カウントダウン、この街が彼を忘れるまで



※女性の賢者さんが少し出ます



 この雨の街で一番美味しいご飯屋さんが、ある日突然店じまいした。
 噂話がご法度のこの国では、いったい何があってそんなことになったのか、伝え聞くこともできない。ただ、私にあのご飯屋さんを教えてくれた従兄──最後の開店日となったその日も店を訪れていたらしい──は、私の家を訪れ、扉がきっちりと閉まっていることを確かめてからこう囁いた。

「あの店主、魔法使いだったのかもしれない」




「この辺りに美味い飯屋があるんだ」

 買い物に付き合ってくれた従兄がそう言って連れてきてくれた店は、雨の街の一等地にあった。店はあまり大きくはない。若い店主が一人で切り盛りしているというから、このくらいがちょうど良いのだろう。
 店内は清潔感のあるシンプルな内装。お昼時というには遅い時間だったせいか客はまばらで、エプロンをつけた青年がカウンターにいる客たちと談笑していた。
 カラン、とドアベルが鳴ったのを合図に、青年が涼やかな目をこちらに向ける。

「いらっしゃい」

 従兄が「ここは会話可の店なんだ」と私に耳打ちしてから、「こんにちは、店主さん」と挨拶する。若いとは聞いていたけれど、と私は目を瞬かせた。思っていたよりも、随分若い。
 店主さんのほうも、従兄の後ろに私の姿をみとめて珍しそうに目を丸めた。

「あんたのお連れさん?」
「従妹です。ここ、美味いから教えてやりたくて」
「はは、そりゃどうも」

 店主さんが笑いながら席を勧める。
 勧められるがまま席に着いて、荷物を置き、従兄が差し出したメニュー表を受け取ってから、私は店主さんの顔をそっと盗み見た。
 やはり若い。……そして美形だ。
 なにより印象的なのが、その瞳だった。まるでシトリンのような温かみのある色をしているのに、時折どこかタンザナイトに似た冷えた光がちらつく。初めて見る、不思議な瞳だ。

「……俺の顔に何かついてる?」
「えっ、いいえ!」

 急に視線がかち合って、私は慌てて目を逸らした。今更逸らしたところでもう遅い、そう考える余裕もない。人の顔をまじまじと見つめることは法典で禁止されている。たぶん。正確には覚えていないけれど、そんな気がする。

「す、すみません……」
「いや、別にいいけど。それで、お連れさんは何にする?」
「ええと……」
「一番人気はオムレツとトマトスープ」
「じゃあ、それをお願いします」
「はいよ」

 店主さんは小さく笑うと、メニュー表を回収して厨房のほうへ戻っていった。気分を悪くした風でもない。私はほっと息をついた。寛容な人のようでよかった。
 従兄が意地悪い笑みを浮かべて、爪先で私の足をつつく。

「見惚れてた?」
「違いますー。若いのに凄いなぁって思ってただけ」

 会話が許可されている店だとはいえ、自ずと小声になった。額を寄せ合って会話する様はなんだか悪巧みをしているかのようで、ソワソワと落ち着かない気分になってしまう。

「あぁ、うん、確かに若いよな。俺とそんなに変わらないんじゃないか」
「それでこの一等地に自分の店を持てるなんて」
「それでいて威張りもしない、気の良い人だしな」

 あまり公共の場で会話をする習慣もないものだから、さほど会話は続かない。
 どちらからともなく会話を切り上げ、静かに、店内の様子を眺めながら待っていると、やがて店主さんが料理を手に戻ってきた。

「お待ちどおさん」

 美味しそうな匂いに、お腹がきゅうきゅうと音を立てた。恥ずかしくなって、意味もなく手でお腹を押さえる。店主さんが笑ったのでますます恥ずかしくなったが、一度聞かれてしまったものはもうどうしようもない。

「冷めないうちに召し上がれ」
「……いただきます」

 誤魔化すようにすくった一口目はやけに大きな一口になってしまって、やっぱり恥ずかしい。けれど、口に入れたらそんなことは頭から吹っ飛んでしまった。

「美味しい…」

 思わずちらと見上げると、店主さんは嬉しそうに目をほそめて、顔を綻ばせている。「そりゃ良かった」
 その表情が妙に目蓋の裏に焼きついて、その瞬間に、また絶対にこの店に来ようと強く思った。




