祈りにかえて




 わかっていた。
 私はいつまでもここにはいられない。いつかここを出て、別の土地で生きていく。

 ずっと前から、わかっていたことだった。




 ファウスト様は、私以上に私の身の振り方を考えてくれていた。

 万屋さんは普段、人間の町で雑貨屋を営んでいる。私はこれから、彼女の店で住み込みで働かせてもらえるのだという。
 彼女があの町にいるのはあと一年かそこら、無理を言って延ばしてもらったとしてもせいぜい二年ほどだそうだが、その間は彼女が私の保護者として面倒を見てくれる。彼女が町を立ち去るまでに私は成人を迎えるし、店や家財は私が譲り受けることで話がついているから、彼女がいなくなった後も私が不自由することはない──
 ファウスト様が話す“リディのこれから”は、どこか現実味のない他人事のように聞こえる。
 それでも、他でもない私自身のことだ。
 家も、仕事も、お金も。不安がるようなことは何もない。何年も家に置いてもらった上に、ここを出てからのことも手筈を整えてもらって──これ以上何かを望むとしたら、それを厚顔無恥というのだろう。

「彼女はリディに雑貨屋を継いでもらえるなら願ってもない話だと言っているし、お人好しのきらいがあるから、きみとの相性も悪くないと思う。あとはきみの支度が済めば、いつでも住まいを移れる。一週間後でも三日後でも、ベルを鳴らせば彼女が迎えに来てくれるよ」

 どうしてか、無性に泣きたくなった。
 ここを出ていくことが寂しいのか、彼に追い出されたようで悲しいのか、それとも、感謝の気持ちで胸がいっぱいになったせいなのか。自分のことのなのに少しもわからない。
 ──お礼を、言わなければ。
 ただそれだけを強く思って、震えそうな唇で「何から何までありがとうございます」と伝える。彼は、静かに首を横に振った。

「きみはもっと早くここを出るべきだったんだ」
「……私が、人間だからですか?」

 思わずそう尋ねてしまった私に、彼は諭すように答えた。

「きみには未来があるから」



 出立の日はあっという間にやって来た。それもそのはず、持っていく荷物など大して無いので荷造りにはほとんど時間がかからない。それに、一番時間が必要な心の準備は、“そこそこ”で諦めた。すっかり終わるのを待っていたら、いつまでもベルを鳴らせそうになかったからだ。「心の準備がまだできないので」なんて理由で出立を遅らせられるほど図太い神経も、あいにく持ち合わせがない。
 結局、万屋さんを呼ぶベルを鳴らしたのはファウスト様から話があった日の三日後のことだ。
 その翌朝、万屋さんが私を迎えに来た。
 私を箒に乗せることを考えてか、いつもの大きな鞄は見当たらない。空が晴れ渡り風が穏やかなままなのは、彼女の荷物がないおかげなのかもしれなかった。

「本当にもういいんですか?」

 顔を合わせた彼女の第一声はそれだった。礼儀を大切にしているらしい彼女にしては、珍しいことである。

「思っていたより随分早くて驚きました」
「荷物、少ないので。だからもう大丈夫です。……むしろ、早すぎて万屋さんのご迷惑になっているということは……」
「あぁ、いいえ、そんなことはありませんよ。今回のお話、私としても店の後継者が見つかってとてもありがたいというか──一緒にいられる間に教えておきたいことも多いですから、正直、引っ越しが早いに越したことはないんですよね」
「そうなんですね。……これから、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。短い間ですけど、よろしくお願いしますね」

 彼女は私を安心させようとするかのように微笑んだ。
 きっと、ファウスト様の見立ては間違いなく正しい。
 彼女は良い魔女だ。気が良くて、親切で、その上押し付けがましくない。彼女が魔女であると露見すれば大変な目に遭うかもしれないが、その可能性を考慮しても、見知らぬ人間の元で暮らすより──それがどんなに善良な人間だとしても──、彼女の元で仕事を教わりながら暮らすほうがずっと良いに決まっている。

「ファウスト様。今まで……ありがとうございました」

 佇んでいるファウスト様に向き直って、深く頭を下げた。
 私が五体満足でいるのも弟にきちんとお別れを言えたのも、すべてファウスト様のおかげだ。私の都合なんて彼には関係ないのだからいつ放り出したってよかったはずなのに、この家に置いてくれて、食べるものと着るものをくれ、導きを与えてくれた。
 この感謝を伝えるには、どれだけ言葉を尽くせばいいのかわからない。私が知っている言葉だけでは、とてもじゃないが足りそうになかった。

「このご恩は絶対に忘れません」
「……いいよ、そういうのは」

 顔を上げると、ファウスト様は呆れているような戸惑っているような顔で私を見つめていた。

「きみが覚えているべきものは、生きていくのに必要な知識ときみの大切な家族のことだろう。僕のことまで覚えている必要はない」
「私が、全部覚えていたいんです」
「はぁ、そう……物好きだな」

