向かい合わせの独りと独り




 この町では、にわか雨のことを“魔女の悪戯”と呼ぶ。
 魔女が悪ふざけで降らせる雨だから、突然降り出して、かと思えばすぐに止む。根拠もなく、そういう風に考えられている。
 ほかにも、風が強ければ「魔法使いの虫の居所が悪いらしい」、長雨になれば「魔女の呪いに違いない」……天候に限らず、物が壊れたりなくなったりすると「魔法使いに盗まれた」などと言い出すことも少なくない。

 ファウスト様は「よくあることだよ」と呟いた。




 自分から言い出したことなのに、ファウスト様がこの家にいるのは変な感じがした。それに、妙に緊張する。
 家に入るなり、ファウスト様にこの家でいっとう良い椅子を使ってもらい、私はすぐさま紅茶の準備にとりかかった。その間、ファウスト様には背を向ける格好になる。背後から懐かしい呪文が聞こえたとき──濡れた服や荷物を私の分まで乾かしてくれたらしい──つい潤んでしまった目は、ファウスト様に見られずに済んだはずだ。
 二人分の紅茶を用意した後、先に口を開いたのは意外にもファウスト様のほうだった。
 彼はぽつりぽつりと私に質問を投げかける。調子はどうか、ここでの暮らしには慣れたか、店は上手くやれているか──。
 私がそのひとつひとつに答える間、私たちが家に入るとき足元をすり抜けて入り込んだらしい野良猫が、ごろごろと機嫌良く喉を慣らしていた。頻繁にうちにやってくる、馴染みの野良猫だ。人懐こい猫だとは思っていたが、いつの間にかファウスト様の膝に乗って寛いでいるのを見るに、想像以上に図太い性格をしている。
 猫を撫でながら私の近況報告に相槌を打っていたファウスト様は、最後に「万屋に任せたのは正解だったみたいだ」と呟いた。

「彼女は人間の暮らしをよくわかっている」
「そうですね……さすが、長年人間に紛れて暮らしているだけあるなって感じでしたよ。この町の誰も、彼女が魔女だなんてまったく気づいていないようでした」
「彼女は東の魔女にしては人付き合いが上手いんだろう。職業柄というのか、それなりに口上手なようだし」
「ファウスト様は口下手ですもんね」
「……言うようになったじゃないか」

 皮肉る口調とは裏腹に、ファウスト様の口もとはゆるく弧を描いている。

「私も今は商売人の端くれですから。多少は口が回らなくちゃ」

 そうか、とファウスト様は笑った。

「……上手くやれているならよかったよ」

 それは、あの谷の柔らかな木漏れ日を思わせた。
 ──つい、あの日に帰りたくなってしまうような。

「それにしても、人懐こい猫だな」
「野良猫なんですけど、その子、最近しょっちゅううちに来るんですよ。ほとんどうちの猫みたいなものかも」
「へえ。ちょうどいいじゃないか」

 一人暮らしは少し寂しかったから、猫が来てくれるのはちょうど良い。そう考えていたのを見抜いたかのようにファウスト様が言うものだから、私は少し面食らった。
 やや遅れて「そうですね」と頷くと、彼は猫に視線を落としたまま「きみは、一人じゃ寂しいんだろう」と呟いた。『きみ』というのが私のことなのか、それとも猫のことなのかわからず、私は黙っていた。
 会話が途切れると、猫の喉が鳴る音と雨の音がよく聞こえる。それから、二人分のささやかな衣擦れも。

「……ファウスト様は、一人が寂しいですか?」
「……いや。僕は、一人が好きなんだ」
「やっぱりそうなんですね。……羨ましいです」

 ファウスト様が顔を上げる。「どうして」

「この町は、昔住んでいた村より家も店も多くて、たくさんの人が暮らしていて……でも、いいえ、だからこそでしょうか、ふとした瞬間に思うんです。私は独りなんだなあって」

 家族もいない、秘密を打ち明けられるような友人もいない。私は誰にとっても『雑貨屋さん』でしかない──時々、そんな風に考える。そんな風に考えてしまうと、無性に寂しくなる。
 ファウスト様に言うようなことではないと思いながらも、言葉がこぼれた。彼のほかに、こんなことを言えるあてがないせいだろうか。

「すみません、こんな話」
「構わないけど……きみの性格なら、家族や友人を作ることは難しくないだろう?」
「ええ? 私、なんでも魔法使いのせいにするような人たちと深い付き合いができるほど、柔軟じゃないですよ」

 初めて私が“魔女の悪戯”という言葉を耳にした日、ジェーンは、仕方がないことだと言って笑った。そして今日、ファウスト様は、よくあることだと言った。
 それでも、私はジェーンのようには笑えない。
 隣の穏やかな奥さんも、斜向かいの朴訥とした旦那さんも、花屋のお茶目な少女も、靴屋の気の良い青年も。この町では、誰も彼もが当たり前のように魔法使いへの偏見を持っている。優しい言葉をかけてくれたその人が、同じ口で魔法使いへの偏見を語る。
 その度に私は失望して、この町の人々に心を開くことを諦めようと思うのに、知らず識らずのうちに信じそうになって、また失望する。──その繰り返しだ。
 ジェーンやファウスト様は、どうなのだろう。同じように何十何百と繰り返して、その果てに諦めたのだろうか。
 面と向かって尋ねることもできず、ただ眉を下げた。
 ファウスト様は、懐かしい色の瞳でじっと私を見つめている。
 やがて、彼のほうから口を開いた。

