鐘が告げるもの




「本当に宜しいんですか」
「あぁ。……無理を言ってすまない」
「いいえ、そんなことは。無理ならきっぱりお断りしていますし」

「では、詳しいことは追って──」




 ちりん、ちりん。
 可愛らしいベルの音がする。どうやら、ファウスト様が壁に吊るしてあるベルを鳴らした音のようだった。
 そのベルはいつからかそこにあった。果たしていつ頃からあったのか、はっきりとは覚えていない。私が拾われてから一年ほどの間には、なかったはずだと思う。保管場所が違っただけと言われればそれまでだが、少なくとも、その頃この音を耳にした覚えはない。
 いつの頃からか壁に吊るされるようになったそのベルについて、彼から説明されたことはなかったし、尋ねてみたこともなかった。
 ただ、わかったことがある。
 あれを鳴らすと、近いうちに万屋さんがやって来る。その日のうちにやって来ることもあれば、二、三日後、一週間後にやって来ることもあって、あのベルが合図なのだと気づくのには少し時間がかかった。
 いったい、どういう仕組みなのだろう。国中に響き渡るとは到底思えない、部屋の中でひっそりと空気を揺らす程度の音なのに、万屋さんには必ず伝わるらしい。つくづく不思議だ。魔法仕掛けに違いなくて、そうなると、私にはますます理屈のわからない代物だということになる。
 ちりん、ちりん。
 今度は誰も触れていないのに、ベルがひとりでに音を奏でた。彼女からの返答だ。
 
「なんだ、案外に近くにいるんだな」

 ファウスト様が独り言つ。
 私は思わず窓の外に目をやった。
 私が初めて彼女と会ったとき、外は酷い嵐だった。それは私が初めて目にする嵐でもあったから、今でもよく覚えている。あの日以降も彼女の訪問によって空が翳ったり風が吹き荒れたりすることは度々あり、おかげで彼女がやって来る前には空を見上げる癖がついてしまった。
 ファウスト様が言うには、あの日嵐になったのは彼女の真新しい傷と血に精霊が反応したからであって、とりたてて精霊が彼女を毛嫌いしているせいではないらしい。つまり、『彼女が来たからといって必ずしも天候が荒れるわけではない』ということだ。
 しかし、ファウスト様は重ねてこう説明した。
 彼女は仕事柄あちこちを飛び回っているから、様々な土地で様々なモノや気配を拾って(・・・)くる。おそらく、それが良くない。良いものも悪いものも混ざったその独特の気配が、精霊たちに警戒心を抱かせ、天候の悪化というかたちで現れているのだろう。
 見上げた空はまだ青く、風も穏やかだ。
 彼女が今日中にやって来るとしたら──今のうちに外での作業を終わらせておくべきである。

「私、畑を見てきます」

 ファウスト様にそう声をかけると、彼は「あぁ、それなら」と振り向きざまに軽く指を振った。「これを頼む」
 甕がひとつ、音もなく私の目の前までやってくる。みずから私の腕の中に収まった古めかしいそれは、私の片腕で抱えるには少し大きいくらいで、口のあたりまで肥料が入っているのに、せいぜいフライパン程度の重さしかない。

「野菜だけでいいよ。ハーブにはやらなくていい」

 一昨日畑の真上を通り過ぎていった嵐塩の影響か、昨日から野菜の葉が萎れているのだ。ハーブのほうは直撃を免れて生き生きしたままなのだが、だからこそ、野菜の元気のなさがより目立っている。
 くったりして元気のない青葉を気にかけていたファウスト様の横顔を思い出しながら、私は頷いた。


 万屋さんがやってきたのはそれから少し経って、太陽が傾き始める頃だった。嵐とは言わないまでもこれまでの例に漏れず昼間の穏やかさが嘘のような突風が吹き荒れたから、姿を見ずともすぐにわかった。
 真っ直ぐ歩くのもやっとという中、なんとか家へ飛びこむ。ファウスト様は戸口で私を出迎えると静かに呪文を唱えた。

