もう戻れないこと
※夏油が非術師の恋人を手にかける話 ※捏造いっぱい 夏油傑という同級生を一言で説明するなら、大人びた優等生。 それはあまりに陳腐な表現なのだけれど、ほかにちょうどいい言葉を見つけられないからしかたがない。優等生、彼はまさにそういうひとだった。 当時、あの中学校に通っていた人で、彼を知らない人はいないだろう。そのくらい彼は目立つ生徒だった。中学生なんてしょせんは小学生がちょっと知恵をつけた程度のもので、自分たちが思っているほど大人じゃない。それなのにその中で唯一、夏油くんだけが“大人”だったから。 彼が十五のときには既に、大人と並んでも遜色ない体躯を持っていたこともそう見える要因のひとつだっただろうけれど、決してそれだけが理由ではなかったと思う。静かな笑い方、落ち着いた佇まい。言葉の選び方や考え方など、どこをとっても、彼は同級生の誰とも違っていた。いっそ『異質』と言い換えても良いほどに。 同い年の男子はみんな子どもっぽく思えるのに、夏油くんだけはそうではない。ほかの男子と一緒になって馬鹿騒ぎをすることはないけれど、決して根暗ではなく、穏やかに微笑むことがあれば声を上げて笑うこともある。冗談だって言うし、ノリも悪くない。成績はいつも上位、しかしガリ勉というわけでもない。その上、夏油くんは運動神経も抜群に良かった。 少し考えてみてほしい。そんな男の子が、女子の憧れの的にならないことがあるだろうか? 答えは言うまでもない。入学してから卒業するまで三年間、春夏秋冬いつだって、夏油くんを好きだという女子が何人も存在したことを私は知っている。……私も、その中の一人だった。 好きになったきっかけは、本当に些細なことだった。 夏油くんと初めて同じクラスになったのは二年生のとき。席替えをして、夏油くんの一つ前の席に決まった翌日のことだ。一限目の数学が始まって早々、消しゴムがないことに気がついた。 ──うそ、もしかして忘れてきた? すぐにペンケースの中をあさったけれど、どれだけ探しても、ないものはない。私は焦った。最悪ノートの誤字は二重線で消せばなんとかなるとしても、この授業、最後に小テストがある。ひとつも間違わずに計算できる気がしないし、間違いは消しゴムで綺麗に消しておかないと減点されてしまう。 ──そうだ、シャーペンに消しゴムがついている。 本当はシャーペンの消しゴムはあまり使いたくない派なのだけれど、ほかにどうしようもない。私が消しゴムひとつにかかずらっている間にも授業は進んでいる。板書を写すのが間に合わなくなるのは、困る。 そんなとき、肩をとんとんと叩かれて──むしろ、つつかれて?──私は飛び上がりそうになった。授業中だという意識がかろうじて声を押しとどめる。 先生が黒板に向き合っていることを確かめてからぎこちなく振り返った私に、夏油くんはあの大人のような微笑みを浮かべて、そっと囁いた。 「よかったら使って」 たった、それだけ。 夏油くんにとっては本当になんでもない些細なことだったに違いない。けれど、夏油くんがそう言って差し出してくれた2分の1サイズの消しゴムを受け取ったその瞬間から、私は夏油くんを意識し始めたのだ。 この日以降、無意識に夏油くんを目で追うようになった。ついでに、夏油くんの前というこの席順が急に居た堪れなくなって常に緊張するようにもなった。 後頭部に寝癖がついたままになっていたらどうしよう。制服の襟がひん曲がっていないかな。そんなことが過剰なくらい気になってしまう。 いつも眠くてしかたがなかった午後の授業も、授業とはまったく関係のない緊張感のせいで微塵も眠気がやってこない。かと言って授業に集中できているかといえば、そうでもなかった。 どうしてよりによって夏油くんの前の席なんだろう。後ろならよかったのに。……もしもそうだったら、授業中もこっそり、夏油くんを見られたのに。 席順をちょっぴりうらめしく思いながら、居住まいを正して授業を受ける。そのほかの時間は、なんとなく夏油くんを目で追ってしまう。 そんな日々を過ごすようになって気づいたのは、夏油くんはよく周りを見ている人で、いろんなことに気がつく人、その上で当たり前のように他人に手を差し伸べることができる人だということだった。 