 従兄と行ったのは最初の一度きり。その後は一人で行ったり友人と行ったりと様々だったが、とにかく私は何度もその店へ通った。
 店主さんはすぐに私の顔を覚えてくれた。店へ行くと「お、いらっしゃい」と笑いかけてくれる。初めて店を訪れたときの澄ました微笑みとは違う、もっと気さくな表情。胸がくすぐったくなって、「今朝、虹が出ていたの、見ました?」「あぁ、見たよ。久しぶりに見たな」なんて些細な会話も楽しい。それでご飯がどの店よりも美味しいのだから、もうほかのところになんて行けっこない。
 それなのに。
 店主のいなくなった店はすぐに差し押さえられて、今はもう別の買い手がついたらしい。
 従兄は言う。「あの店主、魔法使いだったのかもしれない」
 どうしてかと問えば、従兄はわずかに躊躇ってから「光っているのを見た」と答えた。それがどういうことなのか、私には今ひとつ想像できなかったが、普通の人間は突然光りだしたりはしない。それは、そう、間違いない。
 だけど、あの店主さんが魔法使いだなんて。
 もう一度会って直接話をしてみたいような気も、会うのが怖いような気もした。あの店主さんは、絶対に“良い人”だった。悪いやつには、あんなに優しい味のご飯は作れまい。心からそう思う。
 しかし、もし、彼が私たちを騙していたのだったら? 料理はすべて魔法で作ったもので、本当は食べ物ではないものまで混ざっていたのだとしたら? もしも、もしもそうだとしたら──それを彼の口から語られるのは、怖い。
 知りたい気持ちと知りたくない気持ち、会いたい気持ちと会いたくない気持ち。
 正反対の感情がぶつかり合って悶々とする日々が続いたある日、街で、店主さんを見かけた。
 店じまいしたあの日以降、ただの一度も見かけたことがなかったが、店主さんのことを見間違えるはずがない。
 彼はいつものエプロン姿ではなく、黒っぽい見慣れない装いをしていた。連れの四人のうち三人も、形は少しずつ違うものの似たような装いをしている。一人だけ、店主さんたちとは違う白いジャケットを着た女性がいて、店主さんたちはその女性を中心に何やら話をしていた。会話の全ては聞き取れないが、静かなこの街ではやけに響いて聞こえる。
 彼らはとても目立っていた。道行く人がちらちらとその五人組に視線を投げかけていく。怪しんでいる目つきだが、果たしてその中に、“店主さん”に気づいた人はいたのかどうか。
 私は、いったいどうすれば良いのかわからなかった。話をしたいけれど話しかけられないし、彼が何を語るのか、知りたいけれど知りたくない。
 道の真ん中で立ち尽くす私にも、訝しげな視線が寄越される。
 それでも足を動かせなくて店主さんの横顔を見つめていれば、不意に彼がこちらを振り向いた。一瞬ハッとしたように目を見開いて──すぐに逸らされる。
 ──行ってしまう。でも、こんなところで声は掛けられない。
 そう思ったら、私は抱えていた袋を投げ出していた。
 先ほど買ってきたばかりの野菜が袋から飛び出し、ころころと転がっていく。いくつかは店主さんたちのところまで転がり、女性のかかとにあたって止まった。
 私が拾い上げてくれた彼女のもとへ急いで走っていくと、彼女は驚いた顔で「大丈夫ですか?」と尋ねた。

「すみません。落としてしまって」
「いえ、気にしないでください。というか、拾うのお手伝いしますよ」

 にこやかに答えた彼女がそう言う間にも、連れの少年たちが腰を折ってそこかしこに散らばってしまったジャガイモを回収してくれている。とんでもないことをしてしまった、と慌てふためく私の頭上で、店主さんが「そうだな、手伝うよ」と言うのが聞こえた。

「店主さん」
「……どうも」

 彼の返事は短いもので、それでも口元は控えめな笑みを作っていたから、少しホッとした。

「ちまちま拾ってないで魔法を使ったほうが早いんじゃないか」
「馬鹿。こんな往来で、絶対ダメだ」

 少年たちのひそひそ声を耳が拾う。それは今の私が最も聞きたくない言葉だった。だからこそ聞こえてしまったのかもしれない。けれど、店主さんがわずかに顔を引きつらせたのが見えて、私は何も聞こえなかったフリをした。
 何も言葉を交わさず、私の野菜を拾い集める。人手がある分あっという間に拾い終わったが、黒髪の少年と眼鏡の男性がおっかない顔をしていて、私はそれしかできないからくり人形のようにひたすら頭を下げた。ジャガイモは無事だったもののトマトはダメになってしまったし──あぁまったく、なぜトマトが入っているのにこんな馬鹿なことをしてしまったんだろう──本当に、何をしているんだか。

「ご迷惑をおかけしてしまって本当にすみません、ありがとうございます」
「困ったときはお互い様ですから!」

 女性がそう言ってとりなしてくれるが、半分故意のようなものだっただけに居た堪れない。それに、私はきっとこの人たちが困ったとき何もしてあげられないのだから、ちっともお互い様なんかではない。

