例のカロスの男は、一週間のガラル旅行を思う存分満喫して、満足そうに帰ったらしい。

「キバナのサイン、玄関に飾るって言って帰ったんだけどね」

 ワイルドエリアとナックルシティを繋ぐ長い石段を下りながら、メグは笑った。

「今朝、メールで写真が送られてきたの! 本当に玄関に飾ってあった。あの手帳を、金色の額縁に入れて!」
「あいつ、そんなにオレのファンだったのかよ」
「いやー、“ややファン”でも、本人に会ったら“凄くファン”になっちゃうことってあるでしょ? たぶんそういう感じなんだと思う。ガラルに来る前は、キバナの話なんて全然してなかったし……」
「……それをオレの目の前で言うのは失礼じゃねえ?」
「あはは、変に気を遣うほうが失礼かなって。手帳と額縁の組み合わせがなかなかシュールで面白かったよ──あ、写真見る?」
「見ない」
「なんでよー」
「自分のサイン見ても面白くねーもん」

 最後の一段を下りると同時に、モンスターボールからポケモンたちを出してやる。
 今日のワイルドエリアは全域で曇り、ところにより一時的に濃霧となる予報。散策日和とは言い難いが、メグにとっては些細なことらしい。メグはポケモンたちがめいっぱい伸びをしたり豪快に体を動かしたりしているのを見て、たいそうご満悦である。
 ワイルドエリアは、ポケモンたちをのびのび過ごさせてやるには持ってこいの場所だ。よく鍛えられたポケモンと、そのトレーナーに限っては。
 近所へ買い物に行く感覚でワイルドエリアを訪れているメグは忘れているかもしれないが、ワイルドエリアは誰でも簡単に立ち入れるような土地ではない。
 ほとんど人の手が入っていない広大な自然は、ガラルの半分といってもいいほどの面積を誇り、多種多様なポケモンが生息する。中には、人に育てられたポケモンよりも強い個体も多い。不慣れな者が道に迷い、彷徨っている間に強い野生のポケモンと出会して太刀打ちできず──なんてことも珍しくない場所だ。
 だから、相応の実力と入念な準備がいる。
 そのあたりを、メグはわかっているのだろうか。いくら旅慣れているとはいえ、もう少し緊張感を持ってほしいものだ。
 
「で、今日はどこまで行く気なんだよ」
「心配症だなぁ。今日は遠くには行かないよ、この辺で……あれ?」
 
 キバナの肩越しに何かを見つけたらしいメグが、一瞬目を丸くして、それからじっと目を凝らした。

「どうした?」
「あのスーツの人」
「スーツ?」

 キバナは思わず振り返り、顔をしかめた。数十メートル離れた岩場に、確かにスーツの男がいる。よほどの世間知らずか、それともよほどの自信家か。
 荷物も少なく、とても旅をする装いではない。ナックルシティ側から入ったのなら、ゲートに立っている管理スタッフが引き止めただろうし──とすると、南側のワイルドエリア駅から入ってここまで来たのだろうか。
 なんにせよ、ジムリーダーであるキバナは看過できない。とりあえず声をかけてみるか、と一歩踏み出したとき、メグが呟いた。「やっぱりそうだよね、サーナイト」
 サーナイトが肯定するように鳴く。

「やっぱりって」
「知り合い!」

 簡潔な答えを置いて、メグは駆け出した。サーナイトが滑るようにその後ろをついていく。ほかのポケモンたちは、ゆっくり追いかけていったり、一瞥して飛び去ったり。残されたキバナは、オンバーンのはばたきが遠ざかるのを聞いてから歩いてメグの後を追った。

「ダイゴさん!」

 手を振りながら、やけに弾んだ声で呼びかけたメグに男が振り返る。はがね色の髪の、キバナの知らない男。男は一瞬驚いたような顔をしたあと、柔和に微笑んだ。
 メグはあっという間に男の元まで駆けていった。背中しか見えないのに、不思議と表情が目に浮かぶ。
 キバナは自分の機嫌が急降下していくのを感じていた。
 近づくにつれ、二人の会話が聞き取れるようになる。

「──メグちゃんはいつガラルに戻ってきたんだい?」
「つい最近です! ダイゴさんは、どうしてガラルに?」
「旅行兼親父のお使いってところかな」
「お使い」
「近々、マクロコスモス社と業務提携することになりそうなんだ。それで、ご挨拶に伺ったんだよ」
「それ、私が聞いて大丈夫な話です?」
「これくらいなら大丈夫。きみが吹聴するとは思わないしね」

