キバナがジムリーダーに就任して間もない、人気が爆発的に上昇し始めた頃。ナックルスタジアム前に出待ちのファンが屯ろするようになって、問題になったことがある。

 大人しいファンが静かに並んで握手待ちでもしているだけなら良かった。しかし、そう穏やかに事が運ぶわけではないのが現実というもの。少し過激なファンと紛れ込んでいたアンチが衝突し、あわや傷害事件にまで発展しかけて、さすがに静観していられなくなった。
 そもそも、本来のナックルスタジアムは他のスタジアムに比べて“お堅い”のだ。スポンサーは銀行だし、仕事にはガラルの歴史的資料が納められた宝物庫の管理・警備が含まれている。加えて今は、スタジアムの地下にマクロコスモスのエネルギープラントがあるわけだから、ナックルスタジアムの近辺で騒ぎが起こるのは非常にまずいというわけだ。
 そういうことがあって、今のナックルスタジアムでは基本的に出待ちが禁止されている。偶にそのことを知らない観光客が団体で押しかけることがあるものの、そういうときは近隣住民が自発的に呼びかけを行っているらしく、騒ぎが起こったことは未だない。


 キバナが定時で上がったとき、スタジアム前はいつもと違って騒々しかった。跳ね橋の向こうに人だかりができている。
 一瞬出待ちかアンチのどちらかが何かしでかしたのかと考えたが、それにしては妙だ。誰もキバナを振り向かないのだ。
 集まっているのはほとんどが野次馬のようで、絶えずがやがやと人の声が飛び交っている。

「何? ケンカ?」「あの人どこかで見たことない?」「サーナイト連れてるほう?」「あれってもしかして今SNSで──」

 ケンカ。サーナイト。SNS。
 耳が拾ったいくつかの単語を繋ぎ合わせると、見慣れた顔が思い浮かんだ。

「悪い、ちょっと通してくれ」
「えっキバナさん!?」

 キバナは野次馬の間を縫うように進む。そのうち人垣のほうが少しずつ割れていって、簡単に進めるようになった。
 騒ぎの中心はポケモンセンターの隣、そらとぶタクシーの乗降場だ。まだ来ていないのかそれともメグを降ろして既に飛び立ったのか、アーマーガアの姿はないが、その白く囲われたエリアにメグがゆるく腕を組んで立っていた。
 メグの前には知らない女が仁王立ちしていて、その間でサーナイトとキリキザンが睨み合っている。まさに一触即発の雰囲気だ。

「──つまり、バトルのお誘いってことだよね?」

 メグの好戦的な声がする。不敵に笑うその顔は、間違いなくジムチャレンジのセミファイナルまで勝ち進んだ者のそれだった。
 知らない女はモンスターボールを握りしめて、メグを睨めつけた。

「ええ、そうよ!」
「じゃあ場所を変えよっか。ワイルドエリアでも行く?」
「どこでもいいけど、公平な審判が必要だわ」
「それならあそこに集まってる人たちの誰かに頼もう」

 そう言って人垣を指したメグと、キバナの目があった。「おい」「あれ?」キバナの低い声とメグのきょとんとした声が重なる。

「キバナじゃん。どうしたの」
「それはこっちのセリフな! お前こそこんなところで何してんだよ」
「バトル申し込まれてた」
「……ホントか?」

 キバナが見知らぬ女のほうに尋ねると、女はさっきまでの威勢が嘘のように身を縮こめて、小さく頷いた。

「あー……なんでか訊いてもいいか?」
「えっ! あの、えっと……」
「弱い女がキバナの周りにいるとキバナも弱くなっちゃうから、私がキバナをダメにしないか試したいんだって」

 女は泣きそうな顔をしているのに、代わりに答えたメグはけろりとしている。それどころかあっけらかんと「キバナが私ひとりの影響で弱くなるなんてことは絶対ないと思うんだけどね」なんて言うものだから、キバナはなんだか相手の女が可哀想になってしまった。挙げ句、「バトルで私が勝ったら納得してくれるって。確かにそれがシンプルでわかりやすくて一番だよね〜」だ。
 今来たばかりのキバナにでさえ色々なんとなく察しがつくのに、当のメグがこれでは、相手もいたたまれないだろう。
 キバナは二人の間に割って入った。ホッとしたようなサーナイトに「おまえはいつも偉いよな」と声をかける。それから、相手の女を見た。