「ファウストもシノもそう怖い顔しなさんな。実は俺の店の常連さんなんだよ。俺の顔を立てると思って、もう少しさ」
「……僕は元からこういう顔だが」
「おっとそうかい、それは失礼した」

 軽口を叩いた店主さんが急に振り返る。どきりとして目を瞠ると、店主さんはかすかに笑った。

「ところであんた、時間は大丈夫か? そろそろ行ったほうがいいんじゃないか」

 本当は、こんなところで話し込むべきじゃないんだし。
 そう言った彼の口元はやはり笑みを作っている。それに、言っていることは正しい。ここは、厳しい法典に守られた街なのだから。
 それでも、突き放されている、と思った。それが彼の為の拒絶なのか、私の為の拒絶なのかはわからない。ただ確かなのは、「これ以上干渉してくれるな」という彼なりの表明だということ。

「あんまり話し込むと、あんたが通報されちまう」
「……店主さんは」
「俺は、まぁ……」
「僕たちはここの住民じゃないからな。通報される前に、帰らせてもらうよ」

 歯切れが悪い店主さんに代わって、ファウストと呼ばれた男性がきっぱりした口調で答える。“僕たち”と括ったのを、私は聞き漏らさなかった。無意識に口が動いて、言葉を紡ぐ。

「もう、お店はやらないんですか」

 ──詮索するようなこと、してはいけないのに。
 案の定店主さんは困ったような顔をした。

「あー……やれたらいいな、とは思うけど。たぶん、俺の店、もうないだろ」
「それは……。でも、新しくお店を構えるとか」
「いつかは、そうするかもな。すぐには無理だ」

 魔法使いだからですか。その言葉が喉まで出かけて、そのくせ寸前でつっかえて出てこない。
 ──それを言葉にして問うてしまったら、きっと、彼は。
 
「……私、店主さんの料理、また食べたいです」
「お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃないです!」

 公共の場で大声を出してはいけない。
 それなのに、私の口から飛び出したのは隣の通りまで聞こえてしまいそうな大声だった。道行く人が振り向いても、止められない。

「私、また店主さんのお店に行きたいんです。店主さんの作るオムレツを食べながら、店主さんとなんてことない話をするのが、私の楽しみだったから」
「……何食わせられてたわかんないのに?」
「それはっ……」

 店主さんの問いかけは私が怯えていたことでもあった。なのに、当の店主さんから問われると何故だかひどくムッとする。

「たくさん食べたけどお腹壊したことないし体のどこもおかしくならなかったし全部美味しかったから良いんです!」

 誰かが小さく吹き出したのが聞こえたが、どうでもよかった。

「店主さんの料理が好きだからそれで良いんです」
「変なもんが入ってたかもしれなくても?」
「入っていても入っていなくても。でも、そういう聞き方をするってことは、入れてないんでしょう?」
「どうかな。根拠も無しに信用しないほうがいい」
「根拠ならあります、自分の舌とお腹です」

 それじゃいけませんか、と畳みかけると、ややあって店主さんが笑った。
 初めて店へ行った日、私が「美味しい」と零したときと同じ笑い方だった。

「あんた、意外と押しが強いんだな。この街じゃ珍しいタイプだ」
「……もうこの際、なんて言われても良いです。ご迷惑かもしれませんけど、私、店主さんがまた店を開いてくれるのを待ってます。何年でも、何十年でも、待ってますから」

「ありがとな」

 店主さんの答えはそれだけだった。

「……そろそろ本当にここを離れたほうが良さそうだ」

 ファウストさんの静かな声が空気を変える。「きみも早く行きなさい」
 私が言えることは、もう何も残っていなかった。

「……そうします。お手間を取らせてすみませんでした」

 散々下げた頭をもう一度深く下げると、店主さんの声がした。いつもよりもっと控えめな、どこか遠慮がちな声だ。

「約束はできねぇけど……まぁ、そのうちまた店をやりたいとは思ってるからさ。そのときあんたが来てくれるなら、嬉しいよ」

 弾かれたように顔を上げる。店主さんが口元に人差し指をたてたから、私は出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。大声を出してはいけないのに、また叫んでしまうところだった。

「絶対…絶対行きます」

 私の言葉に笑って背を向けた店主さんの後ろ姿を、目に焼き付ける。
 次に会える日がいつになるかわからない。彼の店に行ける日がいつになるのかは、もっとわからない。どうか私が生きている間に彼が新しい店をオープンできるように、そう祈るばかりだ。
 カラン。どこかの店のドアベルの鳴る音が、風に乗って聞こえてくる。それがなぜだか無性に切なくなって、私は足早にその場を後にした。


200322 / 200329
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