覚る幸福のせつな



※「雨のみぞ知る」の続き


 長く生きていれば、別れや喪失はほかの何より付き合いの長い隣人となる。過ぎゆくもののことはどうしたって忘れてしまうから、今覚えている以上に多くの別れを、私は経験してきたはずだ。
 しかし、別れや喪失の経験が増えることと、それらに慣れることは、全く別のものだということを今更ながらに思い出した。


 彼の店が無人になる、つい三日前だった。私が最後にあの店へ行ったのは。
 その日もいつものように、彼と少し会話をした。店を畳むだとか場所を移すだとか、そんな話は一言もしていなかったはずだ。「良い赤のガロン瓜が入ったんですよ」と言った私に、「取り置きしといてくれ」なんて笑ったその声の、冗談めいた調子をよく覚えている。
 それなのに、彼の姿は街のどこにも見当たらない。
 最初は、急な里帰りをしなければならなくなったのか、遠方へ仕入れにでも行ったのかと考えた。けれど、ひと月が過ぎても彼は戻ってこなかった。ふた月が過ぎる頃には、きっともう戻って来ないのだろうと考えるようになった。
 彼の店の前を通るたびに抱いていた「今日は戻っているかな」という淡い期待も、いつしか「今日こそ店が差し押さえられているかもしれない」という不安に変わった。
 人目を気にしながらこっそり埃を払う呪文をかけて、蜘蛛の巣を取り払っては、自分はいったい何をしているんだろうと落ち込む。そういう日々の中で食べる自分の手料理は、ただ味気ないなんてものじゃなく、驚くほどなんの味もしなかった。もしかするとぼんやりして調味料を入れ忘れていたのかもしれないし、上の空のまま飲み込んでいたせいなのかもしれない。
 とにもかくにも、おいしくない。おいしくない食事をスープで流し込むたび、彼の手料理が食べたいと、強く思う。




 自分でいうのもなんだが、私の店は品揃えがいい。食材から雑貨まで幅広く取り扱う。──たとえばそう、魔道具や魔法生物由来の品も。
 普段は人間のフリをして人間の客を相手に商売をしているが、実をいえば、魔法使い向けの商売が私の本業だった。店は建物自体が魔法仕掛けで、裏口のドアノッカーを魔力を込めて特定のリズムで叩くと、隠された部屋への入り口が開く仕組みになっている。
 近頃は客をこれまで世話になった魔法使いや魔女に限っていることもあって、客足は決して多くない。一週間に一度も裏口がノックされないなんてこともザラだ。それでもひと月に一度は顔を出してくれる馴染みの客が何人かいるし、出張販売なんかもやっているから、商売として成り立っている。
 馴染みの客の中には、結界を増強してくれたり魔道具を譲ってくれたりする親切な者もいる。南の国でもないのに珍奇なことだが、魔力の弱い私にとっては、ありがたい話だった。

 久々のノックを聞いて隠し部屋へ入ると、二人の魔女が私を出迎えた。
 客の中でも特に付き合いが長いこの二人組は、私よりも遥かに年長であることと生来の性格が相まって、私に対してこれっぽっちも遠慮がない。店主が不在だろうがお構いなしに、商品を見て回っていたようだった。その自由な振る舞いをいつものことと笑える程度には、信用を置いている常連である。
 私が彼女たちの背に「いらっしゃいませ」と声をかけると、二人は振り向いて「こんにちは」「お邪魔してるわ」と笑みを浮かべた。

「ねえ、マンドラゴラの根って今日はこれだけ?」
「ええと、どうだったかな。倉庫を見てきましょうか」
「あぁ、そこまでしてもらわなくて大丈夫よ。それより、あなた少し窶れた?」

 魔女がそう言うと、その連れの魔女も、「私もそう思ってた」と口を挟んだ。

「ちゃんと食事は摂ってる?」
「ええ、まあ……」
「なぁに、煮え切らない返事。好き嫌いしないでちゃんと食べなきゃだめよ」
「魔力が強い魔法使いならまだしも、あんたくらいの魔力だと、食事を疎かにするのは良くないよ。人間みたいに、飢えて死にたくないならね」
「とりあえずほら、シュガーでも食べなさい」

 ほらほら、と二人が差し出した形の良いシュガーを、お礼を言って受け取った。
 この二人、確か西の国や南の国を転々としてきたのだったか。東の魔女にしては少々お喋りでお節介なのも、そうと知っていれば頷ける。

「ひと月前に会ったときは、もっと健康的な顔だったじゃない。何かあったの?」
「失恋でもした?」
「いいえ、そういうのじゃなくて。いきつけのお店が閉店してしまって、それで少し、食事が疎かになってしまったといいますか」
「自炊しないの?」
「しないこともないですが、下手くそなので」

