この夜が明ける前に




「私、随分変わったでしょう。知らない老婆だと、思いませんでしたか」
「思わないよ」
「こんなにも歳を取ったのに?」
「歳を取ったところで、リディはリディだろう」

 呆れたようにそう言って、彼は私の額に触れた。

「少し眠っていなさい」




 目を覚ましたとき、あまりにも体が軽いので、ついに死んでしまったのだと思った。
 どこも痛くないし、息苦しくもない。ほとんど動かなかったはずの手がすんなり動いて、簡単に体を起こすことができる。
 カーテンは隙間なく閉められているのに、妙に眩しい。瞬きをしながら視線を巡らすと、壁も天井もよく見慣れたそれだ。

「天国って私の部屋にそっくりなのねぇ」
「何を言ってるんだ……」

 思いがけず応答があって振り向けば、部屋の隅に寄せた椅子にファウスト様が腰掛けていた。彼は呆れたように──しかしどこかホッとしたように──溜息をつく。

「寝惚けているのか?」
「……夢ではない?」
「ないよ。残念かもしれないが」
「残念なもんですか」

 目の前に他でもないファウスト様がいるのに、何を残念に思うことがあるというのだろう。
 目頭を押さえると、ファウスト様は静かな声で「どこか違和感のあるところは」と尋ねた。

「特には……。強いて言うのなら、やけに体が軽いことくらいでしょうか。ファウスト様、何かしてくださったんでしょう」
「………そうだな、まぁ……治した」

 ファウスト様が目を逸らしたのをいいことに、私はぽかんと間抜けな顔を晒して「治した」と繰り返した。

「ファウスト様が? 私の病気を?」
「……そうだ」
「どうして──そんなに、私は哀れでしたか」

 ファウスト様は答えない。胸をつく沈黙だけがあった。
 ──このひとの、こういうところに、私はずっと救われて生きている。
 嬉しいのに、苦しい。一度は止まったように思われた涙がまた溢れてくる。どんな感情に根差した涙なのか、私自身にもわからなかった。
 一頻り泣いて瞼を腫らしながら礼を言った私に、彼は無言で首を横に振る。次に彼が口を開いたとき、語られたのはこの町の現状についてだった。
 この町は呪われている。
 魔法使いに、ではない。この土地の精霊に、だ。
 何がきっかけだったのかはわからない。ただ、誰かがなんらかのかたちで土地を穢し、人間は精霊の怒りを買った。精霊たちはもはや、この町の人間すべてを敵と見做している。不作、土砂崩れ、奇病──すべては精霊の怒りによって引き起こされた現象で、このままではそう遠くないうちに町が滅ぶという。

「……それは、もうどうにもならないのですか」
「少し町を見て回ったが、宥めすかしてどうにかなるような時期はとっくに過ぎている。本格的な儀式を執り行うにしても、余所者の僕にできることは少ないし、そこまでしてやる義理もない。──正直、長居するのもごめんだ」
「それなら、尚更、どうして」
「……どうしてだろうな」

 放っておければ、楽だったんだろうけど。
 独り言のような調子で呟かれたそれは、この静かな部屋では私の耳にまでしっかりと届いた。

「そうだ、きみと一緒にいたあの子は、きみの……?」
「いいえ。あの子は隣の家の娘さん、よく来てくれるんです」
「きみに家族はいないのか」
「家族がわりの野良猫を除いては」

 ファウスト様は息を吐くように、「……そう」と呟いた。

「きみが患っていることを知っていた者は、あの子のほかにどれくらいいる?」
「さぁ……はっきりとした数はわかりませんが、皆さん知っているんじゃないかしら。店を閉めていたので」
「……だとすると、怪しまれるな」
「そうですねぇ……」

 原因も治療法もわからない病に罹って私一人が急に快復したのでは、当然訝る者は多かろう。
 よもやファウスト様ともあろうひとがそれを考慮に入れず私を治したとも思えないが、ファウスト様は顔を顰めて腕を組んでいる。

