ただ過ぎた日々にもずっといる



 玄関のドアを開けると、部屋の奥には人の気配があって、明かりも灯り、空きっ腹を刺激するにおいがする。
 実家暮らしだった頃には当たり前のものだったそういう生活も、一人暮らしを始めてからはとんと無縁だった。ご飯を作って相澤の帰りを待っていてくれるような相手はいなかったし、合鍵を使ってふらりと訪れるような恋人もいない。となれば、必要最低限の家財しかない殺風景な部屋は、たった一人の家主が帰るまで静寂を守っているしかない。それでもあえて仕事を終えて帰って来た相澤を出迎えるものを挙げるなら、朝自分が出たときのままの部屋に閉じ込められた夏のじっとり蒸した空気だとか、冬の冷えきった空気だとかそんなものだ。
 相澤の性格上、それを特段どうと思うこともない。一人暮らしの初日でさえ感傷とは無縁だった。そりゃあ確かに、帰って来て部屋が蒸し暑ければ辟易して顔をしかめるし、寒ければ眉をひそめて身震いもするが、だからといって人恋しく思ったことはない。食事はコンビニでもスーパーでもファストフード店でも、出来合いを手軽に調達できる。自分のほかに人の気配がないのも、気楽で良い。
 結婚願望もなく、そもそも恋愛なんて非合理極まるものに現を抜かすつもりのない相澤としては、ずっとそういう生活が続くものと思っていた。
 ところが、どうだ。
 この数ヶ月、相澤が玄関のドアを開ければ部屋の奥には人の気配があって、それどころか明かりもついており、空きっ腹を刺激するにおいがする。――まるで、実家にいた頃のような。

「あ、おかえりなさい」

 守璃がリビングから顔を出す。何か良いことでもあったのか、機嫌が良さそうだ。表情が明るい。
 相澤は「ただいま」と返して、何とはなしにその丸い頭に掌をのせた。そのまま、ぽん、と跳ねるように撫でる。
 ほとんど無意識にしてしまう癖のようなもので、これまでにもう何度こうしたかわからない。けれども無意識に手を伸ばしてしまうくらいなのだから、おそらく相当な数になるのだろう。宥めるとき、励ますとき、褒めるとき――思えばどんなときでも頭を撫でてやっていた気がする。
 眉を下げて笑った守璃は、「夕飯食べるんだよね?」と相澤を見上げた。
 守璃が家事を引き受けてくれるようになってからというもの、夕飯が要らないときは事前に連絡を入れるようにしている。帰りが遅くなるときもだ。意外とマメ、などと同僚に茶化されたのは記憶に新しい。それでも守璃は、忙しさゆえに相澤が連絡を入れられなかった可能性を考えてしまうのか、相澤が帰宅するとこうして確認することがある。

「食うよ。先に着替えてくる」
「じゃあその間に温めとくね」
「……肉じゃがか?」
「当たり。凄いね、においでわかったの?」

 守璃はけらけら笑った。

「お茶子ちゃんと和食トークしたら、食べたくなっちゃって」

 一体どんな話をしているんだと思わなくもなかったが、相澤は深く追及することはせず、自室に向かった。

■■■


 相澤が実家を離れ雄英近くの物件で一人暮らしを始めたのは、母校・雄英で教職に就かないかという話を引き受けることになったからだが、実はそれ以前にも、一人暮らしをしていた時期はある。
 守璃を相澤家で引き取ることが決まったとき、一人暮らしをやめて実家に戻ったかたちだ。
 まだ直っていない守璃の“個性”暴走癖について心配した母親に頼まれたからでもあるが、そうでなくとも相澤は――一時的にでも――実家に戻るつもりだった。
 環境の変化が守璃にどう影響を及ぼすかわからない。事件直後と比べれば落ち着いたとはいえ、頻度は依然として多いまま。そもそもその年齢で“個性”暴走を起こしてしまうこと自体に問題がある。
 相澤家に来て早々に暴走させ、家を丸々障壁にとじこめてしまうようなことがあれば、守璃に余計なトラウマを増やしかねない。トラウマが増えれば、暴走癖を矯正するのがますます困難になってしまう。幼い少女の将来を考えても、プロヒーロー・イレイザーヘッドが負うべき責任としても、それだけは避けなければならなかった。
 幸い、相澤が立ち上げたヒーロー事務所は実家からも通勤圏内だった。通勤時間が多少延びることにさえ目を瞑れば、実家に戻ることにはなんの不都合もない。
 帰る家、家族、暮らし――何もかもが新しくなった環境に不安そうにしていた守璃も、相澤がいるときは少しだけ表情を和らげた。守璃にとっては、急激に変化したこの環境で最も馴染み深い存在が相澤だ。知っている人間が近くにいると安心するのだろう。万が一“個性”を暴走させてしまったとしても、相澤がいればすぐに対処できるという安心感もあるはずだ。
 守璃が相澤家に慣れるまで、そして、“個性”をある程度安定して扱えるようになるまでは、近くで見守ろうと思っていた。そうなる頃には、きっと守璃自身が相澤を必要としなくなる。

