前編



 この日、蛙吹はいつもより少し遅く登校してきた。
 遅く、とはいっても、いつも時間にかなり余裕を持って登校しているため、今日だって予鈴が鳴るまでにはまだまだ時間がある。通学路もそれほど混雑はしておらず、校門の前まで来ても人影は疎らだ。
 しかし、蛙吹はそこで、異質なものを見た。
 何かに埋もれるようにして蹲っている子どもと、その傍に膝をついておろおろしている女子生徒。
 はじめは、迷子かなにかを見つけた女子生徒が慌てているのだと思った。そうでもなければ、こんなところにまだ小学校にも上がっていないような年頃の子どもが一人でいるわけがない。

「何があったのかしら」

 足早に近寄った蛙吹がそう声をかけると、女子生徒は涙に濡れた顔をあげた。

「あの、わ、わた、わたしっ…」

 一体何があったというのか、女子生徒はパニック状態に陥っているようだった。ただの迷子を偶然発見したにしては、異常ともいえるほどの取り乱しようだ。蛙吹はすぐに、自分の予想が外れていることを察した。

「どうしたの。落ち着いて」

 女子生徒に再び声をかけながら、さらに一歩近寄る。同時に、静かに蹲っている子どもの様子を伺った。
 ケガはないかしら、あなたはどこから来たの。
 そう声をかけるつもりだったのに、言葉にならなかった。子どもの周りにある“何か”がヒーロー科の女子制服であること、そして――その必死に涙をこらえている子どもの顔に、クラスメイトの面影があることに気がついたからだ。

「あなた、もしかして……守璃ちゃん?」

 蛙吹がおそるおそる尋ねると、子どもは泣き出す寸前の顔で頷いて、舌ったらずに言った。

「おねえちゃんは、だれ?」

□□□

 女子生徒の“個性”によって、護藤守璃が幼児化してしまった。いわゆる“個性”事故というやつだ。
 蛙吹は泣きじゃくる女子生徒からなんとか事情を聞き、女子生徒に職員室へ行くように言うと、自分は泣き出す寸前の守璃を脱げかけた制服ごと抱き上げてA組の教室に向かった。守璃を職員室に連れていく必要があることはわかっているが、その前に、サイズの合った服を着せてあげたかったからだ。もともと身につけていた衣類は下着も含めて今の守璃には大きすぎて、あまりにも可哀想なことになっている。靴だって合わないから、そのままでは歩くこともままならない。
 このまま職員室に連れていったとして、そこに子供服の備えがあるとは思えないが、教室に行けば――八百万が登校してさえいれば――八百万に頼んでちょうどいいサイズのものを用意してもらえる。
 “個性”事故が起きたこと、守璃が巻き込まれて記憶まで退行しているらしいこと、縮んだ守璃を一旦教室に連れていくこと。蛙吹は先に職員室へ行った女子生徒に先生への説明を頼んだが、泣いていた彼女が上手く説明できるか心配だった。職員室に着くまでに少しは気持ちが落ち着くと良いけれど――そう考えるのと同時に、それは望み薄のような気がする。自分の“個性”を嫌ってはいないが、今ばかりはエクトプラズムの“個性”が羨ましくなった。
 足早に教室に駆け込むと、運良く既に八百万は登校していた。自分の席につき、耳郎と談笑している。
 蛙吹がホッとしたのも束の間、芦戸の席の周りに集まっていたクラスメイトたちが「えっ!!」と大きな声をあげた。

「梅雨ちゃんその子だれ!?」
「子連れってどういうこと!?」

 その声に一斉に視線が集まり、途端に教室は騒がしくなった。銘銘が疑問や驚きを口にするせいで、何ひとつ聞き取れない。一気にクラスメイトが詰め寄ってきたことで、守璃が怯えたように蛙吹のブレザーの衿を掴んだ。
 弟と妹がいるおかげで子どもの扱いにはそれなりに慣れている蛙吹も、それが本来同い年であるはずの女の子となるとどうしても戸惑いがある。幼い姿になっているとはいえ、本人の面影がしっかりとあるから尚更だ。
 それでも蛙吹は守璃を抱き直し、「大丈夫よ守璃ちゃん。怖くないわ」と声をかけた。

「守璃ちゃんって……えっ!?」
「護藤なの!?」
「何がどうなってそうなってしまったんだ!?」
「大変ですわ、制服が…! すぐに何かかわりのものをお作りします!」
「ありがとう百ちゃん。話が早くて助かるわ」

 八百万が子供服を創造してくれている間に、蛙吹はクラスメイトに事情を説明した。その間も守璃は怯えた表情で蛙吹にしがみついていて、誰かが話しかけても頷くか首を振るかのどちらかでしか答えない。
 説明の途中でさらに他のクラスメイトが登校してくると、守璃はますます表情を強張らせてしまった。

