また会う日まで



 ヒースクリフ・ブランシェットには忘れられない人がいる。
 ……そんなふうに言うと、惚れた腫れたを想像されてしまうかもしれない。しかしそういう、甘酸っぱい話ではないのだ。揶揄われると恥ずかしいから誰にも──シノにさえ話したことがない。
 その人は、ヒースクリフがまだ四つか五つの頃にいた、住み込みの家庭教師の一人だった。おそらく、ブランシェットには一年もいなかったと思う。ある日突然両親が連れてきて、ある日突然去っていった。せいぜい二十歳かそこらに見える若い女性だったが、妙に落ち着きのある物静かな人で、どこか春の雨に似ていた。
 無愛想とはいわないまでも、あまり他人と交わらず、自分のことをほとんど話さない。自室に籠もっていることの多い人だったから、そんな彼女を不気味に思う使用人もいたようだけれど、少なくとも、ヒースクリフにとっては「好きな先生」だった。
 たとえばヒースクリフがうまく話せなくても、彼女は決して急かしたりせず、ほかの家庭教師がする「困ったような顔」や「とりなすような顔」もしない。問いに正しい答えを返せたときや何かを上手にできたとき、ほかの家庭教師なら大仰に褒めそやすけれど、彼女はただ静かな言葉と穏やかな微笑みで褒めてくれる。彼女のそういうところが、ヒースクリフには好ましかった。
 ただ、具体的に何を習っていたのかは不思議とうろ覚えだ。読み書きだったような気もするし、社会情勢だったような気もする。歴史書を噛み砕いて読んでもらったような覚えもあるのに、彼女がキャンバスに晴空の色をのせるのを見ながら絵筆を握ったような記憶もあるのだから、よくわからない。
 ただ、はっきりと覚えていることもある。

「軽々しく約束をしてはいけませんよ」

 彼女はよくそう言っていた。
 一度、「どうしてですか」と尋ねたとき、いつもなら質問には丁寧な答えを返してくれる彼女が僅かに言い淀み、眉を下げた顔で「どうしても」と答えた。

「特に、守れない約束は絶対にしてはいけません。ヒース坊ちゃんに限っていい加減に約束するようなことはないでしょうけれど、約束というのはとても『重い』ものなのですよ。よく考えてから、本当に大切な人とだけするもので……あぁ坊ちゃん、いけませんよ、それ以上言っては。これもまた約束ではないのです。坊ちゃんは、私の言葉を記憶の片隅に留めておいてくださればいい。本当の意味がわかるときまで」

 ──彼女の言ったことが、今のヒースクリフにはわかる。そして、思うのだ。彼女は、魔女だったのだろうと。
 彼女はブランシェットを去るとき、人目を憚るように、あっという間にいなくなった。どうやら雇い主であるブランシェット夫妻を除いて、誰にも挨拶をしなかったらしい。ヒースクリフにも、だ。彼女は皆が寝静まる時間にそっと出ていったのだと両親から聞かされた頃には、すでに陽は高く昇っていた。
 ──それなのに、ヒースクリフには彼女を見送った記憶がある。
 もしかしたら夢だったのかもしれない。しかし、それにしてはやけに鮮明なのだ。
 そのときの彼女は、月明かりに青白く照らされていた。

「あらあら、見つかってしまいましたね」

 呟いた顔には、見慣れない苦笑が浮かぶ。

「少し顔を見るだけのつもりでしたけれど……まぁ、お別れを言えるからよしとしましょうか」
「おわかれ?」
「えぇ。さようならです、ヒース坊ちゃん」
「えっ! どうして、ですか」
「どうしても」
「……あしたの、授業は?」
「ほかの先生がしてくださいます」
「…………いやだ」
「坊ちゃん、そんな顔をなさらないで。坊ちゃんが会いたいと思っていてくれるなら、そのうちどこかで会えるかもしれません」
「……ほんと?」
「本当。再会の約束はできないけれど、あなたに名前を呼ばれたら、私はきっと振り向いてしまうでしょうから」

 ──また会う日まで、お元気で。
 彼女はそう言い残して、姿を消したのだ。


* * *


 のちにシノと約束を交わしたときも、彼女の言葉を思い出さなかったわけではない。ただ、その意味を正しく理解できたのはもっとあとのことだ。
 せっかく忠告してくれていたのに。そう思うと、罪悪感がちくちくとヒースクリフの胸を刺した。合わせる顔がない。……ないけれど、もう一度会えたらいいなとも思う。
 あの人はきっと魔女だ。あの人が師匠だったらよかった。そうしたらきっと、こんなふうに蟠りの残る約束をしないで済んだのに。──もしもあのとき、「行かないで」と縋っていたら。


 賢者の魔法使いに選ばれ、たくさんの魔法使いと出会うようになってから、ヒースクリフはますます彼女のことを思い出すようになった。
 中央の市場、城下町、任務で赴いた村──行き交う人の中に彼女を探してみる。しかし、ヒースクリフが覚えている外見はさほどあてにならない。彼女が力の強い魔女だったなら、外見どころか性別だって変えられる。何か彼女の気配の宿った物でもあれば探しようもあったかもしれないけれど、彼女は物どころか髪の毛の一本さえ残していかなかった。
 やはり、もう一度会うなんて無理だろうか。そもそも彼女が再会を望んでいないとすれば、ヒースクリフには打つ手がない。
 
 シュガーを卸した帰り道、彼女と同じ色の髪を女性とすれ違う。顔立ちは似ても似つかない。
 ──魔法舎に帰ったら、ファウスト先生に相談してみようかな。
 もしかするとそれらしい人物に心当たりがあるかもしれないし、ヒースクリフの知らない人探しの魔法を教えてもらえるかもしれない。ファウストなら、むやみに揶揄うこともしないだろう。
 ただ、いつ、なんといって切り出せばいいのか。ヒースクリフは悩んだ。先生の迷惑にならないだろうか。
 考えているうちに険しい顔をしてしまっていたのか、隣を歩いていたカインに「どうした?」と顔を覗き込まれる。

「なんでもないよ」

 苦笑してそう答えたとき、カインの肩越しに──彼女が見えた。
 後ろ姿しか見えない。それなのに、彼女だ、と思った。

「あ……待って!」

 驚いたカインに事情を説明している暇もない。遠ざかろうとする背中をヒースクリフは夢中で追いかけた。
 ──待って、行かないで。
 名前を呼ぶ。彼女が足を止める。
 もう一度、名前を呼ぶ。
 振り向いた彼女は、ヒースクリフが覚えているのと同じ調子で「あらあら」と呟いて、苦笑を浮かべた。

「そんな顔をなさらないで、坊ちゃん」

 自分が今どんな顔をしているのかヒースクリフにはわからなかったけれど、それはどうだってよかった。目の前にいるのが、間違いなく彼女だから。 

「ね、また会えたでしょう」

 そう言って微笑む彼女に、ヒースクリフははにかんで答えた。

「はい。……会いたいと、ずっと思っていましたから」


210602 / 210616
Twitter再録(画像化の際に削った部分を足してます)
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