 苦笑して答えると、「もしかして」ともう一人が口を開く。

「行きつけの店って、ネロの店?」
「え、ええ、そうです。ご存知ですか?」
「そりゃそうよ。店に入ったことはないけど、この街の魔法使いなら、ほとんどみんな知っているでしょう?」
「魔法使いがやってる店なんて、この国じゃそう多くないしねぇ」

 思わずぽかんとすると、二人の魔女もぽかんとして私を見つめ返した。もしここにほかの客がいれば、そのひとはきっと私たちの間の抜けた顔を見て笑わずにいられなかっただろう。

「……………今、魔法使いって言いました?」
「ええ」
「ネロさんが?」
「そうよ、他に誰がいるの?」
「まさか、気づいてなかったの?」

「信じられない!」と声を揃え、二人は目を丸くした。

「魔力が弱いと、目の前にいるのが魔法使いかどうかもわからないものなの?」
「私が特別に鈍いんだと思います……お恥ずかしい……」
「それでよく今まで一人でやってこれたわね」

 呆れたように言われては、縮こまるしかない。苦し紛れに、受け取ってから手のひらに乗せたままだったシュガーを口に放り込んだ。優しい甘さが口に広がる。

「彼は何も言わなかったの?」
「……何も」
「気づいてると思って何も言わなかったか、あんたが気づいてないことに気づいたから何も言わなかったのか……」
「そもそも彼、踏み込んでくるタイプじゃなさそうだものね」
「それは……そうですね」
「ってことはもしかして、彼が賢者の魔法使いに選ばれたって話も知らない?」

 今度は、ぽかんとしたのは私だけだった。二人の魔女は、「やっぱり」と笑うだけ。
 この街で噂話はご法度だが、それはあくまで人間が作った人間の為の規則だ。魔法使いが、人間の目のないところでまで律儀に守ってやる道理はない。
 ぽかんとしたままの私に、彼女たちは「友人から聞いたんだけど」と詳細を教えてくれた。その友人というのももちろん魔法使いで、中央と東を頻繁に行き来しているらしい。
 いわく、先日中央の国で盛大に執り行われた新たな賢者の魔法使いのパレードに彼がいたのだという。揃いの、白い立派な衣装を身に纏って。それを目撃した魔法使いは、この街にも度々訪れていて、ネロという名の魔法使いが雨の街にいることを以前から知っていた。だからこそ、パレードを見て驚いた、と。

「みなさん情報通なんですね……」
「まぁ、あんたよりはね?」
「あなた、仕事であちこち飛び回ってるわりに疎いわよねえ」

 まったくその通りだ。中央の国へも、つい最近行ったばかり。けれどもあちらの国は人が多いわ活気がありすぎるわで、いつものように最低限の用事だけ済ませてそそくさと帰ってきてしまった。
 私が苦笑で誤魔化そうとすると、彼女たちは笑みを深めて、「今年の賢者の魔法使いたちは、中央の魔法舎に住み込みで働くんですって」「中央に行けば彼に会えるかも」と続ける。

「別に、会いたいわけじゃ……」

 ない、と断言すればきっと嘘になる。しかし、肯定するのも憚られた。
 彼に会いたいのか、それとも彼の手料理を食べたいだけなのか、私自身が測りかねている。前者ならともかく、後者であれば『食い意地の張った厚かましい奴』と思われかねない──否、どちらにせよ彼にとっては、ただの迷惑かもしれない。

「会いたいんじゃないの?」

 穏やかな声で問われて、私はゆるく首を横に振った。

「よく、わからなくって」
「会えばわかるかも」
「……どうでしょう。私、鈍いし」
「とにかく、一度行ってみたら良いんじゃない? 」
「中央へ?」
「そう。それで彼に会えたらラッキーだし、会えなくても、何か美味しいものでも食べて帰ってきたら良いと思う。今のままじゃ、そのうち心まで窶れちゃいそうだから」

 美味しいものと聞いて真っ先に思い浮かんだのは、彼の作ったクリームシチューだった。彼女が言っているのはそういうことじゃないとわかっているのに、それでも彼の料理しか思いつかない。
 私の胃袋は、自覚している以上に彼の虜だったらしい──そう思ったら、少し笑えた。




