未完成の感情を覚えていてね
◎ネームレス /
瞬きの中に棲む獣と同一夢主ですが、これ単体でも問題なく読めます
「《アルシム》」
そんな声が背後から聞こえると同時、昔馴染みの気配を感じる。振り返らずに「そこ、踏まないで」と声をかければ「俺に命令しないでください」と気怠げな声が返ってきて、けれど二秒後には、箒に腰掛けたミスラが目の前にいた。
私は少なからず驚いた。ミスラが目の前にいたことに、ではない。ミスラが箒に乗っていたことに、だ。自分で言っておきながら、まさか本当に踏まないよう配慮してくれるとは、これっぽっちも思っていなかったものだから。
ミスラは踏むなと言われた地面をじっと眺め下ろし、
「また何か植えたんですか?」
「……ええ。クロッカスの球根をね」
「へえ」
尋ねてきたからといってさほど興味があるわけでもなかったらしく、返ってきたのは気のない相槌ひとつだけだったが、それでも私は驚きっぱなしだった。いつものミスラなら、私が何を植えたかなんて一瞬たりとも気にしない。というよりも、私のすることや話すことに興味がないのだ。自分の言いたいことだけ言って、私の返事なんて聞いてもいないこともざらにある。
いったい今日は、どういう風の吹き回しだろう。そもそも、ミスラが一人でこの場所へやって来ることだって珍しい。
ここは、北の国と西の国の国境付近にある小さな花畑だ。二百年ほど前の厳寒の年、枯れゆく花を見兼ねて手入れするようになった。我が家からは少し離れているものの、私にとっては庭も同然の土地である。完全に枯れてしまった花はどうにもならなかったが、残った花から増やしてみたり、代わりに別の花を植えてみたり、この二百年私なりに慈しんできた。小さいながらも見応えのある花畑になったと自負している。
しかしどんなに美しい花も、花に興味のない者には雑草と大差ない。派手な草か地味な草か、ただそれだけの違いだ。ともすればその程度の違いさえ、ミスラにはどうでもいいことかもしれない。昔ミスラがチレッタとともにここを訪れたとき、「花なんて、食べてもお腹にたまりませんし……」とぼやくのを聞いた覚えがある。
そんなミスラがこの花畑を訪れる理由など、皆目見当もつかなかった。まさか花を愛でる趣味に目覚めた、なんてわけでもないだろう。
「ミスラ、あなた、何の用でここへ来たの?」
あまり期待せずに尋ねてみると、思いがけずすぐに答えが返ってきた。
「いるかなって思って」
「……私が?」
「はい。家にいなかったので、それなら、ここかなと思ったんですよね。なんとなく、気配も感じましたし」
ぽかんとした私に、ミスラは平然と「あなたは、この場所が好きでしょ」と言い放つ。何気ない言葉であるはずなのに、私はなぜだか追い打ちをかけられたような気分になった。
ミスラは私の家に寄って、私の不在を知り、私がこの花畑を好きだということを思い出して、私を探してここに来た──ミスラが言っているのは、そういうことだ。
私の留守中にミスラが家に上がり込んでいることならこれまでにも度々あったが、私を探しに来たことはただの一度もなかった。私がいそうな場所をミスラが考え、この花畑を思い出したなんてことも、にわかには信じがたい。
だって、まさかあのミスラが、『私の好きなもの』を心に留めていただなんて。
私は思わず「あなた、どうしちゃったの」と口にしそうになった。未遂に終わったのは、私より先にミスラが「どうぞ」と口を開いたからだ。
目の前に差し出された大きな手には、ころんとした球根が四つ。
「任務で行った町の人間に押しつけられた、……ええと、なんだったかな。なんとかっていう花の球根です。あなた、こういうのも好きでしょう」
「……え、ええ、そうね。好きよ」
「一つ食べたんですけど、いまいちだったので、残りはあなたの好きなようにしていいですよ」
「た、食べたの」
「やたらと渋くて、ボソボソしてました」
「そう……」
味の感想を求めたつもりはなかったし、球根の食感よりも花の名前のほうがよほど気になるが、これでもしミスラが花の名前を正確に覚えていたなら、私は本当に「どうしちゃったの!?」と叫ぶことになっただろう。
受け取った球根は、私の手の上ではやけに大きく見えた。先ほど植えたクロッカスの球根よりも二回り近く大きく、ずっしりとしている。
「……これ、どんな花が咲くの?」
「さあ」
「さあ、って」
「あれ。花の好き嫌い、ありましたっけ?」
「好きとか嫌いとか、そういうことじゃないのだけど……。まぁ、いいわ」
一言で球根といっても、花の種類によって、植え付けの時期、植え付ける深さや間隔などが異なる。だから訊いているのよ、なんて言ったところで、ミスラからこれ以上の情報が出てくることはあるまい。
飲み込んで「ありがとう」と言葉にすれば、ミスラは心なしか満足げな表情を浮かべる。驚きも戸惑いもまだ消えないのに、それでも私は、その表情から目を離せなくなってしまった。
……不覚にも、可愛らしいと思ってしまったので。
231118 / 231119
title by 花鹿
親愛なる朝寝さんへ捧げます