遣らずの雨




「何かあったら、このベルを鳴らしてください。約束はできないけれど、近くにいるときなら来られると思うから」

 ついにやってきた最後の日、ジェーンに手渡されたのは見覚えのあるベルだった。
 ──ファウスト様の家でも見たことがある。
 思わず口に出した私に、彼女は内緒話でもするように教えてくれた。「それはね」

「今日のリディちゃんに渡すために、呪い屋さんが用意したものなんですよ」

 彼の家でこのベルを使っていたのは、かけた魔法が正常に効果を発揮することを確かめるため。そして、私に使い方を見せるため。

 ──いつまでも、どこまでも、私は彼に助けられている。




 予定通りの時期にジェーンはこの町を去って、私は雑貨屋の店主になった。
 役所で手続きをして店の正式な所有者になった日、ジェーンは餞別だと言って真新しい看板を披露した。流れるような文字で『雑貨屋ラム』と書かれた看板は、もちろん今も店先にある。
 そのほかにもジェーンは町を去る前に色々と根回しをしてくれた。おかげで、仕入れにも困らないし、常連客もついているから生活は安定している。
 その上ありがたいことに、隣家が畑の一画を貸してくれて、そこでハーブや野菜を育てることができた。
 ファウスト様から教わったハーブの効能、薬草の活用方法は、意外なほど役に立っている。この町には医者が一人しかおらず、医学や薬学の心得がある人間が少ないらしい。その医者というのもすでに高齢で、小さな傷口の出血を止める薬や喉の痛みを和らげる程度の薬でも、作れる人間は重宝された。
 ファウスト様がこの町の事情をどこまで知っていたのかわからないが、もしもここまで見越して私に知識を与えてくれたのなら、ただただ畏れ入るしかない。
 私の暮らしは至って順調で、流れる水のような速さで過ぎていく。
 彼の家にいた頃よりも一日一日が早く過ぎる感じるのは、私の取り巻くものが絶えず変わっていくからだろう。毎日違う人間と顔を合わせ、毎日違うことが起こる。ファウスト様はいつも変わらなかったが、この土地の人々はそうではない。私がここに来たばかりのときにはぴんぴんしていた老人が今では杖無しには歩けなくなっていたり、少し前に近所で生まれた赤ん坊がいつの間にかお座りできるくらい成長していたりする。
 そうした変化に、例外はない。常に移ろいゆく暮らしの中で、私も少しずつ変わっている。自覚している変化も、自覚していない変化も、どちらもあるのだろう。それらは決して避けることができない。たとえ、望まずとも。
 それでも、あの土地とファウスト様は今も当時のまま何一つ変わらないのだろう──随分シュガーが少なくなってしまったガラス瓶を見るたび、そんな風に思う。

 窓の外にプレゼントが置かれていた日以来、あの茶色の猫は一度も姿を見せなかった。
 ファウスト様が遣わした猫だったのか、あの猫こそがファウスト様だったのか、はたまた彼の魔法で作られた猫のかたちを模した何か別のものだったのか。本当のところはわからない。ジェーンに意見を求めても、彼女はこの件に関して詳しいことは何も教えてくれなかった。
 とはいえ、猫とプレゼントが偶然とも思えない。あの猫が彼に関係していることだけは、間違いない。
 一度そう思い込んでしまうと、猫という猫が妙に気にかかるようになる。仕事中でも買い物中でも、猫を見かければついその足取りを目で追ってしまう。
 あの日以来ずっとそんな調子なものだから、今やこの町の野良猫にすっかり詳しくなった。何匹かには懐かれて、うちの庭にまでやってくる。そうした猫たちが各々の寝ぐらに帰って行くときも、私はつい、その尻尾の先がすっかり見えなくなるまで眺めてしまう。
 その後で、ひとり考える。もしもあの子たちの行く先に、いつかの茶色い猫がいたら──もう一度あの猫を見つけることができたら、私はどうする?
 咄嗟に追いかけるだろうか。……ああ、でも、万が一あの猫がファウスト様だったら、追いかけられるのはかなり嫌がられるかも。
 眉を吊り上げた彼の顔は、今でも思い浮かべることができた。けれども、それは日に日に朧になってきている。
 このままゆっくりと彼の顔を忘れていくのかと思うと、居ても立っても居られないい気持ちになるのに、だからといって何ができるわけでもないからもどかしい。
 
 
 週に一度の定休日、買い物に出た帰り道。
 一匹の猫が路地から出てきて、また別の路地へと入っていくのを、私はずっと眺めていた。
 今の猫は、近頃この辺りでよく見かけるようになった野良猫だ。特に不審なところや変わったところのない、ただの人懐こい猫。近所の子どもがたいそう可愛がっていて、こっそりミルクをやっているのを何度か見かけたことがある。
 ──だけど、もしも、あの猫やファウスト様と関係があったら……。
 浮かんだ考えを振り払うように、私は頭を振った。まったく、未練がましい。
 ああ、いっそのこと、あの猫を追いかけたほうがよかったのかも。そうして、私の望むようなことは何も起こらないと、はっきりさせたほうが。
 だけど、それはそれできっと、虚しくなってしまう──

「道の真ん中で立ち止まって何をしているんだ」

 不意に、ひどく懐かしい声が聞こえた。呆れたような、それでいてどこか心配を帯びた声。一瞬、そのほかの音が何もかも遠のいたように思った。
 彼の声だ──いいや、そんなわけがない。きっと、とてもよく似た声の人間が偶然通りがかっただけだ。
 自分に言い聞かせるように念じながら、声のするほうを振り返る。
 そこに、ファウスト様がいた。──最後に見たまま、何一つ変わらない、正真正銘のファウスト様。
 呆けて動けなくなった私に、彼は「具合でも悪いのか」と続ける。まるであの日々の続きみたいに、当たり前の調子で。

「えっ、いえ、とても元気、ですけど……それよりなんで……どうして、こんなところに」
「…………僕が買い物に出ていたら悪い?」

 ファウスト様はどこかばつが悪そうな顔でそう言った。見れば、確かに彼は膨らんだ袋を抱えている。

「いいえ……いいえ、全然、悪くないです」

 そういえば私が居候していた頃にも、この町に買い出しに来ることはあった。
 しかし、彼が目の前にいるという状況をうまく呑み込めない。ファウスト様はもう私の前に姿を現さないものと思いこんでいたからだ。実際のところ、私があの家を出てから今までただの一度も彼の姿を見かけたことがない。
 困惑と驚きと、それから嬉しさとを一度に表せる言葉を私は知らなかった。口を開きかけて、結局、言葉を見つけられずに閉口する。そんな無意味なことを私が二、三繰り返す間、ファウスト様は何も言わなかった。
 早く私が何か言わなければ、彼はこのまま去ってしまう。
 焦りが生まれたとき、突然、冷たい雨が頬を濡らした。
 気のせいかと思うような弱いものだったが、いつの間にか空は重い雲が覆われている。これは一雨来そうだ──そう考えている間にも雨は強さを増していき、通りに面した家の一つから現れたエプロン姿の女性が、庭で遊ぶ子どもに声をかけた。
 
「“魔女の悪戯”よ、早く家に入りなさい!」

 はあい、と返事をした子どもが、ぱたぱたと戸口に駆けていく。
 その小さな背中を横目に見ながら、私はようやく言葉を見つけた。

「通り雨です。止むまで、うちへどうぞ」


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