涙はどこかで海になっているらしい


side ジャーファル


 彼女の泣き顔は何度か見たが、それはいつもぽろぽろと雫が零れてくるだけの、いわば綺麗な泣き顔だった。けれども今目の前にある泣き顔はそうではない。顔をくしゃくしゃに歪め背中を丸めて泣くその姿は、情けなくて、子供染みている。しかしその姿は、今まで見てきたどんな彼女よりもずっと人間らしかった。
 しゃくりあげる彼女を見ていると、落ち着きを取り戻した自分が勝手に自分の言動を省みる。何やら色々なむず痒い事を口走った気がする。存外自分は彼女に対して言うつもりのなかったことまで言ってしまったようだが、どれも今更引っ込めることは出来ない。
 例えば彼女が罪を償うと言って死んだとして、その死を正当化することは、どうしてもしたくなかった。そこには立派な理屈などなく、単なる我が儘であったのかもしれない。
 まるで自分の生を不当とされるかのようで。自分自身も死なねばならない存在だと突きつけられるかのようで。私はまだ死ねない、死ぬわけにはいかないし、死にたくない。犯した罪は忘れてなどいないし、許されることでもないと分かっているが、それらを背負って生きる覚悟をし、ここまで歩んできたつもりである。
 それなのに、と。彼女の言い分がそれらを否定しているような感覚を、いつの間に覚えたのだろう。彼女が既に開かれているはずの生きる道を見ない振りをして、わざと道を逸れようとしていたからだろうか。自分でも気づかぬ間に芽生えてしまったその感覚が苛立ちとなり、彼女を受け入れがたく思う原因となっていたなら──今はもう問題ないような気がした。
 彼女はまだ泣いている。子供のように泣いている。話の再開を急ぐ理由もないのだし、泣き止むまで待つことにしよう。

***

「──落ち着きましたか?」
「う、はい、お見苦しいところを、お見せしました…」

 鼻をすすりながら彼女は目を擦った。すっかり赤くなった目は、暫くは腫れて重たくなるだろう。指先の動きはまだぎこちないが、目覚めた直後に比べれば幾分マシになっているように見える。用意していたカップを差し出せば、彼女は危なっかしくも受け取って眉を寄せた。

「…これは?」
「滋養水です。毒は入っていませんよ」
「それは分かります、けど……」
「何か問題が?」
「いえ……ただ、私が知っているものより、匂いが薄いなと」
「それはすみませんね。私は貴女ほどその分野に通じていないので、あまり上質なものは作れないんですよ」
「ジャーファル様が作られたんですか…!?」

 そうだという意味を込めて頷き、目を丸くする彼女に早く飲むよう促した。確かにこの滋養水は、上質であればあるほどに濃香を放つ。私は彼女の回復を誰よりも信じていなかったから、彼女が目を覚ましたとき話も訊けずにそのまま衰弱されては困ると思い、用意してはみたものの、本来私の得意とするところではないのだ。
 彼女は目を二、三度瞬かせ、口を付けた。先程上手く水を飲めなかったことを気にしているのか、ゆっくりとカップを傾けて飲み下していく。今度は零すことなく全て飲み干した彼女は、律儀に「ごちそうさまでした」と空になったカップを差し出した。

「出過ぎたこととは思いますが、次に作るときはもう少し時間をかけて煮詰めると良いかもしれませんね」
「私はもう作りませんよ。次、必要になったときは、貴女が作ってください」
「……ええと」

 どう答えるべきか分からなかったのだろう。彼女は眉を下げ口ごもる。複雑そうな表情で、しかしどこか憑き物が落ちたようでもあった。

「私はもう、この国に居られないのでは……」
「誰がそんなこと言ったんです?」
「え、でも」
「シンは『出て行け』ではなく『勝手にしろ』と言ったんですよ」
「……あ」

 ぽかんとする彼女は、信じられないものを見るように私を見た。「え、ですが……」見るからに困惑している彼女は、嫌味のつもりだろうか「貴方がそれを言うんですか?」と言って怪訝さを隠しもしない。彼女の言う通り、確かに私が言うのには些か滑稽であった。何と説明するべきかは、自分にも分かりかねているというのが正直なところである。それでも、一つだけはっきりしていた。

「貴女に暗殺の目的が無いこと、それから──諜報の意図が無いことは、恐らくもう疑うだけ無意味でしょうから」
「え……」
「これで全てが偽りで、貴女の策略だったというなら大したものですよ。完全にお手上げです」
「だ…だったら尚更、疑い続けるべきでは」
「最初だけならともかく、ここまできて更に自ら疑いを向けさせる間者などいないでしょう。それとも本当に間者なのですか? その上で、疑って欲しいとでも?」
「え…あ、いえ、」
「もう良いんです。これで騙されていたというのなら仕方ない」

 少なくとも彼女のシンドバッド王への気持ちが揺らがない限り、彼女は彼を殺すことは出来ない。ならば、シンドリアにとって本当の脅威には成り得ない。これには確信がある。
 だからといって、全てが彼女の策略なのではという懸念が綺麗さっぱり消えたわけでは無いが、それでも、もう良いと思ってしまったのだ。何がそうさせたのだろう。今回の件における何かであるのは確かだった。しかし、具体的に何であるかは判然としない。国民を助けたことか。生死をさ迷ったことか。生きていて良いと言ったときの表情か。それこそ正に彼女の策にはまったのかもしれないが、だとすれば彼女は、元々私の手には負えなかったのだ。

「貴女が私達を騙そうとしているなら、騙されていてあげます。その代わり、貴女を信じている人達に──ヤムライハ達に、騙されていると悟らせないで下さい。騙されていることが分かったその時は、容赦しません」
「……眷属器で、私を殺しますか」
「ええ、迷わずに。敵であることが明晰になったなら、王も仕方のないことだったと分かって下さるでしょう」

 あるいはそれが本望ですかと問うのは止めておいた。否、訊くまでもなかったようで、彼女が小さな声で言う。

「元より騙してなどいませんが、騙していると思われないよう気をつけますね。……私はまだ、生きていたいから」

 嗚呼。彼女のこの言葉を一番に聞くのが、まさか自分だとは思いもしなかった。
 誰よりもこの瞬間を待ち望んでいたはずのあの人は、今何を思っているのだろうか。彼女のことを誰よりも大切に思っていたのは王であるだろうに。

「では、報告に行かなければいけませんね」
「……ですが、顔も見たくないと言われたら……」
「いくらなんでも、王もそこまで子供じゃありませんよ」

 唇を噛み締める彼女は迷っているようで、何だかよく分からない言葉をもごもごと呟いている。「エルハームさん」初めて名前を呼べば、泣き腫らした赤い目を皿のようにして私の顔を見た。時折馬鹿だが、しかしそれでも聡い彼女ならば、これ以上何か言わずとも分かっているだろう。
 ぱちぱちと瞬きをして目を伏せた彼女は、ゆっくりと息を吐き出した。それに併せて、丸めていた背中がすっと伸ばされる。
 もう彼女に、迷いはない。

141023 
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