だからこそ彼は私に消しゴムをくれたわけで、本当に何ひとつ特別な意味なんてなかったというわけで。 不思議と落胆はしなかった。その頃にはもう、そういう夏油くんを好きになっていたから。 うらめしく思った席順も、実は案外悪いものではなかった。夏油くんと会話をするチャンスがほかの女子たちより多く巡ってくるのだ。 大した会話ではなかったけれど、ほんの少しでも会話ができればそれだけで舞い上がって、一日をウキウキしたまま過ごすことができた。我ながらなんて単純なんだろう。でもきっと、恋をする女子中学生なんてだいたいそんなものだ。 三年生の四月、また夏油くんと同じクラスだとわかったときは、むこう十年分の幸運を使い果たしたと思った。その二ヶ月後、私の一世一代の告白を夏油くんが受け止めてくれた瞬間には、自分が立ったまま夢を見ているのではないかと本気で疑った。 ああ、きっと、今が人生のピークに違いない。そして、得てしてそういうピークは短いものだと相場が決まっているのだ。ならばせめて、夢が続くその間だけでも、夏油くんにふさわしい女の子でいなければ。 ──そう思ったあの日から数えて、四回目の夏が終わり、秋を迎えようとしている。意外なことに、人生のピークは未だに続いている。 「──ほんとに続いてるって言える?」 「だって、別れようって言われてないし……」 「でもゲトウくんはもう終わってるつもりかもよ」 「夏油くんはそういうの有耶無耶にする人じゃないから。別れたいときは、ちゃんと言ってくれると思う」 「名前がそう思ってるだけじゃないの?」 そう言ってやっと携帯から顔を上げた友人に、「そんなことない、」と答えた私の声は、騒がしい昼休みの教室では自分でも驚いてしまうほど自信なさげに聞こえた。夏油くんに限ってそんなことは有り得ないと、心から思っているのに。 「じゃあさ、中学卒業してから何回デートした?」 「えっと……」 「『実習があって土日も忙しい』…だっけ? それって本当なのかな?」 今の学校にカノジョがいるんだよ、絶対。 友人はやけに自信たっぷりに言い切った。 高校に進学してから知り合った彼女がそういう発言をするのは、これが初めてのことではなかった。彼女は夏油くんのことをほとんど何も知らないのに、まるで知っているかのように断言してみせる。私はその都度、「夏油くんはそういう人じゃない」と否定するのだけれど、それでも彼女はあれこれ理由をつけて夏油くんを疑いたがった。 自宅から程近い高校に進学した私とは違い、都内のなんとかいう高専に進学した夏油くんは多くの実習やら何やらで忙しいらしく、しかも寮住まいときているから、ろくに会えてもいないのは事実だ。 けれど、だからこそ、あまり会えないお詫びにと偶のデートでは必ずプレゼントを用意してくれている。たとえば今、制服の下に隠すように身につけているネックレスもそのひとつだ。 それに、電話やメールのやりとりなら──多少頻度が減ってはいるものの──途切れることなく続いている。メールは私からすることの方が多いかもしれないけれど、電話なら夏油くんからしてくれることの方が断然多い。「なかなか会えなくてごめん」と謝る申し訳なさそうな声も、「名前の声を聞きたくなって」と笑う耳に心地良い声も、可笑しなところは何もない。毎日会っていた頃と同じ、夏油くんだ。 何より、浮気をしている人がわざわざそんなことをするはずがない。 「信じてる名前が素直すぎるんだよ。普通は浮気してるって思うよ? 実習が忙しいとかウソだよウソ。絶対浮気」 「だから、夏油くんに限ってそれはないんだってば」 「でもこの前のデート、ドタキャンされたって言ってたじゃん。実習が急に入るなんてあり得なくない? そういうのって普通、年度ごとにカリキュラムで決まってるものでしょーよ」 普通、と繰り返す友人に私は閉口した。 確かにカリキュラムについてはそうかもしれないけれど、それでも。 ──夏油くんは、ほかの男の子とは違う。 それは私たちの学年が三年間で得た共通認識であり、思い込みでも過大評価でもない純然たる事実である。そんなことも知らない、夏油くんを何ひとつ知らないで、夏油くんを『普通』の枠の中で語ろうとするなんて。