「梅雨ちゃんから離れないね」
「人見知りなんだろうか」
「今の守璃ちゃんにとっては私たちみんな知らない人なのよ。わけもわからず知らない場所に連れてこられた挙げ句、急に囲まれて質問攻めにされたら人見知りでなくたって怖いわ」
「た、確かに…! 俺たちの配慮が足りなかった、すまない護藤くん」
「蛙吹さん、護藤さん、できましたわ! さあ、早くこれを!」

 八百万は服と一緒に衝立を創造してくれていた。早速それを教室の一番後ろに置き、守璃の机がある一画が周りから見えないようにする。それから蛙吹はその裏に守璃をつれていき、出来立てのワンピースに着替えさせた。まるで本当に年の離れた妹の世話をしているようで、妙な気分である。
 ちょうど守璃の着替えが終わったとき、教室に相澤が入って来た。HRの時間にはまだ早い。

「事情は聞いて来た。蛙吹と護藤はいるか」

 険しい表情の相澤が訊くと、耳郎が答えた。

「いますよ。梅雨ちゃん、守璃の着替え終わった?」
「ええ、終わったわ。守璃ちゃん、行きましょ」

 蛙吹に手を引かれゆっくりと衝立の陰から出てきた守璃が、相澤の顔を見るなりパッと表情を変える。涙をこらえる表情から、安心したような表情、それからまた泣きそうな表情へ。その変わりように、教室にいた誰もが驚いた。

「イレイザーヘッドさん…!」

 守璃が蛙吹の手を離し、相澤の元へ駆けていく。驚きのあまりポカンと見つめるクラスメイト一同には見向きもしない。
 蛙吹のことも他のクラスメイトのこともわからず怯えていた守璃が、相澤のことをイレイザーヘッドと呼び、自ら駆け寄る。それは、守璃がその歳の頃には相澤――ひいてはイレイザーヘッドと面識があったということになるのではないだろうか?
 驚く蛙吹やクラスメイトをよそに、守璃は相澤の足元でぼろぼろと泣き出した。蛙吹の目にはそれが、まるで迷子になった子どもがようやく親と再会できたときのように映った。それまで堪えていた不安と恐怖に安堵が上乗せされ、小さな体では抱えきれなかった感情とともに溢れる涙だ。
 しかし、守璃が泣き出したことで、一番近くにいた切島は慌て始めた。子どもの扱いに不慣れなのか、あたふたと手を動かしている。

「うおっ、だ、大丈夫か!? 相澤先生の顔が怖かったのか…?」
「大丈夫だよ」

 そう言ったのは意外にも相澤だった。
 相澤はぐすぐすしている守璃に目線を合わせるようにしゃがみこんで、袖で涙を拭う。続けて「どっか痛いところ、おかしなところは」と尋ねた声は、心なしかいつもより柔らかい響きを持っていた。

「ううん、ない、です。でも、ここ、どこ」
「雄英高校だ」
「こうこう? ……がっこうって、こと? なんで?」
「……今、何歳だ?」
「えっと、ごさい…」
「五歳……そうか、五歳か」

 相澤が険しい顔で頭をかく。
 
「先生、守璃ちゃんはどのくらいで元に戻れそうなんですか?」

 葉隠が尋ねると、相澤はため息混じりに答えた。「わからん」

「事故を起こした生徒の話だと、持続時間は最大十二時間。ただし戻り方も退行の程度も不規則。一気に退行したものが数時間後に一瞬で元に戻ることもあれば、ほんの少しだけ退行したものが段階的に元に戻るようなこともあるらしい」
「そんな“個性”あるんスか!?」
「俺も初めて見るよ。……まぁ、“個性”も多様化してるからな」

 言葉を切った相澤が守璃の顔を見やった。蛙吹が見つけたときに比べれば随分マシだが、守璃はやっぱり不安げな表情を浮かべていて、水っぽい赤らんだ目で相澤を見上げている。
 すると相澤は、慣れたように守璃の頭を一撫でした。驚いたのは蛙吹だけではない。耳郎は目を見開き、切島と瀬呂は二度見し、葉隠は「えっ!」と声を上げた。
 そのとき相澤がほんの一瞬、気まずそうな表情をしたように見えたのは、蛙吹の気のせいだったのかもしれない。
 立ち上がった相澤が口を開く。それはいつも通りの声色だった。