 どうやら、どこぞの御曹司らしい。近づいて見れば、たしかに着ているスーツも上等なものだとわかる。立ち居振る舞いも、一般人のそれではない。

「まさかダイゴさん、お父様の会社を継ぐんですか?」
「いや、そのつもりはないよ。ただ今回は、先方がボクをご指名らしくて、断るに断れなかったんだ。ボクのこと、いったいどこで聞きつけたんだか……」
「どこでって……マクロコスモスの社長はガラルリーグ運営委員会のトップですよ。ダイゴさんの噂くらい、届いててもおかしくないです」
「そういうことなんだろうね。……ところで、そちらは?」

 ダイゴに示されて、ようやくメグがキバナを振り返る。予想通りの喜色満面のまま、メグは「あぁ、紹介しますね!」と声を弾ませた。

「幼馴染みのキバナです。こう見えてもナックルスタジアムジムリーダーなんです」
「どうりで。どこかで見かけたことがあると思ったんだ。ボクはダイゴ。よろしく」

 差し出された手には大振りの指輪がいくつか嵌っている。にこやかに細められた瞳は、髪と同じはがね色をしていた。

「どうも」

 キバナは無愛想に握り返した。嗜めるメグをダイゴが宥める。
 ダイゴの所作はいかにも御曹司然としていた。装いも口調も、どこをとっても品がある──そういえば聞こえがいいが、今のキバナにはやけに気取って映った。

「ファンサは得意なくせに、なんでそう……。ダイゴさんは私がホウエンにいた頃にものすごくお世話になった人なんだよ。ホウエンチャンピオンで、強くて、物知りで──」
「メグちゃん。そこまで慕ってくれるきみに告げるのは少し心苦しいけど、ボクはもうチャンピオンじゃないんだ」
「えっ!?」
「引退したんだよね。今のチャンピオンはミクリで──ミクリのことは覚えてるかな」
「もちろんです、ミクリさんにもお世話になりましたから!」

 キバナを置いて、二人の会話は弾む。
 元ホウエンチャンピオンだという男を改めて見下ろした。その肩書に違わず、強いのだろう。目を見ればわかる。立ち居振る舞いにしても、上に立つことに慣れている者のそれだ。
 二人の会話の内容は始終知らない人間の名前が飛び出すばかりで、右から左へ流れていくだけだったが、随分親しげな様子がいやに気に触った。
 メグはずっとはしゃいでいる。ほのかに頬を染めて、きらきらした笑顔をダイゴに向けている。カロスの男が来たときなんて、本当になんでもなかったのだと思った。
 自分と話すときのメグはもっと気の抜けた顔で笑うし、こんなふうに声を弾ませはしない。
 ──面白くない。
 キバナの仄暗い淀みを感じ取ったのだろう、サーナイトが振り返った。困ったように首を傾げ、するするとキバナに近寄ってくる。思わずキバナは苦笑した。──お前のトレーナーは、なんにも気づいちゃいないのに。

「ぜひご案内させてください!」
「うーん、今日のところは気持ちだけ受け取っておくよ」
「でも」
「でもじゃないよ、デート中だろう?」
「えっ!」
「えっ? 違った?」
「全然違います!!」

 勘違いされるのがそんなに嫌かよ、と言いたくなるのをどうにか堪えた。
「違うんだ、そっか」とダイゴが呟く。そこにどんな意図があるのか、キバナには読み解けない。
はがね色の目に見つめられて、キバナは憮然とした面持ちで見下ろした。それでもダイゴはまったく物怖じすることなく見上げてくる。

「きみたちが良ければ、お願いしようかな」
「いいよね、キバナ!」

 ぱっと振り向いたメグの顔が期待に満ちていて、キバナは釈然としないまま頷いた。
 案内をするくらい、何も目くじらを立てるようなことではない。どうせワイルドエリアのどこかでバトルをして、その後にカレーを食べるくらいの予定でしかなかったのだ。ただなんとなく面白くない──そんな漠然とした、子どもみたいな我儘を言える年齢はとっくに過ぎているし、そこまで狭量なつもりもない。
 
 サーナイトが気遣わしげに、キバナの顔を見上げていた。
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