それがどれだけ不毛なことか、彼女にはわからないらしい。 「どうせ『ゲトウくんは違うんだもん!』って言いたいんでしょ」 私の顔を見て、彼女は笑った。 「……そう思うなら夏油くんのこと疑うのやめてよ」 「私は名前を心配して言ってんの!」 「心配なんて──」 「名前がゲトウくんのこと大好きなのはわかるよ。だけどなんていうのかな、名前の話聞いてるといつも──言っちゃ悪いけど、宗教かなんかの話みたいに聞こえるんだよね」 「……は?」 「だーかーら、宗教!もしくは洗脳……トクベツシしすぎ、的な? 新興宗教にハマっちゃった人っぽいってゆーか?」 彼女は再び携帯に視線を落とした。けれど、その口が閉じられることはない。カチカチとメールか何かを打ち込みながら、「名前ってちょっと思い込み激しいとこあるから心配になるんだよねぇ」と呑気な口調で言う。 「ゲトウくんがどんだけ『良い人』なのか知らないけど、神様とかじゃないんだからさ。いくら名前が『ほかの人と違う』って思ってても、実際は普通の人かもしれないじゃん。嘘ついたり浮気したり、そういうことしてたって全然おかしくないと思うよ」 少しも悪気のない、躊躇いも遠慮もない声色だった。 何を言っても彼女は主張を変えないだろうということを確信して、私は何も言い返さなかった。 ▼ 秋風が吹く少し肌寒い夜、夏油くんから電話があった。 内容はいつになく簡潔で、聞いたことのない声音だった。 『今、名前の家の近くに来てるんだ。少し会えないかな』 嬉しいはずのその言葉は、初めて聞く声音のせいで素直に喜ぶことができず、慌てて外へ出た私の胸はときめきよりも名状し難い嫌な予感でいっぱいだ。 いつも柔らかく耳を打つ声が、どことなく硬く、重く、白々しく響くのを初めて聞いた。取り繕おうとして、しかし取り繕いきれずに漏れ出してしまったような、そんな調子だった。 ──いつだったか、何ヶ月か前に、夏油くんが「今年は凄く忙しくて、」と零したことがある。その言葉の通りこの数ヶ月はメールも電話もめっきり減って、思い切って私から連絡をしてもすぐに終わってしまうことが続いていて。先程の電話が、久しぶりに聞く夏油くんの声だった。 胸がざわざわする。 母にはコンビニへ行くと言い残して、家を出た。閑静な住宅街、あたりには人影がない。 私の家からほんの数十メートルのところにある小さな公園、そこに夏油くんはいた。 街灯くらいしか明かりがないせいなのか、それとも黒っぽい装いのせいなのか、ベンチに腰掛けた夏油くんの顔色は随分と悪く見えた。それに、最後に会ったときよりも痩せた──あるいはもしかして、窶れた──ようでもある。 私が声をかけると、夏油くんは片手を上げて微笑んだ。 「や、名前。……久しぶり」 「うん…久しぶり。夏油くん、少し痩せた? 顔色もあんまり良くないような…」 夏油くんの隣に腰を下ろす。近くで見ると、尚更その顔色の悪さが気にかかった。 「そうかな、今は元気だよ。少し前まで夏バテ気味だったから、痩せたのはそのせいかもしれない」 「そうなの? ……もし何か悩んでるんだったら、私、話を聞くくらいなら──」 「いや、気にしないでくれ」 「でも」 「話したとしても、君にはわからない」 決して強い口調ではなかった。ただ当たり前の事実をありのまま述べただけの口振り。それでも、突き放されたのに違いなかった。 一瞬、言葉に詰まる。なんとか「…そっか、」と声を絞り出すと、夏油くんは「気持ちだけ受け取っておくよ」と微笑む。 その柔らかな微笑みは、見慣れたそれと同じようで──どこか違う、ような。 『いつも』なんて言えるほど、会っていなかったことを思い出して、私は比較することをやめた。 その笑みが少しぎこちなく思えるのは、きっと辺りの暗さのせい。表情だけじゃない、声も口調も全て、いつもと違うように思えるのは私の受け取り方の問題だ。そうに決まっている。 風が夏油くんのハーフアップにされた髪を揺らして、今更のように彼の髪の長さに気がつく。こんなに夏油くんの髪が伸びていたこと、全然知らなかった。 私が次の言葉を探している間、夏油くんは何も言わずに私の顔を眺めていた。