あなたは人の子だった


side ジャーファル


 彼女は元来賢い人間であり、これまでの生業柄とでもいうのだろうか、頭の回転は悪くないし勘も良い。だからこそ昨夜も、明確な理由を本人が持っていなかったにしても勘の良さ故に部屋に戻らないことを選んだのだろうし、そのお陰で、自分にとっても彼女にとっても厄介事に成りかねなかった出来事を一つ回避出来たのである。
 しかし、だからといって、野宿とは──彼女が外で眠るという選択をしたことは、正直なところ予想外であった。とはいえ、同時に、やはりそうかと思う自分もいることもまた事実である。
 暗殺者として生きる中では、そういう日も決して少なくはなかっただろう。故に培われた経験、危険を回避できるという自負。それらがあるからこその行動だったことは想像に難くない。そして、言い換えれば──自分の邪推が過ぎるのでなければ──彼女はそれ以外の行動を取れなかったのだろう。取らなかったのではなく。思い至らなかったのではなく。初めから、彼女の中に存在し得ない発想だったのだろうと思う。
 彼女は未だ、過去と決別しきれていないのだ。
 今の彼女には頼れる人間がいる。頼ることができる場所がある。それこそヤムライハやピスティは快く彼女に手を貸すだろうし、彼女が名も知らぬ国民たちでさえ、彼女が困っていると知れば一夜の宿を提供しようと申し出る者が幾人もいるに違いない。けれども、彼女はそれに気がつけなかった。
 ──気がつけるようになるまで、あとどれ程の時間がかかるだろうか。
 そんなことを考えながら、向かう先は王の元である。
 彼女が部屋に居ないことを知ったのは、王の悪癖故であった。夜更けか明け方かはたまた一晩中いたのか、明確な時間は定かではないが、兎にも角にも王は彼女の部屋を訪れていたらしい。誰もが眠りにつく時間帯に、だ。非常に頭の痛い話である。彼女の部屋を訪れた王は彼女の不在に気がつき、彼女の帰りを待ったのかそれとも捜していたのか時間を改めて部屋を訪ねたのか──この点もやはり定かではないのだが、夜が明けても彼女が部屋に戻らなかったことを心配し、私に捜索を命じたという訳だ。嗚呼、なんたることか。なんの目的で彼女を訪ねたのかも定かではない。王は語る気が無いらしい。溜息の数が増えるのも致し方ない。
 重厚な造りの扉を叩き、押し開ければ、憂いげに椅子に腰かけていた王は立ち上がった。

「見つかったんだな?」
「はい。森で眠りこけていましたよ」
「一人で?」

 王は眉根を寄せて問うた。
 無意識に逡巡し、しかし彼らに疚しいことなど一つも無かったのだからと、正直に答えた。

「いえ、マスルールも一緒でした」
「マスルールか」

 ゆっくりと瞬きをし、再び豪奢な椅子に腰を下ろす。小さな溜息は、安堵から出たものだろうか、それとも。
 測りかねているうちに、シンは何とも形容し難い複雑な表情で言葉を継いだ。

「相変わらず仲が良いんだな」
「そのようですね。マスルールだけでなく、他の八人将とも良い友人関係を築けているようです。王としても、一安心といったところでは?」
「ああ……そうなんだがな」
「……何か、不満が?」
「いや……」

 王は言葉を濁して髪を掻きあげる。

「お前は、どう思う」
「どう、とは?」
「……よそよそしいだろう。昔はもっと表情も豊かで」

 言葉は十分とは言い難かったが、彼女のことを指しているのだということは容易に解った。

「今も表情に乏しいというわけではないように思いますが」
「俺以外に対してはな」
「そんなことは……」
「無いと言い切れるか? 俺はまだ、あいつが笑った顔を殆ど見ていないんだ」

 溜息をついたシンの表情はやはり読めない。

「皆、あいつに表情が増えてきたと……笑顔が増えて良かったと言う。俺は昨日漸く、久しぶりに真顔と困り顔以外の表情を見たような気がするくらいなのに」
「……まさか、その話をしに彼女の部屋へ?」
「……まあ……そんなところだ。ずっと避けられ続けていたから──自業自得と言われればそれまでだが──強行手段も必要だろう」

 まるで、拗ねている子供のようだと思った。
 シンは元々、女たらしである以前に人たらしであるから、厄介事、例えば利害関係の類いだとか、そういった込み入ったものが絡まなければ、友好関係を築くこと自体は難なくこなせる人間である。それなのに、旧い付き合いであるはずの彼女は、再会してからというもの何時まで経ってもよそよそしい。思い当たる節が当人でない自分にも幾つかあるくらいである。彼女に入れ込んでいるシンが、何も思わぬはずもなかったのだ。

「貴方の立場を考えると、どうしても遠慮してしまうのでしょう。王族に仕えていた者なら、仕方の無いことかと」
「……要らないのにな、そんなものは。確かに俺はもう貧しい漁村の少年じゃないが、それでも、俺は俺だ。エルももうティソン村の痩せぎすの女の子じゃない。見違えるほど綺麗になって、色んなものを背負って、でも、やっぱりエルなんだ。立場が変わっても、歳をとっても、俺の、大事な──」
「そういうことを私に言われても困りますよ。本人に言ってください」
「口説き文句なんかあいつは聞いてくれないさ」
「それこそ自業自得です」

 シンは少し笑ったようだった。確かに、彼女が喜んだり恥じらったりすることは想像に難く、むしろ彼女が戸惑いをありありと浮かべた顔をするのが目に浮かぶ。そうしてきっと思い悩んで、目の下に濃い隈を拵えるのだろう。
 ここ暫くの間に随分と彼女のことが解ってきたらしい自分に気づくのと同時に、「誰よりもあいつの近くにいたのは俺だったのにな」とシンが呟いた。

「……今もそうではないのですか」
「今もそうでありたいさ……だが、実際はどうだろうな。お前たちのほうが近いだろ」
「……いえ、私は」

 不意に、天命の限り生きると言ったあの日の、彼女のたおやかな笑顔を思い出した。それから、控え目にでも、初めて彼女が声をあげて笑った時のことを。
 やはりあれらの笑顔は、シンが見るべきものであったと思う。しかし、そうだったとしても、それを真っ先に目にしてしまったのが自分であった事実を変えることなど、どうあっても出来ないのだった。

170421 
- ナノ -