「……リディは、どうしたい」
「どう、とは」
「選択肢は三つある。危険を承知でこの町に住み続けるか、別の町へ移るか、もしくは──僕と来るか」

 その言葉を理解した瞬間、心がわなないた。
 ──このひとはいつも、どうして、こうなのだろう!
 彼の優しさが、責任感が、幾度も私を救う。それと同時に、心を奥の脆い部分を抉っていくようでもあって、声にならない叫びが体が震わせる。ようやく絞り出した声はひどく嗄れていた。

「いいんですか? ファウスト様と行っても」
「僕の気が変わらないうちならな」

 そう言って、ファウストは諦めたように笑った。
 そこからはあっという間だった。
 うちにある一番大きな鞄を引っ張り出して、必要最低限の荷物を詰め込む。着替えと財布に、ずっとお守り代わりにしているブローチとマナ石、それから、ジェーンから譲り受けたもののうち鞄に入るものだけをいくつか。

「あの子は大丈夫かしら」

 隣家の娘の顔がちらついてそう零すと、ファウスト様が「心配いらないよ」と答えた。
 
「事情を説明する手紙を書いておいた。この町に未練があるのでもなければ、そう遠くないうちにあの子も町を出るんじゃないか」
「手紙を……ファウスト様が?」
「きみが世話になったんだ。それくらいはする」

 テーブルにきちんと封のされた手紙を置いて、ファウスト様は眼鏡を押し上げる。当たり前のことを言うときの声音だった。

「リディも伝えておきたいことがあるなら書き残しておきなさい」

 羽根ペンとインク壺、それから羊皮紙がどこからともなく滑るように飛んでくる。勧められるがままに手に取って、感謝と別れの言葉を綴った。
 私はもうこの町には戻らない。戻れない。この町に思い残すことはただ一つ、この手紙を読むあの子のことだけだ。
 ファウスト様が推測するようにいずれあの子も町を出るとして──その前に、皆と同じ病に冒されてしまったら?
 そんな私の考えを見透かしたかのように、ファウスト様はまた「そう心配することじゃない」と口にした。

「どうしてそんな風に言えるんです?」
「……あの子は魔女だ。呪われているのは人間だから、町が滅んでもあの子だけは生き残るだろう」

 驚く半面、思い当たることがないわけでもない。「魔女の悪戯」だの「魔法使いに盗まれた」だのというでたらめな常套句を耳にするたび、あの子が顔を強張らせていたことを私は知っていた。

「見切りをつけてさっさと町を離れるのか、最後まで残って手を尽くすのかは、あの子次第だけどな」

 ファウスト様はそう言うと、呪文を唱えた。荷造りをしている間に散らかった部屋が、見る間に片付いていく。もともと物の多い家ではないのに、鞄の中に最低限の荷物を詰め終えた後の部屋は随分と殺風景に見えた。
 忘れ物がないかよく確かめて、テーブルに二通の手紙を置く。
 あの子のことだから、この夜が明けたら、昼前に一度私の様子を見に来るだろう。そうしてすぐに、人の気配がないことに気がつくはずだ。慌てるかもしれない。手紙を読んで、なんて薄情なんだと憤るかもしれない。
 ──それでも。

「準備はできた?」

 ファウスト様が外を気にしながら尋ねる。私は頷いた。
 ごめんなさい、と心の中であの子に向けて呟く。──優しいあなたがどうかこれからも息災でありますように。
 裏口からそっと外に出ると、辺りは私が思っていたよりも明るくなっていた。見上げれば、東の空が白んでいる。夜明けが近いのだ。

 ファウスト様の箒から見下ろした町は、息をひそめているかのように静まりかえっていた。ひょっとして本当はとっくのとうに滅んでいるのではないか──そう錯覚してしまうほど。
 しかしそれでも、この町にはまだ確かに人がいて、何も知らない人々が未来を疑いもせず眠っている。世話になった人たちもいるのに、何も伝えずに町を離れる私はやはり薄情なのだろう。
 遠ざかる町を見つめていれば、ファウストが嗜めるような声色で私の名前を呼んだ。

「下ばかり眺めて、落ちても知らないぞ」

 ──落とさないでしょう、あなたは。
 呟いた言葉は、薄明の風に紛れて消えていった。


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