溜息の温度




「体は魔法で清めてあるから、食べ終わったら寝なさい。明日にはここを出て行ってくれ」

 青年がそう言って空になったお碗を下げてから、そろそろひと月になる。




 明日には出て行けと言った青年は、その翌朝目を覚ました私の前に、朝食と不思議な色に光る石くずの詰まった瓶を持ってやってきた。これは何かと問う前に、彼の方が「きみたちが暮らしていたのは、風の丘のそばにある集落で間違いないな?」と尋ねるので、私はひとつ頷いて首を傾げた。

「私、言いましたっけ?」
「きみからは聞いてないが、二日前の夜、その方角から黒煙が上がっているのを見た。あとは考えればわかる」

 テーブルに置かれた石が、差し込む陽の光を浴びてキラキラと光る。何色とも形容しがたいそれは宝石のようで、これまでに見たことのあるどんな装飾品よりも美しい。

「実際に行ってみれば、ひとつ真新しい焼け跡があった。……何もかも燃え落ちていたよ」
「……何もかも」
「その焼け跡でこれを見つけた。粉々に砕けていて──住民に姿を見られる前に引き揚げてきたから、これだけしか回収できなかったけど」
「……これは、何なんですか?」

 青年を見上げると、彼は唇を引き結んで険しい顔をしている。
 少しの間、妙な沈黙が下りた。

「知らないのか」
「えっと、何を…ですか?」
「魔法使いが死ぬと、魔力を秘めた石になる」

 その瞬間、背筋が凍った。ひどく寒気がするのに、嫌な汗が噴き出してくる。
 彼の指先がそっと小瓶に触れ、輝くマナ石を覆い隠した。

「その石をマナ石と呼ぶ。状況からいってほぼ間違いなく、これはきみの弟のマナ石だ」
「これが、……」

 それ以上言葉が出てこない。
 目の前のこの石が、あの子?

「さっきも言ったように、マナ石には魔力が秘められている。人間でもマナ石を使えば魔法に似た力を使うことができるし、魔法使いがマナ石を喰らえば魔力を強化することができるから、欲しがる者は多い。どう使うかは、きみが決めなさい」
「つ、使うって……?」
「色々あるだろう。売って生活の足しにするとか──」
「売る!?」
「叫ぶんじゃない。悪くない選択肢だろう。むしろ一番いい。それを持っているだけで、良からぬ輩に狙われることもあるだろうから」
「でも、これはあの子なのに──」
「持っていても弟は戻ってこないよ。どんな魔法も、死者を蘇らせることはできない。それを解っていて、恐ろしい北の魔法使いに狙われる覚悟もあるっていうなら、形見にでもして後生大事にしていればいいんじゃないか。別に僕は止めやしない」

 君の好きなようにすればいい。些か投げやりな口調で言ってから、彼は私に背を向けた。
 部屋のドアがぴたりと閉ざされて、私一人になる。
 マナ石の入った小瓶を手に取ると、随分軽かった。これが、私の弟だったもの。こんなに小さく、硬く、軽くなってしまったなんて。
 陽の光を受けて輝くマナ石は、ただ美しかった。あの子のそばかすが散る笑顔も、擦りむいた膝小僧も、小鳥をすくい上げた泥だらけの手も、何一つ面影がない。
 真っ黒に焼け焦げてしまうよりはずっと良かったのかもしれない──そんな風に思えるほど大人ではなくて。小さな瓶を握りしめて、一頻り泣いた。
 昨日のように、青年は私が泣き終わる頃に戻ってきた。

「まだ食べてないのか」

 呆れた声だ。目を擦りながら頷くと、彼は静かに呪文を呟いた。

「温め直したから、今度は冷める前に食べなさい」
「……ありがとう」

 私が食べ始めると、彼は棚のほうへ行って何か作業をし始めた。こと、こと、と時折瓶の動く音がする。
 料理は、一度冷めてしまったとは思えないほど温かい。
 これが現実だなんて信じたくないのに、間違いなく現実だと認めてしまう自分がいる。もしもこれが悪い夢なのだとしたら、こんなに優しい味がするはずがないから。
 ふと気がつくと、青年がまた近くに戻ってきていて、検分するかのような目つきでこちらをじっと見ていた。