「どうしてもって言うなら止めねーけど、よっぽど腕に覚えがあるか無類のバトル好きでもない限りこいつとのバトルはお勧めしないぜ」

 背後から「なんでよ!?」と声が飛んできて、キバナは苦笑した。すかさずサーナイトが宥めにいく。サーナイトは本当に優秀なパートナーだと思う。いっそ保護者と言い換えても良いくらい。
 納得していない様子なのは相手の女も同じで、赤い顔に赤い目でキバナを見上げてくる。

「その人、キバナさんとどういう関係なんですか」
「ジムチャレンジの同期。オレさまのもう一人のライバルだよ」

 キバナが即答すると、人だかりからどよめきが聞こえた。「今、ライバルって言ったの?」「知ってた?」「初耳!」
 キバナは思わずため息を吐いた。

「今のメグってここまで知名度ないのな……」
「その言い方失礼じゃない? ホントのことだけど!」

 ……メグの非難の声は、聞こえなかったことにするとして。

「気になるやつは調べてみな。過去のジムチャレンジの記録を少し探せば見つかると思うぜ。セミファイナルの映像とかも残ってるんじゃねーかな」
「セミファイナル……」
「まぁそういうことだから、心配はいらない。メグは強いし、メグが強くても弱くても、オレさまはオレさまだ。これからももっと強くなって、来年こそダンデを倒す」

 野次馬の誰かが指笛を吹いた。別の誰が拍手をすると、そこからぱらぱらと広がって、やがて大きな拍手に変わる。空気が変わったことにホッとして、キバナは笑って「応援よろしくな〜!」と群衆に手を振った。
 目の前の女も、気力を削がれたのか何も言わなかった。キバナ越しにメグを見ているようだったが、その目つきに先ほどまでの険はない。メグの側に立つサーナイトの様子からすると、おそらくもう心配はいらないだろう。
 跳ね橋の方に、騒ぎを聞きつけたらしいジムトレーナーたちの姿が見える。定時で上がらせたはずなのにまだ残っていたのか。いや、もう帰るところだったのに、この騒ぎでそうもいかなくなったのかもしれない。
 キバナは手招きをして、貧乏くじを引いてしまった部下たちを呼んだ。





「ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ありません……」
「ホントにな!」

 ジムトレーナーによって応接室に通されたメグは、膝に手を置いて深々と頭を下げた。お茶を運んできたスタッフが恐縮して「いえ…」と首を振りながら、キバナとメグの顔を交互に見遣る。
 野次馬がすっかりいなくなるまではメグを隔離したほうが良いだろうとスタジアムの中へ連れてきたものの、さっきからメグはこの調子で会う関係者全員に頭を下げ、皆を戸惑わせている。
 スタッフたちの認識では、メグが騒ぎの中心にいたのは事実だが、メグだけに非があるわけではない。そもそも事の発端には、メグと一緒にいる写真を撮られSNSに投稿されたキバナの無用心さが関係しているとも言える──スタッフの言にキバナは肩を竦めた。
 結果的に部下たちに余計な残業を強いる事態になったことは申し訳ないと思うが、写真の件については、全面的に勝手に投稿する方が悪い。それに、こうやってメグに突撃してきた彼女も彼女だし、危機回避し損ねたメグもメグだ。

「もっと上手いことかわせなかったのか?」
「うん……」
「つーかなんで普通にバトルする流れになってんだよ」
「タクシーを降りたら……目が……合ったので……」
「バトルバカにも程があんだろ」

