サティルクナート・ムルクリード。
朧な意識の中で不思議とはっきり聞き取れたその静かな声を、神様の声だと思った。
◇
目を覚ましたとき真っ先に視界に飛び込んできたのは、初めて見る天井だった。
目だけを動かして辺りを窺う。お世辞にも明るいとはいえない、どこか薄暗く思える部屋は、しかし決して黴臭くも埃っぽくもない。人が住んでいる気配があり、尚且つきちんと手入れが行き届いている印象だ。窓から差し込む夕陽に照された背の高い棚には、沢山の瓶が整然と並べられている。中身のわからないそれらには一つひとつラベルがついていて、そのどれもが正面を向いているのが、この部屋の主の性格を表しているようだった。
ゆっくり上半身を起こすと、掛けられていたブランケットが床に落ちた。すぐに申し訳ない気持ちが湧いてきて、慌てて拾い上げる。
まだ暖かいブランケットを握りしめながら、改めて部屋を見回した。
天井から、束ねられたハーブか何かがいくつも吊るされている。私が横たえられていたのは、どうやらソファの上らしい。手を伸ばせば届く距離にあるミニテーブルには、水差しとコップが置かれていた。……飲んでもいいのだろうか。
ぼんやりとそう考えて、喉が酷く渇いていることに気づいた。いったいなんだってこんなに、カラカラなんだろう。そもそもどうして、まったく見知らぬ部屋にいるのだろうか。こんな部屋に住んでいそうな知人さえ、思いつかないというのに。
ブランケットを握りしめたまま、私は必死に記憶を手繰り寄せた。
──そうだ、私は家にいた。弟と。両親の帰りを待っていて、そして……そして?
思い出そうとするほど、閉じた瞼の裏がちかちかして、喉がひりつく。
何かがちらつく。ゆらゆら、轟々、爆ぜる鮮烈な色──
その正体を掴みかけたところで、耳が静かな足音を拾った。次いで、ドアノブを捻る音がする。
入ってきたのは、一人の青年だった。目深に被った帽子と眼鏡のせいで顔がよくわからないが、その立ち姿だけでも父よりも若いとわかる。
「起きていたのか」
静かな声が空気を揺らして、私ははっとした。
この、声。うっすらとだが、覚えている。
「あなたは誰?」
「……ほかにもっと聞くべきことがあると思うけど」
青年は私の質問には答えなかった。ソファのそばまで歩いて来ると、水差しを手に取り、中を覗き込む。そのままコップを手に取るから、彼も喉が渇いているのだろうかと思って眺めていれば、彼は水を注いだコップを私へ差し出した。
「…飲みなさい。毒は入ってない」
私は驚いて、反射的にコップを受け取った。澄み切った綺麗な水。確かにおかしなところはないように見える。
ゆっくり口をつけると、彼は少し驚いたような顔をした。
「本当に飲むのか……」
「えっ、飲んじゃいけないんですか?」
「普通もっと警戒するだろう。というか、するべきだ」
「でも……あなたは悪いひとじゃないんでしょう?」
「どうしてそう思う?」
「だって、もしあなたが私を殺したりしたいなら、眠ってる間にすればよかったんです。でも、そうしなかったんだから、悪いひとじゃないんだ。違いますか?」
「安直だな。僕は、きみが苦しみに悶えながら死ぬ様を見たいのかもしれないよ」
「………………いいの。喉が渇いてるから」
きみ、思考を放棄しただろう。
非難めいた声を無視して水をもう一口飲んだ。根拠はないが、たぶん悪い人ではないんだろう。水は、ただ置かれていたにしては不思議とよく冷えていて、ほのかに甘い味がした。
私が水を飲み終わると、待っていたかのように青年が口を開いた。
「覚えていることは?」
「……えっと」
「僕はきみをすぐそこの川で拾った。きみは酷い火傷を負っていて、……放っておけば今頃死んでいだろうな」
「やけど……」
「覚えていないのか?」
「覚えて──」
いない、と答えようとしたとき、脳裏に赤々と燃え盛る炎が蘇った。
火の粉は天井まで届き、硝子の割れた窓から吹き込む風が炎の勢いを強める。ドアの付近は既に炎に包まれていて、これ以上近づけない。弟に手を伸ばす。弟は私の手を取らない。触れられてもいない私の体は、見えない何かに強く突き飛ばされて。炎に包まれた部屋で、弟が、叫んでいる──「にげて!」
「……私だけだったの?」
言葉は足りていなかっただろうに、青年は重々しく「そうだよ」と答えた。
「きみを運んだ後、念のため周辺を捜索したが……誰も──何も見つからなかった」
「そんな…」
「いったい何があった」
青年が問う。
サングラス越しの目が、真っ直ぐに私を見ていた。
「家が、燃えて……」
「火の不始末か?」
「ちがう!」
眠っていたら、窓から何がが投げ込まれたのだ。
きっと、村の人間の仕業だった。
三日前に村長と話し合いに行った父が帰ってこなかったのも、昨日父を探しにいった母の悲鳴が聞こえた気がしたのも、全部。村の人間が、私たち一家を疎んでやったのだ。
弟が魔法使いだと、バレてしまったから。
縺れそうな舌で話す私の言葉を、青年は黙りこくって聞いていた。私には彼の様子を伺う余裕なんてものは微塵もなく、自分が何を話しているのかもよくわからなかった。
本当は、すべて悪い夢だったのだと思いたい。今も夢を見ていて、きっとあともう少しで目が覚める。父が私の寝癖を笑い、私はばつが悪い思いをしながら弟を呼びに行き、それから母の作った料理をみんなで食べる。いつも通りの、なんてことのない日。