 中央の国の市場は相変わらず人が多くて、目眩がしそうだ。

 彼女たちに言われたからというわけではなく、仕入れの都合で中央に来た。そのほかの意図なんてない。本当に。
 誰にともなく心の中で言い訳をしながら、賑やかな市場をうろうろしている。人に酔いそうなくせに、帰る踏ん切りがつかないのは、彼と会えることを心のどこかで期待しているからなのだろうか。
 人の少ない南の国ならともかくも、ここは中央の国だ。しかもその中心部。ただでさえ人口が多いのに、交易も盛ん、地理的な理由もあって、他のどの国よりも人の行き来が激しい。こんなところで“偶然”知り合いと出会すなんて、そんな都合のいいことが起こるはずない。
 ──だというのに、いったい私は何をしているんだろう。あてもなくふらふらしていたって、時間を無駄にするだけなのに。
 お喋りな魔女たちに勧められた通り、何か食べて帰ろうか? そう考えてみても、今は食事をするような気分ではない。
 やっぱり、早く帰ろう。もう用は済んでいるのだし。
 この街は人が多すぎて、いるだけで疲れてしまう。ぼんやりしていれば、後ろからやってきた男と肩がぶつかった。
 
「すみません──」

 よろめきながら慌てて謝ったが、男は振り向きもせずに行ってしまった。──私がぼんやりしていたのも良くなかったけれど、ぶつかってきた男にだって非があるだろうに。無愛想な男だな、とその背中を見送っていれば、「ちょっと待ちな」と耳に馴染む──少し懐かしい声がした。あっ、と声を上げる間もなく、人混みの中から現れた“彼”が、私にぶつかっていった男の左手を捻りあげる。

「なっ、何をするんだ! 放せよ!」
「返してくれたら放すよ」

 男は大きな舌打ちをした後、何かを彼に渡して走っていった。
 間抜けに突っ立って眺めていた私のところまで、彼が歩いてくる。ぽかんとしている私の顔を見て呆れたように笑う顔が、やけに懐かしい。

「くれてやるつもりだった?」

 なんのことか尋ねようとして、彼が私に差し出している物が私の財布であることに気づいた。「えっ!?」思わず大きな声を上げた私は、きっと今日この街で一番間が抜けていたはずだ。
 彼の呆れが濃くなって、小さなため息が聞こえた。

「いつの間に……」
「さっき追い抜きざまにぶつかられたとき」
「さっき……。見てたんですか?」
「あー、まぁ。見てたというか……見えてたというか……」
「ありがとうございました…!」

 彼が見ていてくれなかったら、私は帰宅するまで財布がなくなっていることに気がつかなかったに違いない。深々と頭を下げると、すぐ頭上から「あーいいよ、そういうのは」と声がする。少し気怠げな、どこか困ったような声音だ。

「ただあんた、もう少し気をつけたほうがいいぞ。ここは特別治安が悪いってわけじゃないが、雨の街に比べりゃ物騒なんだ。一人でボーッとしてると、さっきみたいな奴に目をつけられる」
「はい……ネロさんが偶然居合わせてくださって良かったです……」
「どんな偶然だよって感じだけどな。偶々見かけた顔見知りがその瞬間に掏られるって」

 彼は苦笑を浮かべたが、まるで数ヶ月前の続きのように彼と話せるのが私は嬉しかった。彼の抱えている袋の口から覗いているのが、新鮮そうな食材ばかりであることも。嬉しくて、妙にホッとして、心が浮き立つ。
 ──結局のところ、私は彼と会いたかったのだ。
 会えたからといって、どうというわけでもない。お互いにただ“店主と常連客”というだけの関係で、そのほかには何もないのだから、私たちの再会はこれで終わりだ。
 それでも──良かった、と思う。
 財布を掏られていなかったら、こうして話せなかったのかもしれない。そう考えると、あのタイミングでぶつかってきた男に感謝の念すら抱いてしまう。……もちろん、とても口にはできないことだけれど。
 
「仕入れの途中だったんだろ? 気をつけて帰れよ」

 そう言って踵を返そうとする彼は、いつ通りなようでいて、いつも以上に慎重に“距離”を測っているようにも見えた。
 そんな彼を引き止める言葉を、私は持っていない。いや、たとえ持っていたとして、口にする勇気が私にあるかどうか。少なくとも彼がそれを望むことはないだろう。
 どうせ会えないと思っていたのに会って話ができた──それで十分じゃないか。
 大人しく「はい」と頷いて、最後にもう一度感謝を伝えようとしたとき、人混みから現れた黒髪の少年が彼の名前を呼んだ。「ネロ!」

「誰だ、知り合いか?」
「ん、まぁそんな感じ」

 少年が歩いてくる。宝石のように赤い目が、じっと私を見つめた。値踏みでもされているのだろうか。
 彼の連れならば挨拶くらいしておくべきかと会釈をすれば、ふうん、と遠慮のない声が聞こえてくる。「魔女か」