「とりあえず護藤は職員室に連れていく。HRには来るから、おまえらちゃんと席ついてろよ」

□□□

「ヤベェ、本当に幼児化してる!」
「相澤くんの陰に隠れちゃって……カワイイ!」

 職員室に連れて来たは良いが、守璃は相澤に引っ付いて離れない。プレゼント・マイクやミッドナイトが面白がって寄ってくるので尚更だ。
 相澤は頭を抱えたくなった。五歳といえば、守璃の“個性”が最も不安定だった頃だ。記憶と精神が五歳児のそれに戻ってしまっているというのなら、“個性”のコントロールに関しても同様のことが懸念される。精神的なストレスが大きいだろうこの状況下で、今まで暴走させずに済んでいるのが奇跡かもしれないのだ。
 ミッドナイトはともかくとしても、せめてマイクはもう少し大人しくして距離を取っていてほしいところだった。初対面で守璃に警戒された過去があるのを忘れたのだろうか。
 相澤の険しい表情を見かねてか、「笑い事じゃないですよ。体に悪影響がないとはいえ……」と13号が二人を嗜めた。

「子どもに懐かれてるイレイザーなんてウルトラレアだぜ!?」
「子どもっていうか、護藤さんじゃないですか。退行してるとはいえ、妹でしょう?」
「そりゃそうだけど――イレイザーん家で守璃ちゃん引き取ったのっていつなんだっけ?」
「小学校に上がってからだ。……今は五歳らしいから、今のこいつにとって俺はあくまで顔見知りのヒーローだな」
「えっ、そうなんですか」

 13号は驚いたように言って、守璃を見下ろした。守璃は相変わらず、相澤の後ろに隠れたままだ。13号はしゃがみこんで、小さな子どもに言い聞かせるような口調で――実際今は五歳児なのでそれで正しい――守璃に話しかけた。

「こんにちは、護藤さん。僕は13号。僕や、ここにいるみんなはヒーローなんです。誰も君をいじめたりしない。怖がらないで――あ、今は守璃ちゃんって呼んだほうがいいですかね?」
「さあな、そこは任せる。ただ、詰め寄られるのは苦手なはずだから、最初のうちはある程度の距離を保ってやってくれ」
「そうなんですね、わかりました」
「さっすがお兄ちゃん、よくわかってるわね〜」
「茶々いれるのはやめてください」

 相澤は顔をしかめたが、守璃がおずおずと顔を出したので、文句は飲み込んでおくことにした。今は守璃を落ち着かせることが先決だ。

「さっき13号が言った通り、全員ヒーローだ。安心していい、怖くない」
「そうだぜ守璃ちゃん!!」
「マイク……お前は黙って離れてろ」
「酷くね!?」
「初対面のとき警戒されまくったの忘れたのか」
「初対面……あーアレな! そういやそうだった!!」
「思い出したなら今すぐ離れて声のボリュームを下げろ。いいな」
「オーケーオーケー!! わかったから怖い顔すんなよお兄ちゃん!」
「うるせえ」
「ホント辛辣!」

 守璃がマイクの声にびくりと肩を震わせ、相澤の脚にしがみつく。その丸い頭を相澤が撫でると、ミッドナイトが面白そうに口角をつり上げた。

「相澤くんって、身内には結構過保護なタイプ? 意外」
「この状態の守璃に余計なストレスを与えたくないだけです。“個性”が暴発する可能性がある」
「本当にそれだけ? まぁ、“個性”の件は確かに気をつけなくちゃいけないけど。でも、相澤くんがいるんだから九割方大丈夫でしょ。万が一のときは私の“個性”で眠らせても良いし」
「……そうですね、いざというときはお願いします」
「ふふ、任せなさい!」

 ミッドナイトの笑顔にはどこか含みがある。相澤の眉間には自然としわが寄ったが、守璃が眉の下がった困り顔で見上げているのに気づき、表情を取り繕った。子どもの不安をむやみに煽るべきではない。
 ふと壁掛け時計を見上げた13号が「そろそろHRですよ」と口を挟んだ。

「護藤さん、どうします? 先輩から離れたくなさそうですけど……」
「そうだな……」

 リカバリーガールのところへ預けようかとも考えたが、今、保健室には今回の事故のもう一人の当事者がいる。
 職員室に来たときには既に泣きじゃくっていたあの女子生徒は、他人を巻き込んでしまったのがよほどショックだったのだろう。なんとか事情は聞き出せたもののひどく取り乱していて、そのまま教室に戻すわけにはいかなかった。リカバリーガールがケアに当たってくれているその最中に、巻き込まれた方の生徒――それも、事故の影響が一目に見てとれる状態の――を連れていくのは良策とはいえない。

「……どうしたもんかな」

 ため息混じりに見下ろせば、守璃は首を傾げてじっと相澤を見上げていた。

⇒後編
180925 / 181020
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