雨のみぞ知る
「美味しい!」
「こうも頻繁に来てりゃ、そろそろ飽きそうなもんだけどな」
つい「もう、どうしてそんなことを……」と眉を寄せて見上げた店主の顔は、言葉とは裏腹な笑顔だった。「あぁ、照れ隠しですね?」
「違うっての」
「ふむ。そういうことにしておいて差し上げましょう」
「なんだそりゃ」
くつくつ喉を鳴らして笑った店主の笑顔を見て、私はクリームシチューの二口目を口に運んだ。
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私が彼の店を知ったのは、雨の降る日のことだった。
雨が降ること自体はなんら珍しいことではない。なにせここは雨の街だ。
ただ、この日の朝はすがすがしい晴天で、私は少し油断していた。昼を過ぎても晴天だったのに、買い出しの途中に──よりにもよってパンを買った直後に──降られるなんて運がない。魔法で雨を弾ければ荷物も自分も濡らさずに済むだろうが、残念なことに私にはその技術がなかった。そうでなくても、この街では簡単に魔法を使うわけにはいかない。もしも誰かに見られようものなら、あっという間に憲兵に通報されて、この街に住んでいられなくなる。
自分がうっかりヘマをやらかさなければ、近所の住民に詮索もされることもないし、善良な人間が多いしで住みやすい街なのだ。まだ、今の暮らしを手放したくはない。
しかたなく、私は自分の体で荷物を覆い隠して、パンができるだけ濡れないように家路を急いだ。それ以外に方法が思いつかなかったからだ。湿気はどうにも防ぎようがないので、諦めることにする。家に帰ったらすぐ魔法をかければとりあえずカビは防げるだろうし、それで味が落ちたとしても、いつも魔法で料理を済ませてしまう私の味覚なんてどうせ大したものではない。
あぁ、箒に乗れたら速いのに。苦々しく思いながら空を見上げると、あざ笑うかのように雨脚が強くなった。ここが公共の場でなかったら、悪態の一つや二つついているところだ。
いっそどこかの軒下で雨宿りさせてもらおうか。法典で禁止されていたかもしれないが、困っている人を無下にするのも違反行為のはずだから、きっと通報はされないだろう。
そう考えて歩を緩めたところで、ちょうど真隣の建物のドアが開いた。
「お客さん、風邪引くぞ。早く入んな」
それが、私に掛けられた言葉だと気づくのに時間がかかった。ドアを開けて立っている若い男性がじれったそうに手招きをする。その仕草でようやく気がつき、私はその建物へ飛び込んだ。
「すっかり濡れ鼠だな。何か拭くもん持ってくるよ」
男性はそう言って、奥の方へ引っ込んでいく。
その隙に私は中を見回した。なんの建物かもわからずに飛び込んだが、どうやら飲食店のようだ。ただ、客は一人もいない。
「ここは飯屋だ。今は飯時じゃねぇから誰もいねぇけど」
「わっ…」
戻って来た彼が私の頭から大きなタオルを被せた。それに礼を言って、ありがたく体を拭わせてもらう。シャツが体に張り付いて気持ち悪かったが、こればかりはしかたがない。
「私、ここのお客さんじゃないんですけど…」
「知ってるよ。けど、そういうことにしないと通報されちまうだろ」
「……『知り合いのお客さんが困っていたから声をかけた』っていうていなんですね?」
「初対面の相手には声かけられないからな」
「初対面、ですか?」
気まずそうな表情を浮かべている彼の顔には、どこか見覚えがあるような気がした。
「あぁ、初対面だろ?」
「いえ…、どこかでお会いしてますよね? だから声をかけてくださったんでしょう」
彼がたじろいだのがわかった。少し踏み込みすぎただろうか。けれど、先に法典の抜け穴を通って来たのは彼のほうだ。
ややあって、彼は気まずい表情のまま口を開いた。
「……人違いだったら悪いんだけど。あんた、三つ向こうの通りで万屋やってるよな」
「まぁ、うちのお客さんでしたか! ありがとうございます」
「時々ここらじゃ珍しい食材なんかも入るから助かってるんだ。特に北のルージュベリーなんて、あんなに安く手に入るのはあんたのとこくらいだし」
「ふふ、ちょっとした伝手があるもので。どうぞこれからもご贔屓に」
「そうさせてもらうよ」
彼が、今日会ってから一番自然な笑みを浮かべる。つられて私も笑った。
「こんななりですけど、私も名実ともにこのお店のお客さんになっていっても構いませんか?」
「どうぞ。この天気じゃ他に客も来そうになくて困ってたところだ。タオルはそのまま肩から掛けときな」
彼が引いてくれた椅子に腰を下ろす。
ふと、すっかり雨に濡れて可哀想なパンのことを思い出した。帰ったらすぐ、乾燥させてやらなくちゃ。
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私が彼の店の常連になってから、彼も私の店の常連になった。きっちり照らし合わせたことはないが、私が彼の店で食べたのと同じ分、彼も私の店で買い物をしているんじゃないだろうか。