「僕ははじめ、きみが去るときにはきみから僕に関する記憶を奪おうと思っていた」

 思わず息を呑んだ私の様子に表情を変えることなく、ファウスト様は続ける。

「だけど、結局そうしなかった。きみを万屋に任せることになって、記憶を奪うことに不都合が生じたからだ。辻褄の合うように記憶を改竄しなくちゃならないから、ただ記憶を奪うより気を使うし手間もかかる」

 そこで一度言葉を切ったファウスト様は、苦笑とも自嘲ともつかない表情を浮かべた。

「でも、一番の理由は──可哀想だと思ったんだよ。家や家族を理不尽に奪われた子どもから、それ以上何かを奪うなんて」

 撫でる手が止まったことに不満を覚えたのか、猫がぴしゃりと尻尾を振る。
 ファウスト様はあやすように猫を撫でたが、視線は私に向けられたままだ。

「結果としてきみに寂しさや生きにくさを抱えさせているなら、今からでも──」
「嫌です!」

 反射的に私はそう口にしていた。気づけば、寒くもないのに指先が震えている。

「絶対忘れたくありません」
「忘れてしまえば、その気持ちもなくなる」
「尚更嫌です」

 ファウスト様は苦い顔をし、私は唇を噛んだ。彼が意地悪で言っているのではないことくらい、わかっている。だからこそ、私ははっきりと言葉にしなければならなかった。

「そもそも違うんです、ファウスト様。記憶があるから寂しいんじゃないんですよ。なかったら、きっと、もっと寂しい」

 たとえファウスト様のことを忘れても、私が独りである事実は変わらないし、偏見によって家族を亡くした過去もなかったことにはならない。それならひとつでも多く、少しでも長く、穏やかだったあの日々や出来事を覚えていたい。
 そう思うのは、間違っているのだろうか。

「……今のままで、幸せになれるのか」
「忘れたら幸せになれるっていうんですか?」
「そういう場合もあるだろう」
「ファウスト様の思い出と引き換えの幸せならいりません」
「……リディ」

 久しぶりに耳にする彼が私を呼ぶ声は、咎めるような響きを含んでいた。

「僕に関する記憶があろうとなかろうと、きみには確かに人間に失望し恨むだけの理由があるし、寂しさもさほど変わらないのかもしれない。それでも、僕と……いや、僕や万屋と関わらなければ、きみはもっと人と交れたはずだ」

 隔絶された土地、ファウスト様のほかには誰もいない暮らし。彼はきっと、人間たちの営みから離れて魔法使いや魔女とだけ心を交わした数年が、私にとっては長すぎたと言いたいのだ。
 雨音が耳鳴りのように響く。
 私はやっとのことで「たらればを言うのはやめてくださいよ」と声を絞り出した。
 ファウスト様は一度目を伏せ、また私を見る。射抜くような視線が私を貫いた。

「リディ、人間の時間は僕たちよりはるかに短い。きみの大切な時間を、意地を張って無駄にするべきじゃない」
「……意地?」

 耳元で低い音がぐわんと轟いた。雨の音なのか耳鳴りなのか、もうわからない。
 かっと全身が熱くなって、目が燃えているみたいだった。

「どうしてそんなふうに言うんですか、寂しくても生きづらくても、思い出を大事にしたいというのは間違っていますか?」

 ファウスト様は目を伏せ、答えなかった。
 沈黙の中、猫が鳴く。素知らぬ顔でファウスト様の膝から飛び降り、音もなく歩いていく。
 いつの間にか雨は上がったようだった。濡れた庭木に、柔らかな光が降り注いでいる。ファウスト様を引き止める口実はもうない。
 ──こんな話をしたかったわけじゃないのに。
 空が晴れようが、それだけで気持ちまで晴れるはずもない。
 重苦しい空気を破ったのはファウスト様のほうで、ただ一言、「どうする、リディ」と私に問うた。

「……何をです」
「記憶を──」
「嫌です」
「リディ」
「絶対、嫌……」
「……そう」

 わかった。
 ファウスト様はそう答えた。眼鏡と帽子に遮られて、表情までは伺えない。それでも、その落ち着いた静かな声は、私がよく知るものだった。

「きみがそこまで嫌がるなら、今日はやめておく」

 私は、どうして、と言いたかった。まるで、胸を抉られるみたいだった。
 わかっている。私の記憶を奪うつもりだったのも、奪わなかったのも、今日はやめておこうというのも、全部が全部、彼の優しさだ。
 彼はいつも、どこまでも優しい。──すこし、ひどいくらいに。


 それから、彼をどう見送ったのか覚えていない。
 一人になった途端に涙が止まらなくなって、ただ蹲って子どものように泣いていた。窓の外には雨上がり特有の清々しい景色を広がっていたが、今は視界に入れたくもない。

 最後にファウスト様と目が合わなかったことが、いつまでも心に引っ掛かっていた。


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