「あの……?」
「指は問題なく動くか」
「え、あ、はい」
「脚は」
「大丈夫……と思います」
「皮膚が引き攣る感じはあるか」
「えっと、ううん、ないです」
「何か違和感のあるところは」
「たぶん、ないです」
「……なら問題ないな」

 ふぅ、と青年が息を吐く。

「僕が面倒を見るのはここまでだ。あとのことは、自分でどうにかしてくれ」
「えっ」
「『えっ』じゃないだろう。昨日も言ったはずだよ、早く出て行ってくれと」
「でも……でも、私、行くあてがないです」

 住んでいたところにはもう戻れまい。家もないし、何より村人たちは私も焼け死んだと思っているだろう。生きていることがわかったとて、受け入れてくれるとは到底思えない。
 両親だって、きっともう。

「それは僕の知ったことじゃない」

 青年は突き放すように言う。そのくせ、「でもまぁ、集落には戻らないほうがいいだろうな」と助言めいた言葉を続けた。

「焼け跡を見るに、普通の人間が巻き込まれたらまず助からない。きみがこうしてぴんぴんしているのが知れたら、間違いなくきみは魔女狩りの対象になる。今度こそ死ぬぞ」
「じゃあ…どうしたら……」
「できるだけ遠くに行って、知り合いに見つからないように暮らすしかないだろうな」
「……こ、ここに置いてもらえませんか」
「は? 嫌だけど」

 にべもない返答だ。彼はサングラスを押し上げて、「どうして僕が面倒見続けなくちゃならないんだ」と続ける。

「できることはなんでもします、お掃除とか、炊事とか…!」
「生憎だけど、魔法が使えるから困ってない」
「それじゃ、えっと、お使いとか…」
「それも必要ない。たいていのものは自給自足してるんだ」
「じゃあ、ええと」
「しつこい」
「だ、だって…! 遠くに行くっていったって、私、お金もないし、着るものも、食べるものも、なんにもないもの……」
「……知らないよ、そんなこと」

 わずかに声の調子が変わったが、それだけだった。

「とにかく、できるだけ早く出て行くように。僕は面倒見きれない」

 いかにも鬱陶しそうに、面倒臭そうに言うのに、強引に追い出すことはしないらしい。彼が本当に追い出したければ、指先さえ触れることなく私を摘み出すことができるに違いないのに。
 青年は私に背を向けて、部屋を出て行こうとする。
 私はソファから跳ぶように降りると、空になった皿を持って裸足のまま青年を追いかけた。

「ごちそうさまでした…!」
「出ていく気になった?」
「う……後片付けをしてから考えます!」
「あぁそう。早く決めてくれ。キッチンはそっち、お手洗いがそこ。……待て、きみ、靴はどうした」
「な、なかった…です!」
「……そうか、気が回らなかった」

 サティルクナート・ムルクリード。呪文が呟かれると、いつの間にか私の裸足はきちんと靴を履いていた。大きさも、測ったみたいにぴったりだ。

「凄い…! あの、ありがとう」
「……礼を言うなら早めに出て行ってくれ。その靴は、餞別にやるから」

 溜息混じりに青年が言う。優しいのか優しくないのか──いや、やっぱり優しいひとだろう。

「あのっ、お名前、なんていうんですか?」
「名乗る必要がない」
「私はリディです」
「興味がないな。そんなことより、後片付けをするんじゃなかったのか。早くしてきなさい」
「は、はいっ」

 あっち、と青年が指差した方へ、私は駆け足で向かった。新しい靴がパタパタと足音を立て、後ろから「騒々しい」と咎める声がした。





 青年は毎日「早く出て行ってくれ」と言うくせに、私が食い下がれば決してつまみ出しはしなかった。
 手伝えることがないかと訊くと、ないの一点張りだったのが最初の数日。一週間が経つ頃には彼が折れて、部屋の掃除をさせてくれるようになった。半月が経つと、どうせ居候するならもっと働けと、裏の畑で育てているハーブや野菜の収穫を手伝わせてもらえるようになった。
 それらの手伝いが終わると決まってお駄賃を握らされるので、暗に「お金が貯まったら出て行きなさい」と言われているのだと思う。
 そうして手伝いをしながら過ごすうちに、ひと月が経った。

