルが世話してきた。だから今、この町がある」
「そのとおり。私が自分の記憶に保護魔法をかけるようになったのも、この〈大喰らい〉対策だった。ただ……〈大喰らい〉が生きていたのは五十年前まで。私がここに、そう書いてる」

 開いたページの一文を、ベリルは指でとんとんとつついた。五十年前の日付とともに、「今日、石になった」と記されている。これより前のページには、〈大喰らい〉が少しずつ衰えていく日々が綴られていた。おそらくは寿命だったのだろう。

「私の『心当たり』はこの〈大喰らい〉のこと。今起きている異変と無関係とは思えない。……とはいえ〈大喰らい〉はもう死んでるわけだから、的外れかもしれないけど」
「いや、当たりだろ」
「当たり?」

 困惑するベリルをよそに、ブラッドリーは立ち上がる。ベリルの手元からひょいと本を奪い取っていくと、ぱらぱらとページをめくり始めた。

「ちょっと!」
「こいつが食ったモンはどうなる? すぐ吸収されんのか?」
「え? ええと……確か、取り込んだものの量や質によって変わるけど、吸収には基本的に時間がかかる。体内に取り込んで一時的に腹を満たしたら、取り込まれたものはそのまま背中に流れていくらしい」
「背中?」
「背中の表面が分厚い鱗みたいに盛り上がって、その中に蓄えられるんだって。通常は、中身が少しずつ吸収されるのにあわせて外側も一緒に吸収されていく。ただし、弱っているときや蓄えが少ないときは外側は吸収されず、結晶化して身を守る鱗になる……って、ちょうど今あんたが開いたページに書いてあると思う」
「聞けば十分だ」

 目も通さず本を閉じたブラッドリーは、神妙な顔をしていた。

「こいつを倒しゃいいってのはわかりやすくていいが、異変が起き始めた時期を考えると悠長にしてる暇はねぇかもな」

 と、さも当然のように言う。

「いや、だから、〈大喰らい〉はもう──」
「厄災の影響で蘇ったんだろ」
「まさか」
「前例ならもうある」
「前例って……よくあることなの?」
「あってたまるかよ。それだけ、今年の厄災は普通じゃなかった」

 そういえば、同じようなことをスノウとホワイトも言っていた。今年の〈大いなる厄災〉は、これまでとまるで違った。各地で秩序が乱れ、異変が起こっている──。
 
「にしても、〈大喰らい〉ねぇ。『忘却の谷』の噂といい、おまえが頑なに町を離れねえことといい、谷そのものに何かあるんだろうと思っちゃいたが」

 ブラッドリーの物言いには少し引っかかるものを覚えたものの、ベリルは口を閉ざした。そんなことよりも、今考えるべきは〈大喰らい〉だ。
 本当に〈大喰らい〉が蘇っているというなら、悠長にしている暇はないというブラッドリーの言葉は正しい。吸収に要するはっきりとした時間は記されていなかったし、既に手遅れになってしまったものもあるかもしれない。
 そう考えてベリルはぞっとした。無意識に、冷たい指先を握り込む。
 ベリルはこの町に暮らす人々を守らなくてはならないのだ。何が起ころうと、何が相手であろうと──必ず守らなければならない。
 さもなければ、ベリルは魔力を失うから。


210622
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