 そう言ってファウスト様は眼鏡を押し上げた。すっかり見慣れた仕草も、最後だと思うと胸が詰まる。
 生きていればまた会える。目の前の彼も聞いている彼女も、そんな慰めを決して口にしない。それはきっと、彼らの誠実さなのだろう。
 込み上げてくるものを堪えようと顔を顰めた私を、ファウスト様は困ったときにする表情で見た。長い前髪の隙間から、夜明け前の色をした瞳が覗いている。
 言うか言うまいか躊躇っているかのような、何とも言い難い沈黙があった。
 やがて、彼がゆっくりと口を開く。

「……これを持っていきなさい」

 餞別だ。
 その言葉とともに差し出されたのは、ガラス瓶いっぱいのシュガーだった。
 ファウスト様が作る、魔法使いの不思議なシュガー。体力回復や精神安定の効果があるというそれは、ここでの暮らしの中で幾度も目にし、口にしたものだ。

「ありがとうございます……大切に使います」
「眠れないときや体調が優れないときに使うといい。わかっていると思うが、あまり人目に触れさせないように。入手経路を訝しがられて困るのはきみだからな」

 瓶を抱きしめてこくこく頷く。言われなくたって、こんなに貴重なもの、厳重に保管するに決まっている。
 ファウスト様も私を見て頷いて、「それから」と続けた。

「きみ自身も、人目には用心しなさい。きみの村からは距離がある町だとはいえ、油断できるほど遠いわけじゃない。きみを知る人間がいるかもしれない可能性は、念頭に置いておいたほうがいい」
「……もし、村の人と鉢合わせたら?」
「動揺しないことだ。万が一声をかけられたりしても、落ち着いて何もわからない振りをしていれば、よほどのことがない限り食い下がってはこないだろう」
「でも、名前を知られたら……」

 そう言うと、ファウスト様は僅かに眉を寄せた。

「言いたいことはわかるが、偽名を名乗るのはあまり勧めない」
「どうしてですか?」
「きみが上手くやれると思えないから」
「そんなこと」
「嘘をつき通して生きるには、リディは素直すぎる」

 思いのほか優しい声だった。「それに、きみが両親から貰った名前を呼ぶ人がいなくなってしまうだろう」
「そうですね」と、ずっと口を閉ざしていた万屋さんも控えめな声で口を挟む。

「私も偽名を使うのはお勧めしません。少しでも、自分の名前に愛着があるのなら」

 本当の名前を呼んでくれる人がいないのは、案外淋しいものですよ。
 続いた言葉は、ひりひりするほど実感のこもったものに感じられた。──思えば、私は未だに彼女の名前を知らない。ファウスト様が呼ぶところも、一度たりとも聞いたことがなかった。

「とはいえ、ラストネームは変えたほうがいいかもしれませんね。今、決めてしまいましょうか?」
「えっ」

 ぱっと調子の声を変えて彼女が言う。私は口籠もった。続け様に「何か候補はあります?」と問われても、急なことで何も思い浮かばない。
 困ってついファウスト様を見上げると、ファウスト様は狼狽えたような顔をした。

「どうして僕を見るんだ」
「ファウスト様の意見を聞きたくて……」

 突っぱねられるかと思ったが、ファウスト様は黙って顎に手をやった。真面目に考えてくれるらしいその仕草に、やはりどこまでも優しいひとなのだと実感する。
 ややあって彼の口から「ラ」の音だけが漏れた。続きがないので、思わず「ラ?」と繰り返す。彼は渋面を作った。

「いや、違う」
「違うって……?」
「…………ラム、はどうだろう」

 ラム、と口の中で転がしてみる。──リディ・ラム。

「ファウスト様のラストネームですか?」
「いや」
「違うんですか?」
「……僕のラストネームなんてそんな呪いみたいなもの、やるわけにいかないだろ」
「私は呪いなんて思いませんけど」
「きみがどう思うかは重要じゃない。決して祝福になりはしないよ」
「……じゃあ『ラム』なら違うんですね」
「あぁ、きっと──リディを守ってくれる」

 ファウスト様がはっきりとそう言うのなら、本当にそうなのだろう。
 ラム。もう一度、声に出さず繰り返した。
 実在する──あるいは実在した──誰かの名前なのだろうか。誰の名前なのだろう。ファウスト様は、何を考えてこの名前を挙げたのか。
 おそらく、それらの答えを私が知ることは一生ない。きっと知る必要もないのだ。
 ──ファウスト様が私の未来を考えて口にした名であるのなら、ただ、それだけで。
 私が首肯すると彼もまた頷いて、うつくしく丁寧に、いつもの呪文を唱えた。

「《サティルクナート・ムルクリード》」

 かつて私が神様の声だと思ったそれが、優しく鼓膜を打つ。
 僕は優しくない──いつだかそう言ったのと同じ口で、彼は言う。

「きみに祝福を」

 あぁ、どうしてこんなに優しいのだろう。
 結局、私は泣きながら何度もお礼を言って、万屋さんに背を撫でられて箒に乗った。

 ──ファウスト様がどう思っていようと、それは重要じゃない。私にとってのファウスト様は、真実誰より優しい人だった。


210201 / 210314
(次話から設定と捏造の盛り具合が増すので、嫌な予感がする方はこのお話を最終話としていただいて大丈夫だと思います)
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