「《サティルクナート・ムルクリード》」

 その一言で私の服についていた葉や泥は跡形もなくなり、風で乱れた髪は元通りになった。抱えていた甕も腕の中からぱっと消えたので、おそらく定位置へ戻されたのだろう。

「ご苦労様」
「ありがとうございます、ファウスト様。万屋さん、こんにちは」

 床に下ろした大きな鞄をがさごそしていた万屋さんに声をかけると、彼女は「こんにちは」と微笑んだ。「毎度お騒がせして、ごめんなさいね」

「今日も怪我を?」
「いいえ。今回は、荷が良くなかったようで」

 彼女はそれ以上を語らなかったが、ファウスト様が微妙な顔をしているところを見るに、おそらくファウスト様の仕事に関わる何かを運んできたのだろう。
 ファウスト様の仕事は呪い屋だ。それはここでの暮らしが何年になろうと、私が踏み込んではならない領域だと理解している。彼から話してくれることはないし、私から尋ねることもほとんどない。
 それでも知らされていることが少しだけあり、その一つが、『曰く付きの物を扱うこともある』ということだった。だから「よくわからないものには絶対に触れるな、関わるな」というお達しである。それらの“曰く付きの品”は、近場で手に入らない場合など万屋さんに依頼することもあるらしく、彼女の荷にも安易に触れてはならないと言いつけられている。
 なるほど風が強くなったのはそういうわけだったのか──訳知り顔で頷いていると、ファウスト様の周りでポットとティーカップが忙しなく動き始めた。

「手を洗っておいで、リディ。クッキーがあるよ。万屋からきみへのお土産だ」
「やった。ありがとうございます」

 思わずはしゃいでしまってから、少し子どもっぽかったかな、と恥ずかしくなった。
 ファウスト様と二人だけの暮らしをしていると、自分が年相応の振る舞いをできているのかわからない。何しろ彼は最初の頃からほとんど私の扱いを変えず、ずっと子ども扱いをする。先程の「手を洗っておいで」も、考えてみればまるで小さな子どもにするみたいな物言いだ。
 ──もっとも、彼からすれば私なんていつまでも赤ん坊のようなものなのだろうけれど。
 手を洗って戻ると、万屋さんは帰り支度をしていた。来たばかりだというのに、随分忙しない。

「万屋さん、もう帰っちゃうんですか」
「ええ、今日の用件は済みましたからね。でも、すぐにまたお会いすることになると思いますよ」
「はっきりとそう言うの、なんだか珍しいですね」

 万屋さんはただ微笑んで、「それではまた。これからもどうぞご贔屓に」といつもの別れの言葉だけを残して帰っていった。
 彼女が外へ出て行っても、風は落ち着いていた。“良くない荷”とやらを彼女がもう持っていないからだろうか。
 そよ風に揺れる木の葉を眺めながら、私は椅子に腰掛けた。テーブルには万屋さんが持ってきてくれたクッキーに、ファウスト様が用意してくれた紅茶。なんだか贅沢をしている気分になる。
 向かいに座っているファウスト様は、ティーカップを手に何やら考え込んでいるようだった。紅茶に口をつけずに、じっと透き通る水面を見つめている。今は帽子を被っていないということもあり、物憂げな瞳が珍しくよく見えた。
 私は声をかけるべきか否か悩んで、結局、何も言わず紅茶に口をつけた。期待通りの、やさしいほっとする味がする。これは、ファウスト様が淹れてくれた紅茶でしか味わえない味だった。
 同じ茶葉を使っても、自分で淹れると絶対にこの味を出せない。どうしてだろう、魔法で淹れると味が変わるのだろうか。
 そんなことを考えながらクッキーに手を伸ばす。彼が何も言わないので、私のクッキーと紅茶が減っていくばかり。
 紅茶がすっかりなくなる頃になって、ついにファウスト様が口を開いた。

「リディ、話がある」
「……なんでしょうか」

 返事をして、思わず姿勢を正した。なんとなく、そうしなければならないような気がしたからだ。
 ファウスト様は背筋を伸ばした私の目を見て、静かに告げた。

「きみのことを万屋に頼んだ」

 とっさに言葉が出てこなかった。
 どうしてと尋ねたい気もするし、やっぱりと笑いたい気もする。
 彼女と話をつける前に私にも一言言ってほしかった──そんな風にも思うし、恩人で家主の彼が決めることに私が我儘を言うわけにはいかないのだから、一言あろうとなかろうと同じことだったのだとも思った。
 わかっている。もとは明日には出て行けと言われていた身だ。今までここに置いてもらえただけで、十分すぎる。
 わかっていたことだ──そう思うのに、ようやく絞りだした返事はほんの少し震えていた。

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