夢と知りせば
そんな顔をしないでください──色のない唇で彼女は言った。
私はきっと、もうすぐ死にます。でもねファウスト様、私、ちっとも怖くないんです。だって、お二人は絶対、革命を成し遂げるでしょう? 私が次に生まれてくるのは、あなたとアレク様が作ってくださった国なんでしょう?
もう喋るなと言っても、彼女は口を閉じなかった。どんどん掠れていく声で、話し続ける。顔にはもうまったく血の気がない。抱き起こした体には、ほとんど力が入っていないようだった。
「諦めないでくれ、きっと助けるから──」
必死に呪文を唱えても、彼女の顔色は戻らない。出血があまりに多すぎたのだ。
どうか、気になさらないで。私は、少し、眠るだけです。明日が楽しみな子どもみたいに、お二人のつくる世界を楽しみにしながら、わくわくしながら、眠るんです。
そこで彼女が咳き込んだ。薔薇色の頬は見る影もない。いつだってきらきらと輝いていた瞳も、今は薄い瞼に隠されてしまっている。それなのにその真っ白な顔には微笑みが浮かんでいて、どうしようもなく胸をついた。
──もうどうやっても助けることができないなら、何者でもなかった自分たちにここまでついて来てくれた彼女に、最後に何かしてやりたい。
しかし残された時間はほんの僅か、いったい何をしてやれるだろう。考える猶予も残されていない。思わず口をついて出かけた「約束」は、「駄目だよ、ファウスト」という低く静かな師の声に窘められる。
フィガロ様のおっしゃる通り。ダメですよ、私なんかと約束しちゃ。死にゆく者と約束したって、甲斐がない。私たちの英雄が、私と約束しようと思ってくれた、ただそれだけで、充分。
最後の力を振り絞るように彼女が腕を動かした。細く冷たい指がファウストの手に触れる。瞼がうっすらと開いて、真っ直ぐファウストを見据えた。
どうか、あなたの行く先が、明るいものでありますように。
彼女の腕から力が抜けた。唇はもう動かない。
そして──。
ハッとしてファウストは起き上がった。同時に、またこの夢だ、とほぞを噛む。
この夢を見た後はいつも言いようのない遣る瀬無さに襲われる。どうせ夢なら彼女を助けられればいいのに、彼女は絶対に助からない。約束だってしてやれない。
目を閉じれば、彼女の最期が鮮明に思い出された。だからといって目を開けても、見たくもないものがさらにたくさん視界に飛び込んでくるだけ。
中でも特に見たくないものが、鏡だった。自分の魔道具も見たくない。そこに映る自分は、彼女が最後に希望を託したものとはあまりにかけ離れすぎている。
少し外の風に当たろうと、ファウストはそっと部屋を出て中庭へ向かった。
魔法舎は昼間とは打って変わって静謐に包まれていた。それもそのはず、子どもたちはベットの中だ。年嵩の騒がしい魔法使いたちなら活動しているかもしれないが、大方、シャイロックのバーに集まっているだろう。まだ夜の明けきらない空には、〈大いなる厄災〉が蒼白く輝いている。
何度眠って目を覚ましても、あの頃のファウストが目指した世界はどこにもない。
──今の自分を、今の中央を、彼女が見たらどう思うのだろうか。
夢を見た後、必ずと言っていいほどファウストの思考はそこへ行き着く。
彼女が信じた未来は訪れなかったし、ファウストは英雄から程遠い呪い屋になった。彼女は、ファウストに失望して、絶望して、嘆き悲しむかもしれない。あるいは、怒りのままに呪詛を吐き出すか──そう考えて、彼女に限ってそれはないと自ら否定する。恨むことが当然であっても、あの子の性質ではきっとできないだろう、と。
中庭へ出ると、野良猫が足元へ擦り寄ってきた。どこからやって来たのか、少し前から魔法舎に居着いている懐っこい猫だ。
彼女も猫が好きだった──そんなことを思い出しながら、ファウストは屈んで猫を撫でてやる。すぐにごろごろと喉の鳴る音がして、ファウストの表情もかすかに和らいだ。
もしもあの子でないあの子が、ヒトのかたちをした生き物に生まれて、どこかで今の時代を生きているのなら。
それは、南の国であればいいと思う。
人間と魔法使いが共生する町で、今のファウストや中央の国のことなど何も知らずに、優しい色をのせた唇で明るい歌を口遊み、猫を愛でながら穏やかで幸せな日々を過ごしていてほしい。
──にゃおん。
不意に、甘えた声で猫が鳴いた。尻尾をぴんと立て、頭をファウストの手に押しつけてくる様はもっと撫でろと言わんばかりだ。
「……きみは、幸せそうだ」
にゃあお。
まるでファウストが思わずこぼした言葉に答えるかのように、猫はもう一度鳴いた。目を細めて、ご機嫌そうに。
201101 / 201119