ふたつの心に傘ひとつ



 差しかけられたその傘には大きな穴が空き、骨組みの一部は不恰好に折れ曲がっている。
 たぶん、雨粒の半分も防げていなかった。


 ◇ ◇ ◇


「シノ! 濡れちゃいますよ」

 駆け寄ってきた賢者が差しかけた傘はごく普通の、しかし立派でちゃんとした傘だ。一瞬前までシノの頬や肩をしっとりと濡らしていた雨が、傘の上を静かに滑り落ちていく。

「このくらいの雨、なんてことない」
「確かに小雨ですけど……体は冷えるでしょう? 風邪を引いたら大変ですよ」

 早く魔法舎に戻りましょう。そう促して歩き出した賢者の手は、眩しく思えるほど白かった。汚れを知らなそうな指先が、傘の柄をしっかりと握りしめている。
 何かを言おうとしたはずのシノの口からは、気持ちに反してうまく言葉が出てこなかった。隣に並んだ賢者の左肩が濡れていることに気づいたせいかもしれない。一本の傘に二人で入っているのだから多少はみ出してしまうのは無理もないことだろうが、それにしたって賢者は傘をシノのほうへ傾けすぎなのだ。
 シノは言葉の代わりに傘の中棒を押した。自分は濡れても構わない。『雨が降れば濡れる』というのは当然のことだし、慣れてもいる。しかし、シノを濡らさないために賢者が濡れるというのはおかしい。決定的に間違えているような、そんな気分になる。
 傘を押された賢者がもう一度傘を傾けようとしたので、シノは傘を奪い取ると有無を言わさず賢者のほうへ傾けた。「あっ」と小さな声がして、白い手は宙を泳ぐ。シノの頬や首筋が再び冷たいものを感じたが、それでよかった。
 賢者は手を下ろさない。かといって傘を奪い返すこともしない。うろうろと彷徨っている白い手を横目に、シノは記憶の奥底にある震えた手を思い出していた。
 夕立に霞む町外れ。あのとき見た手も同じように白かったし、同じようにシノに傘を差しかけた。しかし、賢者のそれとはまるで違った。
 手が白く見えたのは、ただ血色が悪いだけ。指先は汚れや傷が目立つ。握っていたのは、いったいどこから拾ってきたのかというようなボロ傘だった。胡乱げに見やったシノに、傘の持ち主たる少女はかすかに強張った笑みを浮かべた。

「いっしょに入ろ」

 少女はその頃のシノよりも背が高かったが、歳の頃はあまり変わらないように見えた。薄汚れた服の裾から覗く手足は、シノの力でもへし折れそうなほど細い。自分と似た境遇の子どもだろうことは一目でわかった。
 シノが何も答えないのをいいことに、少女は距離を詰めると隣に並んだ。穴は空いているわ形は歪だわ雨粒の半分も防げそうにない傘なのに、案外濡れない。意外に思ったシノが見上げれば何のことはない、傘の比較的マシなほうがシノの頭上にあるというだけのことで、ボロのほうにいる少女はほとんどずぶ濡れになっている。
 シノの視線に気がついた少女は、なんでもないような顔で言った。

「ボロだけど、ないよりいいでしょ?」

 青白い頬には濡れた髪がへばりつき、肩のあたりからすっかり色の変わった服は重そうだった。

「……こんなボロ傘、あってもなくても同じなんじゃないのか」
「そうでもないよ」

 たしかに一人で使う分には、『そうでもない』のかもしれない。今は二人で入っているから──縁もゆかりもないシノなんかに差しかけているから、いけないのだ。傘を差しながら少女は馬鹿みたいに濡れている。
 妙に胃のあたりがむかむかした。昨日から何も食べていないせいだろうか。

「じゃあ、ひとりで使えばいい」

 シノが傘から出ようとすると、少女は「なんで」とシノを引き止めた。傘を持つ手を慌てて少し離れたシノのほうへ伸ばしたことで、少女の体はもう半分以上傘の外にある。

「わたしの傘だよ。使い方はわたしが決める。いっしょに使おう」

 少女は空いている手でシノの腕を引いた。少女の手は雨に濡れて冷え切っていたが、シノの腕も負けず劣らず冷えていて気にならなかった。
 流されるようにもう一度二人で傘に入り、雨が弾かれる音を聴く。相変わらず傘のボロのほうは少女の頭上にあって、少女だけが濡れている。今度は胸のあたりがざわざわするのを感じたが、シノにはその理由がよくわからなかった。

