空虚はあなたのかたち




※14巻ネタバレ有
※とても短い


 七海が呪術師をやめたとき、実を言うと私は心の底からホッとした。これで七海は綺麗に死ぬことができるのだと思ったからだ。
 一般人になった七海はこれから普通に働いて、普通に家庭を持って、普通に老いて、普通に死ぬ。ありふれた暮らしをありふれた死で締めくくり、五体満足のまま灰になる。
 呪術師として生きてきたら手が届かない『よくある死』を、私よりずっと長く生きた後に迎えるのだと、そう信じた。

 ──それなのに、ねえ、なんで戻ってきちゃったかな。しかも、合鍵なんか預けていきやがってさ。

 家主が二度と戻らない部屋は、まだ彼の生活の気配がする。
 落ち着いた色のカーテン、きちんと並べられたリモコン類、よく整理された本棚。テーブルの上に一冊だけ置かれた本には見覚えのある栞とブックカバー。シーツは少しシワが寄っていて、冷蔵庫のミネラルウォーターはまだ三分の一くらい中身が残っている。
 さほど物が多い部屋ではないのに、至るところに彼の面影が見えるから、私はひとり途方に暮れた。
 家族でも恋人でもない、ただ同級生だっただけの私にこの部屋の鍵を預けたとき、七海はいったい何を考えていたのだろう。引き出しに入っていた遺書は、手帳に挟まれていた私宛のメモは、いつ、どんな気持ちで用意したのだろう。


「もしものときは、よろしくお願いします」
「なんで私? 同期のよしみ?」
「……そのようなものです」
「じゃあ、私のもしものときもよろしくね」


 あのときの私は、『もしものとき』が先にくるのは私のほうだと思っていた。だって、七海と私だ。学生時代の成績を考えれば、比べるまでもない。
 なのに、どうして。
 答えのない問いかけを、誰にともなく繰り返す。
 これから私は、この部屋に残る七海の痕跡を消していく。『部屋の片付け』なんてていの良い言い方をしたところで、まるで私が七海をもう一度殺すみたいだという思いは拭えない。私が頼まれているのは、とどのつまりそういうことなのだ。
 折り目のついた真っ白な紙に並ぶ、少し角張った七海の字が滲む。
 こんなことなら戻ってこないでほしかった。
 私より先に逝かないでほしかった。
 それはまるで恨み言のようで──「違う、」思わず口をついて出た。私は、七海に恨み言を言いたいわけじゃない。
 深く深く、息をする。駆け巡る言葉を肚の中に押し込める。
 ──きっと、七海はただ、七海らしい選択をしただけだ。
 私がどれだけ割り切れないとしても、七海の生き様にけちをつけたくはない。
 七海の遺した言葉がこれ以上滲まないように、私は顔を上げた。私がまだ言えそうにない労いも賞賛も、きっと向こうで灰原が伝えてくれているだろう。
 袖で目元を拭う。それでも溢れてくるから、また拭った。『あまり、強く擦らないほうが』──昔、七海に言われたことを思い出す。

 鼻をすすると、七海の匂いがした。


210114/210207
title by エナメル
ツイッター掲載SS
ほんのちょっと加筆しました
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