月はやさしいからね


 ピスティと連れ立ってシンドバッドのところへ行くと、いつもより心なしかうきうきと楽しそうに見えるシンドバッドは「綺麗だ」と言って笑みを深めた。それは、ともすれば国中の女性をうっとりと惚けさせるようなものだったのかもしれない。けれども私は、彼が十四の頃には既に気障な台詞がとんとんと飛び出す口を持っていたことを覚えている。真に受けて照れる可愛げなど持ち合わせていない私は、曖昧に笑った。

「こうして見ると、エルももう大人の女性なんだと改めて実感するな」
「やだー! 王様ったら、エルさんのこといやらしい目で見てません?」
「なっ、そんなことはないぞ!」

 軽口を叩き合う二人がいつもと変わらない服装をしているのを見ると、やはり私ばかりが着飾るのはおかしいような気がしてくるものの、しかし、最早後には引けない。ピスティが許してくれないだろうし、何よりまた部屋に戻って着替えをするような時間もないのである。もう一度自分の姿を見下ろし、ベールをよりしっかりと巻きつけた。

「そろそろ行こう」

 当たり前のように差し出された手をとるべきか 逡巡する間もなく、シンドバッドが私の手を取った。大きな手だ、とぼんやりと思う。マスルールの手ほどの大きさではないだろうに、不思議ととても大きく感じられる。
 ピスティはその様子を見て茶化すように笑ったあと、「じゃあ、宴でね!」と軽やかな足取りで歩いていった。小さな後ろ姿が見る間に遠ざかっていく。金髪が角を曲がって見えなくなれば、ゆるく握られた手を無視するわけにもいかなくなって、私はゆっくりとシンドバッドを見上げた。私を見つめる双眸はきらりと光っている。

***

「──今日は、皆に紹介したい人がいる!」

 国中の人々が集まっているだろう広場を、私は少し高いところから見ていた。シンドバッドの斜め後ろに控えているだけで、十分に目立ってしまっていることに嫌でも気がつく。見上げている国民たちの眼差しは、国王たるシンドバッドさえすり抜けて私にまで届いていた。
 こちらを振り向いたシンドバッドに促され、そっと一歩踏み出す。広場の誰かが声をあげたような気がした。

「既に知っている者もいるだろうが、改めて紹介させてくれ。彼女はエルハーム。薬草師として、このシンドリアに滞在してくれることになった」

 シンドバッドが一度言葉を切る。私が何か言うのを待っているようにも見えたけれども、国中の人間が集まっているこんな場所で発する言葉などそうそう思いつくものではなかった。何せ私のちっぽけな人生の中で、一度たりとも経験したことのない状況なのだ。仕方がない。唇を引き結んだまま深く一礼をすると、突然大きな音が鼓膜を揺らした。──それは、拍手の音だった。

「彼女とは生まれた頃からの長い付き合いでね、家族同然に大切な、自慢の友だ。きっと皆にとってもそうなるだろうと確信している」

 国民に向けられていたはずの視線が一瞬交わって、思わず息が詰まった。まるで、心臓を掴まれたかのような。彼の目が優しくて、それでいて、どこまでも深い色をしていたからだった。
 私は誰にも気づかれないように身震いした。一旦そこに囚われたなら最後、逃げることは出来ない。そう思わせる目に、ぞっとするものを覚えたのだ。恐怖とは、少し違う。しかし、暖かくもあって冷たくもある、上手く言葉に言い表すことのできない何かに、どうしようもなく落ち着かない気持ちにさせられるのは確かだった。

「少々頑固だがその分真っ直ぐな良い奴だから、仲良くしてやってくれ!」

 シンドバッドの声と、それに答えるようにわっと広場から弾けたざわめきが、私の思考を断ち切った。シンドバッドは今やしっかりと私を見ていたけれども、先程の あのどこかぞっとする目ではなく、ただ穏やかな優しい目をしていたので、正直なところほっとした。それを顔に出すようなことはしないものの、またあの目を向けられては敵わないと感じていたのは事実である。
 私がそのようなことを考えていたと知ってか知らずか、シンドバッドは当然のように私の手を取って微笑んだ。
 この後は挨拶を兼ねてシンドバッドと共に街を練り歩くことになっている。とはいえ、今夜は国民のほとんどが一所に集まっているはずであるから、練り歩くというのは少々大袈裟かもしれなかった。実際にいざ王宮を出てみれば、瞬く間に人々のほうから集まってきて、街を歩くどころではなくなってしまった。

「まさか貴女が、薬草師だなんて!」

 そう叫ぶのは、いつか私の手を尊いと言ってくれた女性で、私は目を見開いた。彼女たちが礼を言いに王宮までやって来た日以来、一度も会うことがなかった名も知らない彼女は、あの日と変わらず凛とした空気を纏っている。けれども、今日は少しだけ動揺しているようだった。

「ねえ、ただの薬草師ではないでしょう、だってあんなに」

 あんなに、の続きを知ることは出来なかった。彼女を押し退けるようにして、次から次へと人が押し寄せてくる。辛うじてちらりと不満げに口を閉ざしたのが見えたものの、すぐに人込みの中に紛れてしまった。私が言葉を発する暇さえない。
 不意に、シンドバッドが私の肩を抱き寄せた 。そうでもしなければ、私も人込みに飲み込まれて揉みくちゃにされてしまうと思ったのだろうか。

「まあ、落ち着け。皆がエルを歓迎してくれるのは嬉しいが、押し潰すのは勘弁してやってくれよ」

 笑いながらシンドバッドが言う。そうして人々の波が穏やかになり、そのとき漸く私は気がついた。すぐ側まで来ている人々の顔には、ことごとく覚えがある。あの日誰よりも深々と頭を下げていた老人や、真っ先に握手を求めてきた女性、いつか薫製をおまけをしてくれた気の良い店主──見覚えのある顔ばかりなのだ。

「やっと貴女の名前を知ることが出来ました」
「あのご恩は、決して忘れません」

 私が言葉を探しているうちに、彼らは誰かによく似た笑顔を浮かべ口々に言う。

「シンドリアへようこそ!」

150827 
- ナノ -