「あんたの傘なら、あんたが濡れないようにするべきだ」
「ううん、これでいいんだよ。わたしのほうが、きみよりお姉さんだと思うから」

 さも当然だという顔で言い、彼女は少し笑った。それはシノに傘を差しかけたときよりも、幾分柔らかい笑みだった。

「──シノ?」

 賢者に名前を呼ばれはっとする。いつの間にか魔法舎はもう目の前だ。

「考え事ですか? それとも、具合が悪いとか……」
「なんでもない。具合も悪くない」
「無理はしないでくださいね」

 傘を閉じて魔法舎の中に入る。賢者に傘を返しながら、やっぱり立派でちゃんとした傘だと思った。いつかのボロ傘とは比べ物にもならない。
 雨脚が強くなり、窓の外は白く煙り始めている。あのときの少女は今どこで、何をしているのだろう。生きている保証はない。生きていても、死んだほうがマシだと思うような日々を過ごしているかもしれない。しかしどこかでシノのように、立派な誰かに拾われているかもしれない。
 現実はそう甘くないとシノは知っている。誰の目にも留まらないとしても、野垂れ死ぬ子どもや虐げられる人間は掃いて捨てるほどいるのだ。けれどそんな現実の中でも、たぶん庇護や愛を知っていたあの少女は、どこかで立派な誰かに救われてもいいはずだと思う。綺麗な服を着て立派な傘を差し、誰かの心配をするくらいがお似合いだ。たとえば今、濡れたシノの心配をしている賢者のように。

「なあ、賢者」

 シノが呼びかけると、拭くものを取りに行こうとしていた賢者が足を止めて振り返る。その手に握られた傘を見つめながらシノは尋ねた。

「名前も身分も肩書きも知らない顔見知りを見かけて、そいつを呼び止めたいときは、なんて呼びかけたらいいと思う」


 ─・─・─・─・─


 人のものをとってはいけない。落とし物を拾ったら、速やかに役人に届けなければならない。たとえそれがガラクタでも、ガラクタならガラクタとしてきちんと然るべきところへ届けること。
 まだ両親と暮らしていた頃、そう教わった。法典で決められているのだと。
 けれど独りになって見知らぬ土地で生きるようになったわたしは、拾ったボロ傘を誰にも届けなかったし、自分のものにした。決まり事などどうでもよかった。
 わたしを守ってくれなかった法典など、守る義理を感じなかったので。


 ◇ ◇ ◇


 しとしと、静かな雨が足元を濡らす。
 買い物をしている間に傘を盗まれた。しかたがないから、濡れながら歩いている。昔は雨が降るたび濡れ鼠だったことを思えば、この程度、どうということもない。煩わしいのはむしろ、行き合う人が不審そうな、あるいは不憫そうな目を向けてくることのほうだ。
 目の前から歩いてきた少年も、連れらしい青年との会話を途切れさせてこちらを見た。夜空の色をした前髪の隙間から、意思の強そうな赤い瞳が覗いている。
 私は顔をそむけて、さっさと隣を通り過ぎようとした。けれど、できなかった。
 少年が行く手を遮って、私に傘を差しかけたからだ。

「あんた、あのときの『お姉さん』だろ」

 生きてたんだな、と少年は言った。私のことをつま先までまじまじと見下ろし、それから「傘は?」と首を傾げる。
 その頃には私も、目の前の少年の髪の色や瞳の色が、いつの日か相傘をした男の子と同じだと気がついていた。
 私が拾ったボロ傘に二人並んで入った、小柄で痩せぎすの男の子。名前は知らない。私は名乗らなかったし、あの子も名乗らなかった。
 あの日私を見上げていた瞳は、今は私よりも高い位置にある。きちんとした身なりをしていて、何より、健康そうだった。

「……そんなに傘を傾けたら、きみが濡れちゃうよ」
「これくらい濡れたうちに入らないし、この傘の使い方はオレが決める。オレの傘だからな」

 覚えのある台詞に私が笑うと、少年もかすかに表情をゆるめる。
 生きてたんだね、きみも。先程少年が言ったのと同じ言葉が胸の内に生まれて、音にならずに消えていった。


220716
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