両の目から降る雨


「いざ死を目前にして、死ぬことを怖いと感じました。何もかも失うことが怖くて仕方なくて……、未練などないと思っていたのに、私は、未練の塊でした」

 自然と視線は下を向いて、涙は手の甲に落ちた。じんわりと温みは広がるけれども、冷えた手を温められるほどではない。私がぽつぽつと話すのを、ジャーファル様は何も言わずに聞いていた。

「私は、何の恨みもない人の命を奪ってきました。命乞いをされても、容赦なく、殺した。だから、私も同じ様に殺されるべきだと、そう思って…、なのに私、死にたくないと……本当に、身勝手で、」
「それが、人というものでしょう」
「……え?」

 視線を上げると、ジャーファル様がなんとも形容しがたい複雑な表情をしている。呆れと苛立ちと憐れみと、様々な感情が全て一緒くたになったような顔だ。

「誰だって自分が生きる為に必死なんですよ。貴女が自分自身をどれだけ立派な人間だと思っていたんだか知りませんが、大抵の人間はいつだって自分が一番可愛いし、それは決して誰にも咎められることではありません。自分を生かせるのは、結局のところ自分しかいないんですから」
「でも、だけど、私……人を殺して」
「……人殺しは世界にあんた一人じゃない。私だって人殺しだ。自分が生き残るために、何人も──自分の親でさえも…殺した…!」

 私はただ目を見開くしかなかった。いつも冷静さを保っていたジャーファル様が語気を強めている。そして、恐らく彼にとって薄暗く忌まわしい部分を、自らの口で語っているのである。

「それでも、私はまだ生きている」

 その時、私は知った。私が恨んで羨んだ少年は、私と変わりなかったのだ。彼もまた、望まぬ形で他人の命を奪い、生き長らえ──苦しみを味わった。私と彼とに大きな違いが無いならば、私が私を責めることは彼を責めると同義である。私が人殺しであるが故に死なねばならないならば、彼もまた死なねばならない存在だと、私の死によって突きつけることになるのだ。彼の生きたいという思いを、過去を乗り越え歩んできたこれまでを踏みにじることに他ならない。
 当然彼は、私の態度に苛立ちもしただろう。思うところは多かったに違いないのに、それでも、今の今までずっと全てを穏やかな表情に隠していたのである。それがどれほどの精神力を必要とすることか。不意に、船の上でシャルルカンに言われた言葉を思い出した。『自分自身を許せないってのは勝手だろうけどよ。それでエルハームさんが死んだら、肩身が狭くなっちまうヤツもいっぱいいるんだからな』あの言葉の意味を、私は今更思い知ったのである。
 じっと射抜くような目でこちらを見ていたジャーファル様は、徐に一歩踏み出しベッドの傍らに立った。ヤムライハとは少し違うけれども同じく白いジャーファル様の手が、私の肩をがしりと掴む。力は存外強く、見上げた双眸は揺らいでいた。

「死ねば罪を贖えるとでも? 貴女が死んだところで何も変わりません、貴女が殺した人間は誰一人帰っては来ないし罪は消えない!」
「そんなこと、わかってます……」
「分かってない! 貴女が死んでも生きていても同じなら、生きてこそ償いが出来るってもんでしょう!? 貴女の他殺願望は、そんなのは──ただの逃げだ」
 
 息が詰まる感覚がした。何か、何でもいいから反論しなければ、と思う。けれども上手い言葉は見つからないし、胸が締め付けられる感覚が思考の邪魔をする。肩を掴む手にいっそう力が込められてぎりぎりと痛のも、思考を疎かにさせていた。はっとしたジャーファル様が肩から手を離しても、掴まれたところが熱を持っているかのように熱くどくどくしている。

「……暗殺者としてのこれまでがどれだけ不本意で、犯した罪がどれだけ重いとしても、そこに罪の意識があるなら死ぬべきではありません。むしろ生きて償うことが、貴女がこれから乗り越えるべき運命なのではありませんか」

 先程よりずっと落ち着いた口調でジャーファル様が言う。決して淡々としているわけではなく、静かな中に力強さのある、染み渡るような声だった。
 この人は、こんな風にも話せるのか。
 そんな驚きと、僅かな蟠り。
 シンドリアで出会ったひどく優しい人々は言うのだ。死ななくて良い、生きろと。けれども私は、許されるべきでないことをした。本当の死の淵に立って初めて生きたいと思った、思ってしまった、それは紛れもない事実ではある。しかし、それでも私は。いつまでも、永遠に、人殺しだ。
 ゆっくりと吐き出す息が情けなく震えた。

「こんな私が、生きていても良いんですか…?」
「……仮に貴女に生きることが許されていないなら、そもそもこうして起き上がってなどいなかったでしょう。それに、こんな私が生きているのですから、」

 どくん、心臓が大きく鼓動を打つ。

「貴女も、生きていて良い」

 その瞬間、胸の奥にずっと居座っていた何かがぱちんと勢いよく弾けて消え去ったような気がした。堰を切ったように、何か分からないものがたくさん押し寄せてくる。それはついに外へと溢れてきて、目から熱いものがぼろぼろと流れ出した。この国へ来てから何度も流したそれとは違う。唇を噛み締めて必死に堪えようとすれば、ただ顔中がしわくちゃのぐちゃぐちゃになった。挙げ句には嗚咽まで零れる始末である。
 私は、生きていて良いんだ。
 誰かがそうと言い切ってくれることを、知らぬ間に望んでいたのかもしれない。生きていてはいけない咎人なのだと断罪したのは、他の誰でもなく自分自身だったのに。つくづく私という者はどこまでも身勝手で情けないけれども、しかし、ジャーファル様曰くそれが人であるらしい。私は自分の愚かさを知っていたつもりで、殆ど何も分かっていなかったのだ。
 握り締めた手は温みを取り戻している。ぎこちなくとも、私の意志で動く手が、確かにそこに存在している。嗚呼、私は生きているのだ。そう思うと、涙は止まるどころか益々勢いを増して、鼻をぐずぐず鳴らすいっそうみっともない私が出来上がるだけである。

「酷い顔ですよ」

 ジャーファル様は呆れたように言って──私の気のせいかもしれないけれども──少しだけ笑った。

「今初めて、貴女という人を見た気がします」

141017 
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