「きみはいつになったら出て行くんだ…」

 ハーブティーを飲みながら、彼はうんざりしたように言った。
 しかし、そのハーブティーは私が淹れたものだし、今日の二人分の夕食を作ったのも私だった。常日頃母の手伝いをしていてよかったと思う。今日に限らず、最近彼は私に食事の用意を言いつけることが増えてきていた。
 早く出て行きなさいと言うわりに、今日はこれをしろ明日はあれをしろと仕事を寄越す。だから、私は彼のうんざりした口調をどの程度真に受ければいいのかわからなかった。ひょっとして彼は、仕事を嫌がった私がこっそり逃げ出すことを期待していたりするのだろうか。

「ええと、お金が十分貯まってから考えます」
「この前と言ってることが違うぞ」
「……どこに行ったらいいかわからないんだもの」
「どこへでも、好きなところへ行ったらいいじゃないか」
「そんなこと言われても、私、あの村しか知らないから……ここから村への帰り道もわからないけど、ほかの町への行き方もわからないし、そこでどうやって暮らしていけばいいのかもわからない。町に、私みたいな子どもが一人で住めるところや、雇ってくれるところってあるんですか?」
「さぁ、どうだろうな」
「私、お兄さんが置いてくれるうちは、ここにいさせてほしいです」
「僕は君が居候することを許可したつもりはないんだが……」

 そもそもお兄さんじゃないし、と青年が顔を顰めた。……父よりも若そうだから、おじさんじゃなあないだろうと思ったのだが。

「第一、きみは警戒心がないだけじゃなく素直すぎる」
「え?」
「僕が言ったこと、全部鵜呑みにしているだろう。悪い魔法使いがデタラメを教えているとは考えないのか?」
「お兄さんは良い魔法使いじゃないですか」
「どうしてそう思う」
「私が今生きていて、自由にお喋りできてるのはお兄さんのおかげです」
「…………能天気なやつだな」

 ほとほと呆れた、と言いたげな様子だ。

「寝言は寝てるときだけにしないと、人間の街に馴染めなくなるぞ」
「みんなみたいに『魔法使いは全部悪いやつだ』って思わなきゃいけないなら、そんなところ馴染みたくなんかないです。そういうばかみたいな思い込みのせいで、私の家族は死んだのに」

 ふんと鼻を鳴らすと、彼は目を見張ったようだった。

「今の私には、人間のほうが“悪いもの”に思えます。良い人もいるってわかってるけど、優しいと思ってたあの人たちのうちの誰かがうちに火をつけたって思うと、人間なんて信じたくない……」
「……だから、目の前の魔法使いを信じるって?」
「うん。私は弟とあなたしか魔法使いを知らないけど、二人とも優しいもの」
「きみの弟はともかく、僕は優しくないよ」
「優しいです」

 少なくとも、私の家族を殺したのは人間たちで、私を助けてくれたのは魔法使いたちだった。その事実は揺るがない。

「優しいやつは、身寄りをなくした子どもに早く出て行けなんて言わないと思うけど」
「優しくない人は、なんだかんだ言いながら厄介な子どもの面倒をひと月もみてくれたりしないと思います」
「……さっさと追い出せばよかったな」
「………………それなら今、追い出せばいいんじゃ……?」
「追い出してほしいの?」
「えっ、ううん、違います!」
「面倒臭いな、きみ……」

 彼がマグカップを置くと、ハーブティーの水面に月明かりが煌めいた。

「さすがに日も暮れたこの時間に子どもを一人で放り出したりはしないよ。追い出すなら明日だ」
「……お兄さん優しいですよね、やっぱり」
「は?」

 すかさずものすごく嫌そうな声が返ってくる。私は慌てて自分のハーブティーに口をつけて誤魔化した。耳慣れた溜息が、空気に溶けた。


200412 / 200426
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