「こら、シノ──」
「ああ、いいんです。これだけ賑やかなら、周りの人間は誰も聞いていないでしょうし」
「……あんた、俺が魔法使いだって気づいてなかっただろ」
「それは……すみません、鈍くて……」
「いや、別に謝られるようなことじゃねえけど……」

 目がすっと逸らされる。彼が困っているときの癖だった。
 気づかずにいたほうがよかったですか──浮かんだ問いは、声にならないまま沈んでいく。彼が言葉を濁したなら、その先へは踏み込むべきではない。
 私が彼を人間だと思い込んでいたのも、彼が私を魔女だと気づいている素振りを見せなかったのも、ひとえに彼が常に一定の距離感を保っていたからだ。どんなに気安く会話をしていても私たちの間には必ず見えない線があって、どちらからともなく引いたその線を、彼は絶対に飛び越えてこなかった。法典の抜け穴を通り抜けてきたのも、初めて会ったあのとき一度きりだ。
 彼は触れられたくないことには触れないし、触れさせない。だからこそ彼との会話が気楽だったのだろうと、今ならわかる。
 言葉を探していると、少年が私の顔と彼の顔とを交互に見やって口を開いた。

「なぁネロ、そいつ、魔法舎に連れていこう」
「え?」

 二人分の困惑の声が揃っても、少年はまったく意に介さない。顔色ひとつ変えないまま、すらすらと言葉を続けていく。

「オレにはよくわからないが、何か積もる話があるんだろ。だったら魔法舎に連れていって、何か食いながらゆっくり話をすればいい。レモンパイがいいな。食べたい」
「それ、お前の都合じゃん……」
「腹が減ったんだ」

 少年は明け透けにそう言った。そのきっぱりとした口調は、いっそ清々しくもある。
 そう思った瞬間、まるで少年に同調でもするかのように、くう、と私の腹の虫が鳴いた。空腹を覚えたのなんていったいいつぶりか──いや、なんて間の悪い。にわかに顔がかっと熱くなった。

「ほらネロ、そいつも腹減ってるって」
「そんなことは」
「なくないだろ。腹が鳴ってた。あ、また鳴った」
「わかったからシノ、そのくらいにしとこうな」
「よし、」

 宥めるように彼が口にした『わかった』を、シノはどうやら言葉通りに受け取ったらしかった。納得したように頷いて、私の顔を覗き込む。

「あんた、魔法舎の場所は知ってるのか」
「知らないけど……」
「じゃあ、逸れないように俺たちの後をちゃんとついて来いよ」
「えっ」
「安心しろ。俺は案内が得意だ」

 少年はなぜか誇らしげに言う。そういう問題ではないのだが、反論する間もなく「早く行こう」と急かすので、私は思わず彼の顔を見上げた。予想に違わず彼は困ったときの顔をしている。
 私のほうから退かなければいけない──そうでなければ、彼をますます困らせてしまう。けれども、目の前の少年を上手く断る言葉も思いつかない。

「ええと……」
「……とりあえず、来れば?」
「えっ」
「腹、減ってるんだろ」
「それは、その、まぁ……。この街でも、商売されてるんですか?」
「いや、そうじゃねえけど……取り置き頼んだガロン瓜、結局買いにいけなかったからさ。その分のお詫びってことで」

 気まずそうな表情で言葉を選んでいる様子に、ふと、初めて会ったときのことを思い出した。理由もなく手を取れないとき、彼は当たり障りのない理由を見つけてくれる。

「お詫びだなんてそんな ……でも、その……魔法舎は、部外者が行っても平気なんです?」
「ネロの知り合いなら問題ない」

 なぜか自信満々にシノが断言する。その言葉を聞いた彼は僅かに苦笑したようだったが、否定はしなかった。

「で、どうする?」
「……ご迷惑でないのなら、」

 あなたの作るものをもう一度食べたい。
 会えただけで満足だとも思ったけれど、本当はずっとずっと恋しかったのだ。彼も、彼の作る料理も、それを食べながら交わす彼との会話も、そのときの彼の眼差しも。
 すべてを言葉する勇気はなかった。ただ、シノがまるで何もかもわかったような顔をして「ネロの料理はうまいからな」と頷いてみせるので、私も深く深く頷く。「ええ、とても」

「私にとっては、世界一です」
「……ほんと、料理人冥利に尽きるよ」

 彼の顔はほのかに赤く染まっていた。夕日の差す時間にはまだ早い。「照れてる」とシノが笑うと、彼は「照れてねえよ」と口をへの字にした。



201227 / title by ユリ柩
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