それがなんだか値踏みするような目に見えてしまって、胸騒ぎが大きくなる。 こんなときに限って、友人の言葉を思い出す。 絶対浮気、今の学校に新しい彼女がいるんだよ、ゲトウくんも嘘ついたり浮気したりするよ──違う、そんなことない。 けれど、もしも、夏油くんが何らかの理由で私と別れようと思ったなら。夏油くんは有耶無耶にはせずに、ちゃんと言ってくれるに違いないから。だから──だから、もしかして。 「……夏油くんが忙しいのって、いつまで?」 「うん?」 「凄く忙しいんでしょう? 私は全然大丈夫だから、自分のことを最優先してほしい。疲れてるときはちゃんと休んでほしい──」 夏油くんを心配な気持ちが半分。もう半分は、自分を『良い子』に見せたいという浅ましさ。 そんなものを見抜けない夏油くんではないはずだと思いながら、それでも打算的に言葉を選んでいる自分は、なんて愚かなんだろう。こんな私は夏油くんには相応しくない、けれど、別れを切り出されたくもない。 夏油くんは微笑みを浮かべたまま、静かに視線を逸らした。その瞬間、心臓が冷える心地がした。 「そのことなんだけど」 穏やかな声で、夏油くんは言う。いつもと同じような優しげな声なのに、そこにある感情をどうも推しはかることができない。 「この先ずっと忙しいんだ」 「ずっと?」 「そう。だから今日は、けじめをつけるつもりで名前に会いに来た」 けじめ。その言葉の意味するところを悟って、私は震えた。 嫌だ、その続きは聞きたくない。 けれど、夏油くんは静かな口調を崩さずに言葉を続ける。 「名前を好きだった気持ちに嘘はないよ。大事にしてやれなくて、本当に申し訳ないと思ってる」 私に言い聞かせているようでもあり、夏油くん自身に言い聞かせているようでもあった。 生温い( ・・・ ) 風が私たちの髪を乱していく。夏油くんは、私の顔にかかった髪をそっと指で払った。こんな話をしているときであっても、思わずどきりとする心臓がうらめしい。 やけに冷たい指先はそのまま私の髪を耳にかけ、輪郭をなぞって離れていった。 「今までありがとう」 そう告げた夏油くんの口元はゆるく弧を描いているのに、その眼差しには隠しきれない鋭さがあった。見透かすように、見定めるように、私の目を見つめている。 「夏油くん、」 再び強い風が吹いた。──生温く、腥( なまぐさ ) い風が。 まるでそれが合図であったかのように、夏油くんが立ち上がる。 「残念だよ、とても」 「夏油くん──」 私が慌てて立ち上がったとき、夏油くんは、ただ静かに微笑んでいた。 「──さよなら、名前」 ▼ 夏油は己の使役する呪霊を何の感慨も読み取れない表情で見上げた。 呪霊の口は醜悪に歪められている。その端にてらてらと光る赤いものは、名前の血に違いなかった。一口で頭から丸呑みにはしたものの、喉を通るときにでも潰れて溢れてきたのだろう。 呪霊がどれだけそばに寄ろうと、名前は何も気がつかなかった。名前は最後の最後まで、己の身に起こった出来事を何一つ理解できなかったに違いない。──そもそも彼女が理解できるような人間であったなら、夏油はこんなことをしなくともよかったのだ。 しかたのないことだった。名前は見えない側だったから。恋人だからといって特別扱いはできない。 呪霊がにたにた笑う。不揃いの歯に何かが引っかかっているのが見えた。夏油が引っ張ると、それは案外簡単に取れた。見覚えのあるネックレス。いつか、夏油が名前に贈ったもの。 赤黒く汚れたそれを、夏油は少しの間眺めていた。プレゼントしたときの名前の表情を思い出して──掻き消して。 ──恋人だからといって、特別扱いはできない。 しかし、夏油がこれからすることは、恋人だった名前に対するせめてもの優しさなのかもしれない。本当のところは、夏油自身にさえ解らないのだが。 ネックレスを無造作にポケットに突っ込んで、夏油は何事もなかったかのような顔で公園を出た。 閑静な住宅街、あたりには人影がない。先ほど起こった出来事も、これから起こる出来事も、ここに住まう者たちは誰一人として気がつかない。 夏油は迷いのない足取りで名前の家へ向かう。その背後に、嗤う呪霊を従えて。 200204/200218 title by 彼女の為に泣いた