それにしても──そろそろ飽きそうなもんだけどな、なんて。
遠回しに「もう来るな」と言われているのかと思ったが、その翌々日に私の店を訪れた彼はいつも通りだった。
「グリーンフラワーある?」
「ありますよ、東のも南のも。どちらがご入用ですか?」
「どっちも貰うよ。にしても、相変わらず安いな。本当にこれでちゃんと食っていけてんのか?」
「そのあたりは抜かりありませんから、ご心配なく。ところで良いエバーチーズも入ってますけど、どうします?」
「言ってるそばから商魂たくましいな!」
「押し売りはしませんよ」
「わかってるわかってる。一個貰えるかい」
「ふふ、毎度ありがとうございます。ちょうど今はお客はネロさんだけですし、オマケもおつけしますね」
「いつも悪いな」
「いえいえ、いつも美味しいご飯を頂いてるので」
彼が購入した品とオマケの品、それぞれを包んでいる間、彼は店内を見ていた。
「何か気になるものでもありました?」
「そういうわけじゃないんだが。凄い品数だなと思ってさ」
「……そうでしょう。良い伝手があるんです」
「そういや前もそんなこと言ってたな。それって……」
そう言いかけて、思い直したのだろう、すぐに口を噤む。「いや、やっぱりなんでもない」
追求されると困ることではあったから、私も仕事向きの笑顔で流した。
本当は“ちょっとした伝手”なんて、特別なものはない。
他国にしかないものの大半は、自分で現地に行って採取したり買い付けたりしている。私の魔力では、空間転移魔法は使えない。しかしそれでも魔女の端くれだから、人間が歩いて何日もかかる道のりも、箒でびゅん、だ。
自分で採取した場合は元手がかからないし、買い付けるにしても、仲介する者がいない分安上がり。他国に行くときにかかる旅費だって、旅程すべて箒を使えばほとんど削減できる。だからこそうちの店は品数が豊富で安いのだ──なんて。人間の彼に教えられるわけがない。
彼は濡れ鼠の
他人を放っておけなかったくらいの優しい人だが、それは私が魔女だと知らなかったからこそ向けられた優しさだ。魔女だとわかっていたら、きっと助けなかった。南の国ならいざ知らず、ここは東の国の雨の街。この街に、好き好んで魔女を助ける人間はいない。私が魔女だとわかれば、彼は私のことを嫌がるだろうし、彼の店には二度と入れてもらえないだろう。彼がこの店にも来ることも二度なくなる──というより、この店を続けていくこと自体できなくなる。すべて諦めて、どこか遠くへ移らなければならないだろう。
“引っ越し”そのものは、もう慣れたものだ。魔女であることを隠して生きるなら、一所に長くは留まれない。何十年も見た目が変わらないなんて、人間ではありえないからだ。この街もこの店もいずれ離れることになると、最初から承知の上で暮らしている。
けれど、せっかく気安く会話ができるようになった彼と早々にお別れするのは──とても、惜しい気がするのだ。
私が魔女で、彼が人間である以上、どうせ長い付き合いはできない。そうするにはあまりにも問題が多すぎるから、どんな形であれ、あっという間に別れの日が来る。
わかっているのに。
「──おい、大丈夫か?」
ハッとして顔を上げると、彼が眉を寄せて顔を覗き込んでいた。
「どうしました?」
「どうって…。ぼーっとしてただろ、今。声かけても無反応で、目え開けたまま気絶してんのかと思った」
「そんな器用じゃないですよ私」
「器用って言うのかね」
へらへら笑った私を見て、彼は「まぁいいか」と独り言ちた。
「今日は一日お休みですか?」
「ん? あぁ、そうだな」
「じゃあ、明日。また、お店に行って良いですか」
「俺は別に構わねぇけど……ほんとに飽きないか?」
「全然飽きません。本当は毎日だって食べたいんですよ。自分が作った料理なんて、もう食べたくないくらい」
「んな大袈裟な」
彼は声を上げて笑ったが、少しも大袈裟なんかじゃない。初めて彼の料理を食べた日、私は自分が作る料理の味気なさを思い知ったのだ。
魔法でさっと作った料理なんて、すぐに食べられることくらいしか褒めるところがない。その上、たった一人の食卓はいささか静かすぎる。近くに誰かの声が聞こえる、手間のかかった優しくて温かい食事は、私には決して作り出せない。
「私、ネロさんの料理のおかげで、食事って楽しいものなんだって思ったんですよ」
「俺の料理で?」
「ええ。だから、いつもありがとうございます。これからもネロさんの料理を楽しみにしてますね」
「……はは、こちらこそありがとさん。料理人冥利に尽きるよ」
口調こそおどけていたが、その顔は少し赤い。今は雨が降っているから、まさか陽射しということはないだろう。
くすくす笑って包みを差し出すと、彼は丁寧な手つきで受け取りながらぶっきらぼうに「笑うなって」と呟いた。
200322 / 200329