 目と目があったら勝負の合図、ポケモントレーナーの常識、基本中の基本。それは確かにその通り……だとはいえ、どう考えても街中は例外だろう。
 キバナはばつの悪そうなメグを改めて見下ろした。
 確かにまぁ──写真が出回った件が原因で絡まれたなら、どちらかといえばメグは被害者だ。どうせメグはまたすぐにどこかへ旅に出るのだろうと、そのままにしていたキバナの落ち度でもある。メグはバトルも強いし、優秀なサーナイトがいつも側にいるから、その辺の一般トレーナーに絡まれたとしてもどうということもないだろうとたかを括った。そういう自覚がある。
 実際に今回は何事なく済んだし、仮にバトルになっていたとしてもメグが圧勝したに違いないが、それはあくまでも“今回”だ。もしも“次”があったとして、そのときもまた穏便に済むとは限らない。
 たとえば相手がトレーナーではない場合。ポケモンではなく人間同士の殴り合いになる可能性だって、ゼロではないのだ。
 おまけにその騒ぎにガラルのトップジムリーダーが絡んでいると知れれば、ゴシップ好きのメディアがミツハニーのように集まって来るだろう。事態がややこしくなること間違いなし。考えただけで頭が痛い。
 
「オレさまが通りかからなかったらと思うとゾッとするわ」
「えっ、いつもあそこから帰るんじゃないの」
「ちげーよ、いつもは関係者用。今日はそっち方面に用があったから正面から出たけど」
「マジかぁ。じゃあ今日はラッキーだったんだね」
「ラッキーってお前な…」

 呆れたキバナに、メグはへらりと笑う。

「ちょうどキバナが出てくる時間かなぁって思ったから、あの場所に降ろしてもらったんだよね」
「……うちのスタジアムは出待ち禁止ですけど?」
「別にそういうのじゃないですけど?」

 メグはキバナの語尾を真似ながら、おもむろにカバンを漁った。「じゃーん」言葉に身振りが追いついていない。一拍置いて、お目当てのものを見つけた手がメタリックな端末を掲げた。

「スマホデビューした」
「は!? 買うなら言えよ!」
「今言ったじゃんよ。買うって決めたのも今日だし。でね、さっそくキバナの連絡先を──」
「教えてあるはずだよな!?」
「それがさぁ、登録してたポケナビがついに電源入らなくなっちゃって! エントリーコールとマルチナビはまだ使えるんだけど、そっちにはなぜかキバナの番号登録してなかったんだよね」
「なんでだよ」
「なんでだろ。不思議だよね」

 のほほんと「ごめんね〜」と続けるメグに、キバナは呆れた。なんだってこいつはいつもこうなんだろう。メグらしいといえば、らしいのかもしれないが。
 これもきっと他意はなく、本当にただうっかりしていたのだろう。きっと。

「……まぁいいや。ちょっと貸せ」
「はーい」

 メグがゆるく返事をすると、スマホが元気よくキバナの前に飛び出してきた。どうやらもうちゃんとロトムが中に入っているようだ。
 キバナはメグのスマホに自分の連絡先を一通り登録し、それから自分のスマホにメグの連絡先を登録した。自分より先に登録されていた番号たちが気にならないでもなかったが、さすがに勝手に覗き見るような真似はしない。

「ハイ、登録終わり」
「ありがと!」
「前回のダンデ戦で撮ったオレさまも送っておいた」
「えっ、あれ本気だったの? いらないって言ったのに」
「ついでにこの前のキャンプで撮ったポケモンたちも」
「それは嬉しい」

 メグの手元に戻った端末を改めて眺める。メタリックなシルバー。ジュラルドンのようで悪くない。

「でもメグが選んだにしては珍しい色だよな」
「そう? 私好きだよ、こういうの」
「……ふーん」

 何かにつけて大好きな相棒のポケモンに似た色合いのものばかり選んでいたメグを、キバナは覚えている。
 まぁ、人の好みなんていくらでも変わるものだ。子どもが大人になるまでの間は、特にそうだろう。ラルトスみたいだからこの色がいい──そういう風に持ち物を選ぶのは楽しいが、自分の好みが確立するにつれてそういう選び方をしなくなっていくのは、よくある話だ。
 そんなもんだよな、とキバナが納得したとき。

「この色、ジュラルドンみたいでかっこよくない?」

 メグが気の抜ける笑みを浮かべて言うから、キバナはつい吹き出してしまった。
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