 初めのうちは大人しく口数の少なかった守璃だったが、両親との間にあったよそよそしさは日を追うごとに薄れていった。守璃がもともと素直な性格をしていたこともあり、すっかり打ち解けるまでそう時間はかからなかった。よく話し、よく笑う。両親もそんな守璃のことをとても可愛がっている。
 相澤が帰宅すると、家の中からはいつも明るい声が聞こえた。

「あっ、お兄ちゃん」

 最早ぎこちなさなど微塵もうかがえない口調で、守璃は相澤をお兄ちゃんと呼ぶ。リビングから覗いた顔は、施設にいた頃とはまるで違う表情だ。

「おかえりなさい!」
「……ただいま」
「おかえり、意外と早かったのね。夕飯は? どこかで食べてきた?」
「いや、まだ」
「じゃあ温めるから、先に着替えてきちゃいなさい」

 母がキッチンに立つと、守璃はその後ろを着いていく。

「守璃、お手伝いしてくれる?」
「うん。お皿ならべるね!」
「ふふ、ありがとう」

 ――お父さんとも相談したんだけど……消太が面倒みてるっていう女の子、うちで引き取ることってできない?

 母親がそう言い出したときは、いくら相澤といえど驚きを隠せなかった。守璃はいわゆるワケありの子どもだったため、里親も見つからなかった。どうなることかと思ったものだが、なかなかどうして良好である。“個性”のほうはまだ時間がかかりそうだが、この分なら、相澤がいなくても問題ない程度になるのも想定より早いかもしれない。
 相澤が見守るのは、守璃が相澤家に慣れるまで。そして、“個性”をある程度安定して扱えるようになるまで。
 再び相澤が一人暮らしをするようになれば、おのずと距離も離れる。そうして自然に、相澤は守璃の生活からフェードアウトしていくことになるだろう。

 ――と、思っていたのだが。

■■■


 相澤が着替えを済ませて戻ると、守璃はどこかで聞いたことがある鼻歌を歌いながら茶碗に白飯をよそっていた。
 肉じゃがにほうれん草の胡麻和え、きんぴらごぼう――テーブルに並べられるのは、麗日としたという和食トークの影響を多分に感じられるメニューだ。それらはもちろん守璃が作ったもので、皿を並べるだけだった昔を思い出すと、妙に感慨深いものがある。
 相澤はいただきますと手を合わせてから、用意された夕食に箸をつけた。母親に習ったのだろうから当然といえば当然なのだが、守璃の作る食事はどれも馴染み深い味がする。
 食べ始めた相澤を見て満足そうにした守璃は、やはり機嫌が良い。ふんふん聞こえてくる鼻歌は――そうだ、守璃が相澤家に来たばかりの頃によく観ていた有名アニメ映画のテーマソングだ。

「何か良いことでもあったのか」
「えっ?」
「鼻歌」
「あー……」

 守璃は気恥ずかしそうに眉を下げた。

「特に何があったわけでもないんだけど……煩かった?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ随分機嫌が良いなと思っただけだ」
「そんなに態度に出てたかな……ほんとに大したことじゃないんだよ。強いていえば、今日は“ちょっと良いこと”がたくさんあったなあっていうくらいで――」

 たとえば小テストの結果が良かったこと。
 “個性”の新しい応用法を閃いて試してみたら、手応えが良かったこと。
 演習でオールマイトに褒められたこと。
 友だちとのお喋りは今日もいつもと変わらずとても楽しかったこと。
 帰り道で可愛い猫を見かけたこと。人懐こくすり寄って来たので写真を撮って送ったら、先ほど相手からも可愛い猫の動画が送られてきたこと。
 ぽつぽつと守璃が挙げる事柄は確かにどれも些細なものだった。そういう一つ一つに喜びを感じられるのは、守璃の長所だろう。

「……誰に送ったんだ?」
「うん?」
「写真」
「あぁ……心操くん」

 守璃の口から出てきたのは意外な名前だった。
「C組のか」と思わず相澤が言うと、守璃は「そ!」と頷く。

「おうちで飼ってるって聞いたときから実はずっと気になってて! 心操くん家の猫ちゃん、めちゃめちゃ可愛いんだよー」

 いつの間に親しくなったのか、と思わないでもなかったが、そこに口を挟むのは野暮というものに違いなかった。いくら守璃が、スマホを操作して目当ての動画を「ほら」と相澤に見せてくるような無邪気さをまだ持ち合わせているとしても、守璃はもう小さな子どもではない。
 相変わらず守璃の生活には相澤が溶け込んだままで、フェードアウトするのは見込みよりも当分先になりそうだが、それは守璃が昔と変わらないからではないのだ。確実に守璃は成長している。そして、これからも変わっていく。
 結局のところいつまで守璃を見守ることになるのかわからないが、とりたてて守璃がいる暮らしに不満があるわけでもない。それどころか守璃が家事を一手に引き受けている現状を思えば、むしろ相澤が世話をされているようなものかもしれない。
 守璃の手にしたスマホでは猫が猫じゃらしを追いかけてぴょこぴょこ動き回る動画が再生されている。時々映りこむ手は、おそらく心操のものなのだろう。

「うちの猫も見たいって言われたから写真送ろうかと思うんだけど、一番よく撮れてるのって兄さんが映りこんでるやつなんだよね」
「それはやめとけ」

190127 / title::エナメル
40万打企画@なめこさん
(心操家&相澤家が猫を飼っているという捏造設定)
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