どうかそうであってほしいと思いながら、私はそれとはまるで真逆の“現実らしきもの”を青年に語り続けた。
酷く支離滅裂になっていただろう話をずっと静かに聞いていた彼は、私がなんとか一通り話し終えてから口を開いた。夕陽に代わり月光が差し込むようになった暗い部屋でも、冷えた色の瞳に強い光が宿っていることはよくわかった。
「その弟が、きみを助けたんだな」
「そう、だと思う。逃げてって、あの子が言った。私が、私のほうが、あの子を助けなくちゃならなかったのに」
「歳はいくつだ」
「弟は8。私は、11」
「……そう」
短く言って、彼は目を伏せる。
私はただじっとしていた。頭が痛い。何も考えたくないのに、いやでも考えてしまう。弟は、両親は、我が家は、どうなったのだろう。あの子は、ちゃんと逃げられたのだろうか。最悪の光景が浮かんで、消えてくれない。
「勇敢で、優しい子だったんだな」
青年がぽつりと言ったそれが弟のことだとわかって、私は深く頷いた。
「……うん」
途端に涙が溢れてくる。そう、とても心根の優しい子だった。
怪我をした小鳥を助けるために魔法を使ったところを、運悪く村人に目撃されたりなんかしなければ。今年の実りが、ここ10年で最悪の凶作でなければ。私たちの村が、良からぬことはすべて魔法使いのせいにするような村でなければ、──あの子が憎まれるなんて、絶対に有り得なかったのに。
青年が再び水を注いで差し出した。受け取って、飲まずにいれば、彼は「飲みなさい。落ち着くだろうから」と諭すように言う。父よりも若いのだろうに、父みたいな口振りで。
泣きながら飲んだ水はやはり少し甘くて、どうしてかますます涙が溢れた。
青年は静かに部屋を出ていって、私が泣き止む頃に戻ってきた。彼が部屋の明かりを灯して初めて、自分が暗い部屋にいたことを思い出した。
「食べたくなければ食べなくていい」
そう言ってテーブルに置かれたのは、温かいスープだった。
見上げた彼の青年の顔は、帽子のつばが影をつくっているせいで相変わらず表情がわかりづらい。
「……いただきます」
「きみは本当に警戒心がないな…」
スプーンに手を伸ばした私に呆れたように言う青年は、優しいのかなんなのか、よくわからない人だ。しかし川辺で倒れていたらしい私を拾って、その上、私が魔法使いの弟を匿っていたこと知ってもなお世話を焼いてくれているのだから、あの村の大人たちよりはよほど“いい人”だろう。心なしか、スープも優しい味がする。
「どうして私をたすけてくれたんですか?」
「…………どう見ても人間なのに魔力の痕跡があったからだよ。今にも死にそうなきみを見て、きみを助けようとした魔法使いに同情した。きみ個人に同情したわけじゃない。僕は人間が嫌いなんだ」
きっぱりとそう口にした青年は、そのわりには私を今すぐ追い出すつもりはないらしい。
「ありがとう、ございます…」
「……会話が噛み合っていないようだけど」
「でも人間がきらいなのに、火傷まで治してくれたのはどうして?」
「…………見ていて僕の気分が悪くなるからだ」
「そんなに酷かったんですか」
「あぁ、酷かった」
「気分が悪くなるなら、命だけ助けてほうっておいたらよかったのに……」
「それも考えたけど、そのままにして死なれても困る」
「困るの?」
「きみを見つけた川の水は、ここらで一番澄んでいるんだ。そんなところに死体が浮かんでもらっては困るんだよ」
苛立ったようにサングラスを押し上げる仕草に、私は大人しく食事に専念することにした。
しかし、話すのをやめるとどうしても考えてしまう。
「あの……弟は、無事だと思いますか?」
結局口を開いてしまって、彼が眉を吊り上げたのがわかった。
「僕にわかると思うか? 見ていたわけでもないのに」
「それでも、魔法使いなら、なにかわかるのかなって」
「……わからないよ。魔法は万能じゃない」
「じゃあ、探すことはできますか?」
「魔法で人を探せるかを聞いているなら、答えは『できる』だ。だけど、僕がそこまでする義理はないな」
確かにその通りだ。私は「そうですよね」と相槌を打って肩を落とした。
「……それに」
彼の声がわずかに低くなる。それは怒っているようでもあり、嘆いているようでもあった。
「魔力の痕跡から推測するに、きみの弟は強い魔法使いとはいえない。年齢のせいもあるだろうが」
「ええと、どういうことですか」
長い前髪の隙間に、まるで、あらゆる悲壮を閉じこめたかのような瞳が見えた。
「きみを助けるだけで精一杯だった可能性が高いということだ」
彼の言葉が大きな岩石にでもなって、私の頭上に落ちてきたかのようだった。その重さに為す術なく潰されて、呼吸ができなくなる。身体のすべてが悲鳴をあげる。そうしたところで重さが変わるわけでもないから、ただ、苦しいだけだ。
「……だから、僕はきみを拾った。人間なんか助けたいとも思わないけど、きみが死んだら、力を振り絞って必死にきみを助けようとした幼い魔法使いが報われない。そんなの、あんまりだろう」
彼の声が悲痛に聞こえたのは、私の勘違いかもしれなかった。
それでも、魔法使いだというだけで焼き討ちにあった弟に、魔法使いだというだけで心を重ねてくれる青年がいる。
そのことがどんなに私の心に染みたかを青年に伝えたかったが、青年はもうこちらを見ていなかった。
200412 / 200426